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第52章 秘められたメッセージ

サヌールの朝は、いつもなら通気口から忍び込む潮風が穏やかな静寂を運んでくる。しかし今日、シャニアの家のリビングに漂う空気は、重く、息苦しいものだった。


シャニアはソファの前を、スマートフォンを握りしめたまま行ったり来たりしていた。床を叩くヒールの音が不規則なリズムを刻み、彼女の心の乱れを映し出している。


一方では、ジャカルタからのVIP客が打ち合わせを今朝に繰り上げてきた。見逃すことのできない大きなチャンスだ。しかしもう一方では、ソファの隅で青ざめた顔をして丸まっているトリアがいる。彼女を置いて仕事に行くなど、シャニアの良心が悲鳴を上げていた。


トリアはグレーのクッションを胸に抱きしめていた。それが自分を守る最後の盾であるかのように。彼女は親友の焦りを感じ取り、震える指先をクッションの下に隠しながら、無理に口角を上げて微笑んだ。


「シャニアさん、行って。大丈夫、一人でいられるから」


トリアの声は細かった。シャニアは足を止め、痛々しい表情で彼女を見つめた。


「あんな花が届いた後で、一人になんてできるわけないでしょう、トリア? もしあのサイコパスがここに来たらどうするのよ」


「ここはセキュリティもしっかりしてるし、門の鍵も二重にかけてあるわ。一歩も外に出ないって約束する」


トリアは説得するように言葉を重ねた。「あのクライアントは、あなたのキャリアにとって大切なんでしょう? 私の不安のせいで、プロとしての仕事を犠牲にしないで」


シャニアは苛立ち混じりのため息をついた。反論しようとしたその時、朝の静寂を切り裂くようにチャイムが鳴った。


ピンポーン。


トリアの体がびくりと跳ねた。血の気が引き、恐怖に満ちた目が固く閉ざされた玄関の扉に向けられる。


シャニアは手で「静かに」と合図を送った。警戒しながら扉に近づき、横の窓から外を覗き見てから、ゆっくりと鍵を開けた。


扉が開いた瞬間、シャニアの強張っていた肩から力が抜けた。


「……よかった、ユダ」


そこに立っていたのは、いつもの隙のないスーツ姿ではないユダだった。


ネイビーのTシャツにジーンズ、そして薄手のボンバージャケット。整髪料で固めていない髪が、自然に額にかかっている。


「おはよう、シャニア」


ユダは穏やかに挨拶をすると、すぐに家の中へと視線を走らせた。「トリアは?」


トリアはゆっくりとクッションを抱える力を緩め、困惑した表情で彼を見つめた。「ユダ? あなた……仕事は?」


シャニアに促されて中に入ったユダは、背後で静かに扉を閉めた。そして少しだけ口角を上げ、肩をすくめて見せた。


「急に休みを取ったんだ。理由は腹痛。本当は、君の専属警備員になりたくてね」


シャニアの目が、まるで救世主を見つけたかのように輝いた。彼女はユダの腕を力強く叩いた。


「本当に助かったわ、ユダ! 会議に行くべきか、トリアのそばにいるべきか、本気で悩んでたのよ」


ユダは深く頷いた。「行ってきなよ、シャニア。家のことは僕が責任を持って引き受ける。許可なくハエ一匹入れさせないから」


シャニアはすぐにテーブルの上のバッグを掴み、トリアの頬に軽くキスをした。「聞いた? イケメン警備員が来てくれたわよ。私、行ってくるわね! 内側から鍵をかけるのよ!」


シャニアの車の音が遠ざかり、家の中に静寂が戻った。それは先ほどまでの張り詰めたものではなく、少し気恥ずかしく、それでいて温かい沈黙だった。


ユダはすぐに座ろうとはしなかった。バイクの鍵をテーブルに置くと、リビングを歩き回り始めた。


「一度、周囲を確認してくる。君は座っていて」


トリアは頷き、彼の動きを目で追った。


彼は玄関の窓のクレセント錠が締まっているかを確認し、キッチンへ向かって裏口の鍵をチェックした。洗濯物干し場まで覗き込み、侵入経路がないかを確かめる。その動作は冷静で、無駄がなく、自信に満ちていた。


ソファに座ったまま、トリアはユダの逞しい背中を見つめていた。昨夜から恐怖で凍りついていた胸の奥に、安心感という名の熱がゆっくりと広がっていく。彼がこうして細部まで安全を確認してくれるだけで、あの黒バラの恐怖が少しずつ遠のいていくようだった。


