第53章 迷走する執着
安宿の天井で回る古びた扇風機が、耳障りな軋み声を上げている。部屋の中は湿り気とカビ臭さが充満し、そこに重苦しい煙草の煙が混じり合っていた。
ハルランは薄いマットレスの端に腰を下ろし、スマートフォンを耳に押し当てている。その顔は怒りで赤黒く染まり、声を荒らげるたびに首筋の血管が激しく浮き上がった。
「俺がそんなことを気にすると思ってるのか!」ハルランは受話器の向こうへ怒鳴り散らした。「お前の顔を見るのが反吐が出るほど嫌になったから出てきたんだよ!」
電話の向こうから、クラリッサの甲高い声が毒を含んで響く。
「あら、今さら嫌になったっていうの? 私があなたの贅沢のためにどれだけお金を注ぎ込んだと思ってるのよ。どうせあのトリアって女を追いかけて行ったんでしょ? 恩知らずな男ね! あの偽善者の女のところへ戻るつもりなの!?」
クラリッサの口から放たれた言葉が、ハルランの脳内にある導火線に火をつけた。彼は立ち上がると、足元にあったリュックサックを壁に向かって力任せに蹴り飛ばした。
「黙れ! 誰をそんな風に呼んでるんだ、ええ!?」
ハルランの怒号が狭い部屋に響き渡る。
「鏡を見ろ、クラリッサ! 汚らわしいのはお前の方だ! 俺が何も知らないとでも思ってるのか? お前が他の男とホテルに入り浸ってることくらい、とっくに気づいてるんだよ!」
一瞬、沈黙が流れた。図星だったのだろう。しかし、クラリッサは罪悪感を覚えるどころか、冷ややかな嘲笑を漏らした。
「気づいていたなら好都合だわ。少なくとも、あの人はあなたと違って将来があるもの。ナワセナでのあなたの立場がもう崖っぷちだってこと、知らないとでも思った? あなたはもうすぐ失業者よ、ハルラン。ただの負け犬なの」
その言葉は、どんな物理的な打撃よりも深くハルランの自尊心を切り裂いた。怒りで指先が小刻みに震える。
「別れましょう。二度と連絡してこないで。その狂った執着と一緒に、そこで腐っていけばいいわ」
クラリッサは淡々と言い放った。
プツッ。通話が切れた。
ハルランは荒い呼吸を繰り返しながら、スマートフォンの画面を凝視した。悲しみなど微塵もなかった。むしろ、そのやつれた顔には、おぞましい笑みがゆっくりと刻まれていった。彼はスマートフォンをベッドに放り投げると、洗面台の上にある曇った鏡の前へと歩み寄った。
鏡に映る自分を見つめる。目は充血し、目の下には濃い隈が落ち、髪は乱れ放題だ。しかし、その瞳の奥には「自由」が宿っているように見えた。
「別れた……」
彼は低く呟き、不協和音のような笑い声を漏らした。
「ようやく、邪魔者が消えたんだ」
視線をずらし、鏡の端に貼り付けたトリアの写真を見つめる。人差し指で、写真の中の彼女の頬を独占欲に満ちた動きでなぞった。
「これで二人きりだ、トリア」
背筋が凍るような甘い声で囁く。
「あの女はもういない。全部やり直せるんだ。お前ならきっと許してくれる……ここで、ゼロから始めよう」
ブレーキを失った執着が、彼の中で暴走を始めた。もう、自分を止めるものは何もない。明日……そうだ、明日には、自分の所有物を取り戻しに行く。
◇◇◇
サヌールの朝は、澄み渡るような青空で幕を開けた。しかし、シャニアの家に漂う緊張感とは対照的だった。
表のテラスで、シャニアは仕事用のブレザーを整えながら腕時計を確認した。そして、玄関に立つトリアの方を振り返る。
「トリア、本当にごめんね。今日は一緒に行けそうにないの。チャングーで会議があるんだけど、あなたの会社とは正反対の方向なのよ」
申し訳なさそうな顔をするシャニアに、トリアは無理に微笑んで見せた。
「大丈夫ですよ、シャニアさん。ユダが迎えに来てくれるって言っていましたから」
「わかったわ。いい、何かあったらすぐに電話するのよ」
シャニアはトリアの頬に軽く触れると、車に乗り込み、慌ただしく去っていった。テラスに一人、トリアが取り残される。
