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第55章 幸せの代価

バスカラの執務室には、エアコンの稼働音が低く響いていた。しかし、トリアの耳にはそれが不快な耳鳴りのようにしか聞こえなかった。


彼女は客席の椅子に座り、背筋を硬く強張らせていた。膝の上で組んだ両手は白くなるほど強く握りしめられている。隣に座るユダの姿勢は対照的に落ち着いて見えたが、その鋭い顎のラインは固く結ばれ、未だ消えぬ怒りの残滓を感じさせた。


人事部長のバスカラ・リンタンは、重いため息をついた。彼は老眼鏡を外し、鼻梁を指先で揉んだ。それは、普段部下の前では決して見せない疲労の仕草だった。


「単刀直入に言おう」バスカラは重々しく、しかし穏やかな声で切り出した。「先ほどのロビーでの騒動……あれは単なる喧嘩では済まされない。問題なのは、タイミングと場所だ」


ユダが何か言いかけようとしたが、バスカラは手を挙げてそれを制した。


「それが正当防衛だったことは分かっている、ユダ。友人としては、トリアを守るために君が取った行動を誇りに思うよ。だが、人事責任者としては伝えなければならない。あの時、ロビーには役員との打ち合わせのためにジャカルタから二人のVIP客が到着していたんだ」


トリアの肩がびくりと跳ねた。伏せられた顔がさらに深く沈み込む。罪悪感が、物理的な衝撃となって彼女のみぞおちを突き上げた。


「彼らはすべてを見ていた」バスカラの声のトーンが下がり、同情の色が混じる。「役員たちは怒ってはいない。緊急事態だったことは理解している。だが、公式な書面での説明を求めてきている。詳細な経緯、なぜ外部の人間が侵入して攻撃できたのか、そして今後の再発防止策についてだ」


バスカラは父親のような慈しみのこもった視線をトリアに向けた。


「トリア、これは懲戒処分(SP)ではない。上層部の懸念を鎮めるための、あくまで事務的な手続きだ。君はこの件の被害者であり、会社は君を守り続ける。だが、手順は手順だ」


トリアは力なく頷くことしかできなかった。「分かりました……申し訳ありません……」


「謝る必要はない」ユダが鋭い声で遮った。彼はトリアを見つめ、それからバスカラに向き直った。「報告書は俺が書きます、バスカラさん。トリアに事務的な負担をかける必要はありません」


バスカラの口元に微かな笑みが浮かんだ。ユダの誠実さに、どこか誇らしさを感じているようだった。


「ああ、君ならそう言うと思っていたよ。トリア、君はデスクに戻ってもいいし、もし辛ければ早退しても構わない。今日は大変な一日だっただろう。ユダ、君は少し残ってくれ。他人に付け入る隙を与えないよう、報告書の構成を練る必要がある」


トリアはゆっくりと立ち上がったが、足元はまるでゼリーのように頼りなかった。部屋を出る直前、彼女の視線はユダの顔に釘付けになった。


彼の口角には、青く変色し始めた小さな切り傷があった。その瞳には疲労の色が滲み、目の下には薄い隈ができている。


いつも完璧で威厳に満ちていたはずの彼が、今はひどく乱れている。そして、その原因はすべて自分にあるのだ。


(私のせいだ……)トリアの心の中で悲鳴が上がった。(私と出会うまで、ユダのキャリアは輝かしいものだった。彼はここの王子様だったのに。それが今、私のくだらない過去のせいで役員への釈明に追われている)


「失礼します……バスカラさん。ユダ……」


トリアは消え入りそうな声で告げた。ユダは優しく頷いた。「ああ、トリア」


トリアは背を向け、粉々に砕け散った心を引きずるようにして部屋を後にした。


◇◇◇


執務エリアへと続く廊下は、ひどく長く、冷たく感じられた。トリアの足音が響くたびに、自らの破滅へのカウントダウンを刻んでいるかのようだった。


給湯室の角を曲がった時、その影はそこに立っていた。腕を組み、壁に寄りかかりながら、吐き気を催すような薄笑いを浮かべている。


ユニ・ララサティだ。


彼女は避けるどころか、わざとトリアの行く手を塞ぐように立ちはだかった。肩が並んだ瞬間、ユニは顔を近づけてきた。高級な香水の香りに、どろりとした悪意が混じり合う。


「言ったでしょう?」ユニは蛇のように滑らかで毒のある声で囁いた。「あなたはユダにとって毒でしかないって。今の彼を見てごらんなさい。傷だらけで人事に呼び出されて、社内中の噂の種……。あなたみたいな問題のある女のせいでね」


