第54章 幕間の毒
アルカディア・プライムのロビーは、瞬く間に混沌に包まれた。ミラ、セラ、アリンの三人が、力なく崩れ落ちるトリアを守るようにして、即席の人間ドラマの防波堤を築いている。
一方、ユダは一瞬の猶予も与えなかった。顎を硬く引き、氷のように冷徹な眼差しを向けた彼は、なおもトリアに手を伸ばそうとするハルランの手首を掴み取った。単純だが確実な関節技でその腕を捻り上げると、酔った男の強引な拘束を力ずくで解除させる。
ユダはハルランの胸を強く突き放した。男の体は数歩、無様にたじろぐ。
「ここから失せろ、ハルラン!」
ユダの怒声が大理石のロビーに低く響き渡った。
平衡感覚を失い、アルコールに理性を焼かれたハルランは、その屈辱に耐えられなかった。顔を真っ赤に染め、憎悪に満ちた目をぎらつかせる。
「ヒーロー気取りか、この野郎!」
ハルランは獣のように突進し、ユダの顔面を狙って無軌道な拳を振り下ろした。ユダは辛うじてそれをかわしたが、ハルランの拳は唇の端をかすめ、鋭い痛みと鉄錆のような血の味が口の中に広がった。
固唾を呑んで見守っていた社員たちの間から、悲鳴にも似た驚愕の声が上がる。
ユダの堪忍袋の緒が切れた。防衛本能が彼を支配する。ハルランが再び盲目的に殴りかかってきた瞬間、ユダは左腕でその一撃を弾き飛ばし、間髪入れずに三発の鋭い打撃をハルランの鳩尾と脇腹に叩き込んだ。
ドカッ! ドカッ! ドカッ!
ハルランは激しく咳き込み、苦痛に体を折り曲げた。彼が体勢を立て直す隙も与えず、ユダは渾身の右フックをその顎に叩きつける。
ゴンッ!
ハルランの体は弾き飛ばされ、硬い床に激しく叩きつけられた。男は顔を押さえたまま、呻き声を漏らして動かなくなった。
「やめなさい! 警備員! 今すぐ彼を拘束しろ!」
バスカラの重厚なバリトンが騒動を切り裂いた。人事部長である彼は、三人の警備員を連れて駆け寄ってくる。警備員たちは手際よく、意識が朦朧としているハルランを取り押さえると、その腕を後ろ手に回してロビーの出口へと力ずくで引きずっていった。
ユダは荒い息を吐きながら、ハルランが消えていった扉を鋭い目で見据えて立ち尽くしていた。手の甲で傷ついた唇の端を拭うと、肌に薄く赤い跡が残る。
背後からは、トリアの胸を締め付けるような泣き声が聞こえてきた。彼女はミラの肩に顔を埋め、激しく体を震わせている。セラとアリンは彼女に寄り添い、好奇や疑念、そして恐怖の入り混じった数十の視線からトリアを隠そうとしていた。
野次馬たちの間で、蛇が這いずるような囁き声が広がり始める。
「信じられない、ユダさんがあんな風に争うなんて……」
「あの男、新人の婚約者じゃないの?」
「まさか、ユダさんが略奪したとか? だからあんなに怒ってたんじゃ……」
そこから少し離れた場所で、ユニ・ララサティが薄く笑みを浮かべていた。柱の陰に身を隠した彼女の手には、録画を終えたばかりのスマートフォンがある。動画を軽く再生し、ユダとトリアの顔が鮮明に映っていることを確認すると、彼女は満足げに端末をバッグに収めた。
「完璧ね」
低く呟くと、彼女は背を向け、静まり返った社員用エレベーターの中へと姿を消した。
◇◇◇
ユダは唇の痛みなど意に介さず、ロビーの隅に固まっている一団へと歩み寄った。トリアの姿を目にした瞬間、先ほどまでの険しい表情が嘘のように和らぐ。
「トリア……」
ユダが静かに声をかけると、トリアは涙に濡れた顔を上げた。ユダの唇の傷を目にした途端、彼女の涙はさらに溢れ出した。
「ごめんなさい……ごめんね、ユダ……私のせいで、あなたが傷ついて……本当にごめんなさい……」
嗚咽の合間に、トリアはうわ言のように謝罪を繰り返す。
ユダは周囲の視線を無視して、彼女の前に片膝をついた。そして、トリアの肩を優しく、だがしっかりと支える。
「しっ……謝る必要はない。君は何も悪くないんだ」
ユダは断固とした口調で告げると、顔を上げてミラ、セラ、アリンを見つめた。「彼女を守ってくれてありがとう」
「いいのよ、ユダさん。それより、その唇は大丈夫?」アリンが心配そうに尋ねる。
「かすり傷だ」