それから五分もしないうちに、一台の黒いセダンが門の前に停まった。トリアは不思議そうに眉を寄せた。いつもなら、朝の渋滞をすり抜けるためにユダはスクーターで来るはずだった。
ユダが窓を下ろした。白いシャツの袖を肘まで捲り上げ、身なりを整えている。その顔には疲労の色が滲んでいたが、トリアの姿を認めると、それを隠すように穏やかな笑みを浮かべた。
「おはよう、トリア」
ユダが助手席のドアを開ける。
「おはよう、ユダ。今日は車なの? バイクはどうしたの?」
トリアが車内に入りながら尋ねると、ユダは一瞬言葉を詰まらせた。昨夜、バイクのブレーキワイヤーが鋭利な刃物で切断され、後輪のタイヤも切り裂かれているのを見つけた事実は伏せておきたかった。これ以上、彼女を怯えさせたくはなかったのだ。
「たまには気分を変えようと思ってね。君を埃っぽくさせたくないし」
ユダは軽く答えたが、その目は笑っていなかった。
車が住宅街を抜け出す。車内の空気は、先週の土曜日のデートの時とは明らかに違っていた。ジャズの調べはなく、ただエアコンの唸る音と、息の詰まるような沈黙だけが支配している。
トリアはスカートの裾を指先で弄りながら、隣に座るユダから発せられる緊張感を感じ取っていた。ハンドルを握る彼の両手には力が入り、指の関節が白くなっている。
数秒おきに、ユダの視線がバックミラーとサイドミラーを交互に確認する。背後にいる車両をすべて警戒し、スキャンしているかのようだった。
「ユダ……何かあったの?」
トリアの静かな声が沈黙を破った。
ユダはわずかに肩を震わせ、無理に作った笑顔で一瞬だけ彼女を見た。
「何でもないよ。ただ……今日の交通状況が少し変なんだ。乱暴な運転のバイクが多い気がしてね」
トリアは愚かではなかった。彼が嘘をついていることは明白だった。昨夜、彼が帰宅した後に何かが起きたのだ。冷静な彼をここまで苛立たせる何かが。
しかし、トリアはそれ以上追及しなかった。深く聞きすぎることで、彼の負担を増やしてしまうのが怖かった。
アルカディア・プライムまでの道のりが、ひどく長く感じられた。信号で停まるたびに、ユダは焦れったそうに指先でハンドルを叩き、周囲への警戒を緩めなかった。
◇◇◇
ようやく、太陽の光を反射して輝くアルカディア・プライムのガラス張りのビルが見えてきた。ユダはいつもの地下駐車場ではなく、メインロビーの車寄せに車を滑り込ませた。
「ロビーで降りよう。あまり歩かせたくないから」
二人は車を降りた。ロビーは出勤する社員たちで溢れかえっている。カードキーをかざす音やエレベーターの到着音が重なり合い、活気に満ちていた。
人の多さが、トリアにわずかな安心感を与えた。彼女はユダの隣を、歩調を合わせて歩く。
「昼食は外に出ず、社内の食堂で済ませよう」
ユダがノートパソコンのバッグを肩にかけ直しながら言った。
「ええ、お弁当も持ってきたし、そうしましょう」
受付の前を通り過ぎようとした、その時だった。ロビーの喧騒を切り裂くような、野蛮な叫び声が響いた。
「トリア!」
その声は掠れ、大きく、そして狂気に満ちた怒りを孕んでいた。
トリアの足が、床に釘付けにされたかのように止まった。顔から血の気が一気に引いていく。その声を知っていた。かつては甘えた響きで自分を呼んでいたその声が、今は飢えた獣の咆哮のように聞こえた。
ユダは即座に振り返り、本能的にトリアを庇うようにしてその前に立ちはだかった。
回転ドアの近くで、一人の男が警備員の制止を振り切って突き進んでくる。
ハルランだった。
しかし、トリアの記憶にあるハルランではなかった。目の前の男は、見る影もなく荒廃していた。シャツはしわくちゃでボタンも掛け違えられ、髪は脂ぎって乱れている。充血した瞳の周りには、深い隈が張り付いていた。
数メートル離れていても、酒の臭いと不潔な汗の臭いが漂ってくる。それは、洗練されたオフィスの香りを無残に汚していた。