トリアは凍りついた。その言葉は、すでに脆くなっていた彼女の防壁を容易く貫き、最も弱い場所を正確に射抜いた。


ユニは体を起こし、見下すような視線をトリアに投げた。「もし少しでも自覚があるのなら……ユダのキャリアを救うために何をすべきか、分かっているはずよね」


爆弾を投げ落としたユニは、優雅な足取りで去っていった。静まり返った廊下に取り残されたトリアは、激しく震えていた。


トリアは爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握りしめた。溢れ出しそうな涙をこらえるには、その肉体的な痛みが必要だった。彼女は深く息を吸い込み、重い足を動かして自分のデスクへと戻った。


席に着くなり、ミラとセラが椅子を回転させてこちらを向いた。二人の顔には隠しきれない不安が広がっていた。


「トリア! どうだった? バスカラさんに怒られた?」ミラが小声で早口に尋ねた。


トリアは口角を無理やり上げ、痛々しい偽りの笑みを作った。


「ううん、大丈夫。バスカラさんはすごく優しかったわ」トリアの声はかすれていた。「ユダが経緯を説明するだけでいいって。バスカラさんも、問題にならないように報告書を手伝ってくれるって言ってたわ」


「ふう……よかった!」セラは胸をなでおろし、安堵のため息をついた。「懲戒処分にでもなったらどうしようって、本当に怖かったんだから」


「本当よ。バスカラさんが話のわかる人で助かったわね。他のマネージャーだったら、自分に火の粉が飛ばないように切り捨ててたかもしれないわ」ミラが同意した。


「さあ、二人とも仕事に戻って。私も少しデータを整理するから」トリアは努めて平穏を装った。


ミラとセラは頷き、嵐は去ったと信じてそれぞれのモニターに向き直った。


トリアは自分の席に座り、光る画面を見つめた。キーボードの上に置かれた指が震えている。彼女が開いたのは、ベンダーのデータではなかった。


文書作成ソフトの真っ白なページが、彼女を問い詰めるように見つめ返してくる。バリで夢見たはずの未来のように白く、しかし今は汚されてしまったページ。


震える手で、滲む視界を堪えながら、トリアは文字を打ち込み始めた。


『退職願


アルカディア・プライム


人事部長 バスカラ・リンタン殿』


一文字打つごとに、自分の心臓を切り刻んでいるような感覚に陥った。去りたくはなかった。この仕事が好きだった。仲間たちが好きだった。そして何より、向かいの部屋に座るあの人を愛し始めていた。


だが、その愛が今はあまりに身勝手なものに思えた。自分がここに留まれば、ユダは永遠に自分の過去という泥沼に引きずり込まれ続ける。ハルランは止まらないだろう。そしてユニの言う通り、自分は毒なのだ。


トリアの涙が、手の甲にぽつりと落ちた。彼女はミラやセラに見られないよう、素早くそれを拭った。送信する勇気はまだなかったが、下書きを個人フォルダに保存した彼女の決意は、すでに固まっていた。


これが、ユダを救う唯一の方法なのだ。


◇◇◇


その日の帰路は、皮肉なほど美しかった。バリの空は紫と金色の見事な夕焼けに染まっていたが、ユダの黒いセダンの中は灰色に沈んでいた。


ユダは努めて明るい雰囲気を作ろうとしていた。アップテンポな曲を流し、報告書を作成している時のバスカラの滑稽な様子を話し、アルデンの喋り方を真似てみせたりもした。


「なあ、トリア。バスカラさんのやつ、あんな時に『ユダ、あのフックはどこで習ったんだ? 実に鮮やかだったぞ』なんて聞いてくるんだ。俺をボクサーか何かだと思ってるのかね?」


ユダは笑ったが、その瞳に笑みは宿っていなかった。彼は時折、隣で黙り込んでいるトリアに視線を送った。


彼女はただうつむき、バッグのストラップをいじり続けていた。微笑みも、相槌もない。そこにあるのは、痛々しいほどの沈黙だけだった。


車が赤信号で止まった。ユダはため息をつき、空元気を取り繕うのを諦めた。彼は左手を伸ばし、トリアの肩に触れようとした。


「トリア……」


その接触が、昼間からトリアが必死に支えていた堤防を決壊させた。


「ごめんなさい……」


その一言が、堰を切ったような泣き声とともに溢れ出した。


「ごめんなさい、ユダ……本当にごめんなさい……」トリアは両手で顔を覆い、肩を激しく震わせた。「私のせいで怪我をして……私のせいでキャリアまで危うくなって……私はバカだわ……疫病神なのよ……」