ユダは短く答えた。視線の端で、未だに囁き合いながらこちらを伺っている社員たちを鋭く睨みつける。この状況がトリアにとって決して良くないことは明白だった。
「トリアを上へ連れて行こう。ここは……少し騒がしすぎる」
ユダの言葉に、ミラとセラは深く頷いた。彼女たちはトリアを支えてエレベーターへと向かい、アリンがそれに続く。ユダも後を追おうとしたが、その足を止める声があった。
「ユダ!」
プロジェクト部門の同僚三人組が、通用口から血相を変えて駆け込んできた。彼らの顔には、今にも加勢せんとする好戦的な色が浮かんでいる。
「グループチャットがえらいことになってるぞ! 喧嘩したって本当か? 相手はどこだ!」
シニア建築家のリオが、シャツの袖を捲り上げながら鼻息荒く尋ねる。
「ああ、ユダ。どこのどいつが喧嘩を売ってきたんだ? 俺たちも一発食らわせてやるよ」
ユダは深く溜息をつき、自身の昂ぶったアドレナリンを鎮めようと努めた。「バスカラ部長と警備員が連れて行った。お前たちは遅すぎたよ」
「ちっ、間に合わなかったか。人のオフィスで騒ぎを起こすなんて、とんだ不届き者だ」リオが忌々しげに吐き捨てる。「警備室まで追いかけるぞ」
「待て!」
正面玄関から戻ってきたバスカラが、怒りに顔を赤くして立ちはだかった。彼はリオたちの行く手を遮るように両腕を広げる。
「警備室へ行くことは許さん! あとは警察に任せる。これ以上アルカディアの名を汚すつもりか!」バスカラが怒鳴りつける。「解散だ! 仕事に戻れ。さもなくば全員に始末書を書かせるぞ!」
普段は温厚な人事部長の剣幕に、男たちは気圧されて口を噤んだ。不満げな呟きを残しながらも、彼らはようやく引き下がっていく。ユダはバスカラに感謝の会釈をすると、トリアを追ってエレベーターへと急いだ。
◇◇◇
三階のフロアは、ロビーよりは静かだったものの、依然として張り詰めた空気が漂っていた。ユダがパントリー近くの応接スペースへ向かうと、そこにはミラとセラに付き添われ、温かい飲み物を手に座っているトリアの姿があった。
「様子はどうだ?」ユダが歩み寄る。
トリアの涙は止まっていたが、その瞳は虚空を見つめたまま、焦点が合っていない。
「少しは落ち着いたみたいだけど、手がまだ氷みたいに冷たいの」セラが報告する。
「それじゃあ、トリアをお願いね。私たちは先に戻るわ。急にデータを求められたりしたら厄介だし」ミラが言葉を添える。
ユダは静かに頷き、トリアの正面に椅子を引いて座った。「トリア、家まで送ろうか? 今日はもう休んだ方がいい。バスカラ部長には私から話しておく」
トリアは力なく首を振った。手元の紙コップをぎゅっと握りしめる。
「だめ……私は新人なの。トラブルを起こした上に早退なんてしたら……きっと、みんなもっと私のことを悪く言うわ……」
掠れた声で、彼女は切実に訴えた。
ユダは痛ましげに彼女を見つめたが、その決断を尊重することにした。トリアはこの嵐の中で、プロとしての、そして一人の人間としての最後のプライドを守ろうとしているのだ。
「わかった。君がそう言うなら」ユダは折れた。「でも、もし無理だと思ったら、すぐに言うんだぞ」
ユダはトリアの呼吸が整うまで側に寄り添い、それから彼女を事務デスクまで送り届けた。ミラとセラが彼女を迎え入れ、今にも抱きしめそうなほど慈愛に満ちた眼差しを向ける。
トリアがパソコンを立ち上げ、仕事の中に自分を埋没させようとするのを見届けてから、ユダはようやく自分の執務室へと戻った。
◇◇◇
昼時に向けて、時間は緩慢に流れていった。オフィスの表面的な活動はいつも通りに見えたが、その水面下では、噂という名の濁流が激しく渦巻いていた。
二階のパントリーでは、ユニが財務部とマーケティング部のスタッフ三人に囲まれて立っていた。彼女はスマートフォンを手に、例の動画を小音量で再生している。
「見てよ、これ」ユニは芝居がかった口調で囁く。「ユダさんが可哀想。あの人、女性に関しては純粋だから、利用されてるのよ」
「その相手の男って、誰なんですか?」スタッフの一人が興味津々に尋ねる。