「どけ、お前ら!」
ハルランは警備員を怒鳴りつけると、その血走った目でユダの背後に隠れるトリアの姿を捉えた。
「トリア!」
足元をふらつかせながらも、ハルランは猛烈な勢いで大股に歩み寄ってくる。ユダは防御の姿勢を取り、両手を広げた。
「そこまでだ! 近寄るな!」
ユダの鋭い声が、静まり返ったロビーに響き渡る。周囲の視線が一斉に彼らに注がれた。
ハルランは構わず突進した。ユダの手を荒々しく振り払うと、その逞しい腕でトリアの細い腕を掴み、ユダの保護下から強引に引きずり出した。
「ああっ! 痛いっ!」
腕を握りつぶされそうな衝撃に、トリアが悲鳴を上げた。
「離せ!」
ユダが叫び、ハルランを引き剥がそうと踏み出す。しかし、ハルランはトリアを背後の受付カウンターへと押し込み、逃げ場を奪った。
ハルランは狂気じみた眼差しでトリアを見つめた。酒臭い息が顔にかかり、トリアは吐き気と激しい恐怖に震えた。
「やっぱり……ここにいたんだな」
ハルランの声は、笑いと泣き声が混じったように震えていた。
「こんなところまで逃げてきて、他の男の愛人にでもなったのか、ええ!?」
「ハルラン……お願い……離して……」
トリアは涙を流しながら、途切れ途切れに訴えた。恐怖で体が硬直し、身動きが取れない。
「浮気してたんだろ!? 認めろよ!」
ハルランの怒声がさらに大きくなり、受付の女性たちが悲鳴を上げた。
「あの男のために俺を捨てたのか!? こいつのために!?」
ハルランは震える指先でユダを指差した。
ユダは拳を固く握りしめ、首筋に怒りの血管を浮かび上がらせた。
「言葉を慎め! 今すぐその手を離さないなら、警察を呼ぶ!」
ハルランは嘲笑した。それは壊れた楽器のような、不気味な笑いだった。彼は憎しみを込めてユダを睨みつけた。
「ああ、呼べばいいさ! お前が泥棒だってことを、世間に知らせてやる!」
ハルランは再びトリアの体を激しく揺さぶった。
「聞いたか、トリア? こいつはお前を利用したいだけだ! 洗脳されたんだろ!? お前は俺のものだ! 来年結婚するんだぞ、忘れたのか!?」
「あなたは、狂ってるわ……ハル……」
トリアは力なく呟いた。膝の力が抜け、ハルランの痛々しいほどの掴みがなければ、その場に崩れ落ちていただろう。
「俺は狂ってない! お前が俺をこうさせたんだ!」
ハルランは咆哮し、汚れた頬を涙が伝った。
「こいつらに言ってやれ、まだ俺を愛してるって! この男なんて、何の意味もないって言えよ!」
ロビーの状況は混乱を極めていた。野次馬たちがスマートフォンで撮影を始め、他の警備員たちが駆け寄ってくる。しかし、その喧騒の中でユダが見たのは、呼吸を乱し、紙のように真っ白な顔をしたトリアの姿だった。
もう、一刻の猶予もなかった。
ユダは電光石火の動きで踏み込んだ。殴るのではない。正確で容赦のない関節技を繰り出し、トリアを掴んでいたハルランの手首を捻り上げた。ハルランは激痛に顔を歪め、たまらず手を離した。
「いい加減にしろ!」
ユダはハルランの顔のすぐ近くで、低く地を這うような声で唸った。
解放されたトリアの体がよろめく。それを、エレベーターホールから駆けつけたミラがしっかりと受け止めた。
「トリアを連れて行け、ミラ! 今すぐだ!」
ユダは振り返ることなく命じた。その鋭い視線は、床に這いつくばり、無残に崩れ去った執着の成れの果てを晒しているハルランを、冷徹に射抜いていた。
第53章、お読みいただきありがとうございます。 ついにハルランが姿を現しました。 彼の執着が、どれほど歪んでしまったのか……胸が痛む展開でした。
ユダの冷静な対応と、トリアの恐怖。 この先、二人の関係はどう変わっていくのでしょうか。
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