「おい、トリア……そんな風に言うのはやめろ!」


信号が青に変わったが、ユダは車を路肩に寄せ、ハザードランプを点滅させた。シートベルトを外し、トリアの方へと体を向けた。


「俺を見てくれ、トリア」ユダは厳しく、しかし慈しむように促した。


トリアは首を振り、顔を隠したままだった。「私と関わるべきじゃなかったのよ……放っておいてくれればよかったのに……」


ユダは顔を覆うトリアの手を優しく、しかし拒絶を許さない強さで引き寄せ、彼女を自分に向き合わせた。トリアの瞳は赤く腫れ、深い罪悪感に満ちていた。


ユダは長く息を吐き出すと、トリアの頭にそっと手を置き、落ち着かせるようにゆっくりとその髪を撫でた。


「いいか、よく聞け。この唇の傷なんて二日もあれば治る。役員への報告書なんて、ただの紙切れだ。俺のキャリアは、愛する人を守ったくらいで壊れるほど脆いもんじゃない」


トリアは息を呑み、言葉を失った。


「だからお願いだ……自分を責めるのはやめてくれ。悪いのはあいつだ。ハルランが間違っているんだ。君じゃない。君がここにいることは、俺にとって不幸なんかじゃない。むしろ、その逆なんだ」


ユダは親指でトリアの頬の涙を拭った。


「さあ、帰ろう。君に必要なのは休息であって、罪悪感じゃない」


◇◇◇


ユダの車がシャニアの家の前で止まった。


エンジンを切る間もなく、玄関のドアが勢いよく開いた。シャニアとナディアが、悲痛な表情で駆け寄ってくる。帰宅前にユダから短い連絡を受けていたのだ。


トリアが車から降りると、ナディアがすぐに彼女を抱きしめた。


「ああ、トリア……大丈夫? 怖かったわね」ナディアの声は心配で震えていた。


シャニアはトリアの顔を包み込み、怪我がないか確認するように見つめた。「あのクズ男……。今度現れたら、車で轢き殺してやるんだから!」


二人の女性は多くを語らず、トリアを家の中へと連れて行った。彼女が今最も必要としている、安全な場所へと。


庭では、アルデンが車に寄り添って立っているユダのもとへ、ゆったりとした足取りで歩み寄った。アルデンはボンネットに背を預け、疲れ果てた親友を見つめた。


ユダは顔を荒っぽく拭い、絶望に近い眼差しをアルデンに向けた。


「分からなくなったよ、アルデン」ユダの声は掠れていた。「トリアに近づいた俺の判断が、本当に正しかったのかどうか」


アルデンは何も言わず、ユダが言葉を吐き出すのを待った。


「俺が強引に彼女の人生に入り込んだせいで、あのハルランが余計に暴走してるんじゃないかって。トリアがまた標的になって……彼女はまるで自分のせいで世界が終わるみたいに、罪悪感に押しつぶされそうになってる」


ユダは苛立ちをぶつけるように地面の小石を蹴った。アルデンは体を起こすと、ユダの肩を力強く抱き寄せた。そして、男同士の連帯を示すように、その肩をぽんぽんと叩いた。


「いいか、ユダ。この世で本当に価値のあるものは、決して簡単には手に入らないんだ」アルデンは真剣な眼差しで諭した。


「手に入れるまでの試練が重ければ重いほど……その対象は守るに値するものになる。もし道が平坦なだけだったら、君だって彼女のためにどこまで戦えるか、自分でも気づけなかったはずだ」


ユダは沈黙し、その言葉を噛み締めた。


「ハルランはただの試練だ。神様が、君のトリアへの愛がどれほど本物か試してるんだよ。もし怖気づいて今ここで引いちまったら、それこそハルランの言う通り、君はトリアにふさわしくない男だって認めることになっちまうぞ」


アルデンは言葉を切り、彼らしいニヤリとした笑みを浮かべた。そしてユダの腕を軽く小突いた。


「それに……ナディアから聞いたぞ。あのクズを関節技で固めてから、三連コンボを叩き込んだんだって? くぅーっ、最高にクールじゃないか、ブラザー!」


ユダは一瞬呆気に取られ、目を丸くした。それから、傷ついた唇からゆっくりと小さな笑いが漏れた。


「想像してみろよ。いつか君たちの子供が『パパ、ママとどうやって付き合ったの?』って聞いてきた時、胸を張って言えるだろ。『パパは昔、会社のロビーで悪いモンスターを必殺技でやっつけたんだぞ!』ってな。子供はヒーローのパパを持って大喜びだ」


ユダの笑いがようやく弾けた。親友の軽口によって、胸の重荷が少しだけ軽くなったのを感じた。


「ありがとう、アルデン。お前のおかげで、ようやく正気に戻れたよ」ユダは心からの感謝を口にした。


第55章、お読みいただきありがとうございます。 トリアの優しさが、裏目に出てしまう展開でした。 「彼を守るために離れる」という選択は、本当に正解なのでしょうか?

ユダの必死な慰めと、アルデンの励まし。 それでも、トリアの心はすでに決断を下していました。

続きが気になる方は、ブックマークやコメントをいただけると嬉しいです。 皆さんの感想が、私にとって一番の活力になります。

X(@mrnoxvane)やLINE(ID: noxvane)でも、お気軽にご連絡ください。 次章もお楽しみに。

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