「新人の婚約者よ。ハルランっていう、ジャカルタで成功してるマネージャーらしいわ」ユニは毒を撒き散らし始める。「噂じゃ、男のキャリアが傾き始めたから、彼女はバリに逃げてきたんですって。それで、こっちに来るなり、昇進街道をひた走るユダさんに乗り換えたってわけ」
「うわ、最低……。金の切れ目が縁の切れ目ってこと?」
「まあ、そういうことね」ユニは偽りの溜息をついた。「野心のためなら何でもするのよ。ユダさんと一緒にいれば、昇進も早いしバリでの生活も安泰だと思ったんでしょうね。わざわざ追いかけてきた婚約者が不憫だわ」
その噂は、ウイルスよりも速く拡散していった。口から口へ、そして社員間の個人チャットへ。物語は書き換えられ、事実は霧の向こうへ消えていく。トリアはもはや暴力の被害者ではなく、二人の男を弄ぶ狡猾な野心家へと仕立て上げられていた。
そして午後二時、決定的な瞬間が訪れる。
トリアが必死にデータ入力に集中しようとしていた時、ポケットの中のスマートフォンとパソコンの通知音がほぼ同時に鳴り響いた。彼女だけでなく、ミラやセラ、そしてフロアにいるほぼ全員の端末が鳴ったのだ。
他部署のある事務スタッフが、故意か過失か、数百人の社員が参加する巨大なグループチャット「アルカディア・ファミリー - 全社員」にメッセージを誤爆したのである。
【リナ(物流事務)のチャット】
「ねえ、マジでユダさんが不憫すぎる。顔に傷まで作っちゃって。っていうか、あの新人も何なの? 私的な問題を職場に持ち込むなんて、プロ意識に欠けるにも程があるわ。婚約者との清算が済んでないなら、私たちの王子様に近づかないでほしい。職場をかき乱すトラブルメーカーでしかないじゃない」
静寂。
一秒、二秒。
誤爆に気づいたリナは、即座にそのメッセージを削除した(「このメッセージは削除されました」)。だが、遅すぎた。全員がそれを読んでいた。トリアも含めて。
トリアは虚ろな目でスマートフォンの画面を見つめていた。文字は消えても、「トラブルメーカー」「プロ意識に欠ける」という言葉は、彼女の脳裏に鮮明に刻み込まれている。
胸が詰まり、乾きかけていた涙が再び溢れそうになる。彼女は深くうつむいた。ビル中の人間に裸にされ、裁かれているような屈辱感に襲われる。
ミラとセラは、怒りに震える指で即座に返信を打ち込んだ。
ミラ・アニンディア:『リナさん、言葉を慎んでください。あなたは何が起きたのか、真実を知らないはずです』
セラ・カルティカ:『何も知らないのに勝手な憶測で責めるのはやめて。トリアは被害者よ』
しかし、彼女たちの擁護は虚しくかき消された。誰からも反応はない。グループチャットの沈黙は、騒音よりも残酷にトリアを突き放していた。全員が読み、全員が沈黙の中で彼女を断罪している。
◇◇◇
執務室の中で、ユダもまたそのメッセージを読んでいた。
彼はスマートフォンの画面を見つめたまま、石のように固まっていた。奥歯を噛み締めすぎて、顎に鋭い痛みが走る。リナのメッセージは、多くの社員が抱いている本音を代弁していた。彼らは怯えるトリアを見ようとはせず、ただ目の前の混乱だけを見ていた。
猛烈な無力感がユダを襲った。肉体的な暴力からは彼女を守ることができた。だが、この目に見えない毒は、拳で打ち倒すことはできない。トリアの評判は無残に引き裂かれ、上司としてのユダの誠実さまでもが疑問視されている。
「……クソッ!」
ユダは押し殺した声で毒づいた。机の上にあった高価な万年筆を掴むと、それを大理石の床に向かって全力で叩きつけた。
パキッ!
万年筆は無残に砕け散り、白い床にインクが飛び散った。それは、今まさに彼らが直面している、修復不可能なほどに荒れ果てた状況そのものだった。
第54章、お読みいただきありがとうございます。 物理的な暴力よりも、目に見えない「噂」の方が残酷かもしれない……。 トリアを取り巻く状況が、また一つ難しくなりました。
ユダの苛立ちと、トリアの孤立。 この先、二人はどうやってこの壁を乗り越えるのでしょうか。
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