「異常なしだ」


リビングに戻ってきたユダは、トリアと向かい合うように一人掛けのソファに腰を下ろした。


「さて、朝食は何がいい? それとも、もう少し眠るかい?」


トリアは首を横に振った。乾いた唇に、小さな笑みが浮かぶ。「もう眠くないわ。でも……ありがとう、ユダ。わざわざ嘘までついて来てくれて」


ユダは楽しそうに笑った。「あながち嘘でもないよ。狂った男がうろついているのに、君を一人にしていると思ったら、心配で本当に胃が痛くなりそうだったからね」


時間はいつの間にか昼へと向かっていた。他愛のない会話が、トリアの顔に残っていたトラウマの影を少しずつ消し去っていく。


昼食時になると、トリアは自分が料理をすると言い張った。何もしないでいると、まるで役に立たない病人のような気分になるからだ。


ミニマルなキッチンに、ニンニクと唐辛子を炒める香ばしい匂いが立ち込め、食欲をそそる。トリアがフライパンで空芯菜を炒める傍らで、手伝おうとして「邪魔になるから」と断られたユダは、大人しくテーブルに食器を並べていた。


「いい匂いだ。レストランの五つ星メニューみたいだね」


グラスを置きながらユダが褒める。


「大げさよ、ただの家庭料理なんだから」


トリアは火を止め、野菜を皿に移した。


二人は小さな食卓で向かい合って座った。窓から差し込む昼の光が、穏やかな空気を作り出している。まるで、長く一緒に暮らしてきた夫婦のような、そんな錯覚を覚える光景だった。


ユダは皿にライスを盛り、真面目くさった顔でトリアを見つめた。


「トリア、僕を一番ドキドキさせる『くも』って何だか知ってる?」


「……雨雲? 雨が降りそうだから?」


「違う。『きみ』という名の雲だよ。僕の心を全部覆ってしまうから」


「……っ!」


トリアの顔が一瞬で赤く染まった。呆れ半分、ときめき半分で、笑いをこらえきれない。


「寒すぎるわよ、ユダ! 何それ、人事部の親父ギャグみたい!」


トリアが声を上げて笑うと、ユダもつられて笑った。「寒くてもいいさ、君が笑ってくれれば。昨日からずっと、ギターの弦みたいに顔が強張っていたからね」


「トラウマになりそうな、誰かさんのギターの弦?」


「……それは否定できないな」


ユダの返しに、トリアはついに吹き出した。


彼女は笑いすぎて潤んだ目元を拭った。あの花のテロが起きて以来、初めて心が軽くなるのを感じた。肩に乗っていた重荷が一時的に取り払われ、一皿の空芯菜とくだらない冗談が、彼女を温かく包み込んでいた。


夕方、小雨が庭を濡らし始め、家の中はさらに静かで心地よい雰囲気に包まれた。


リビングでユダはソファに背を預け、シャニアの蔵書の一冊を読んでいた。足をゆったりと伸ばし、リラックスした様子だ。トリアはその足元のカーペットに座り、乾いた洗濯物を丁寧に畳んでいた。


深い会話はなかった。ただ、屋根を叩く雨音と、ページをめくる音だけが響く。


時折、ユダは本を下げて、一心にシャツを畳むトリアの頭頂部を見つめた。視線に気づいたトリアが顔を上げると、目が合う。言葉は交わさない。ただ、小さな微笑みを交わし合い、またそれぞれの作業に戻る。


その沈黙の中で、トリアはあることに気づいた。今日一日、ハルランの名前が恐怖と共に脳裏をよぎることは一度もなかった。黒バラの残像は、ユダという確かな存在によって塗り替えられていた。


読書に耽るユダの横顔を盗み見る。胸の奥から感謝の念が溢れ出し、それはさらに深く、根を張るような別の感情へと変わっていく。一時的な高揚感ではなく、一貫した安心感から生まれる愛情だった。


午後六時、シャニアの車がカーポートに入る音がした。


玄関の扉が開き、疲れは見えつつも晴れやかな表情のシャニアが現れた。その手には、甘い香りのするビニール袋が握られている。


「貢物を持って帰ったわよ!」


「おかえりなさい、シャニアさん」


「留守番をしてくれた二人に、特製チーズマルタバよ」


シャニアは包みをテーブルに置くと、ユダの隣のソファに体を投げ出した。「もう、会議が長引いて大変だったわ。でも、無事に契約成立よ」


「おめでとう、シャニア」


ユダが心から祝福すると、シャニアはユダとトリアを交互に見て、意味深な笑みを浮かべた。「二人とも、なんだか新婚さんみたいに仲睦まじいわね。うふふ……」


ドクン、とトリアの心臓が跳ねた。


彼女は顔を真っ赤にし、慌てて立ち上がって洗濯物の山を抱えた。「わ、私……服をしまってくるわ」


一方のユダは、照れる様子もなく、むしろ嬉しそうに口元を押さえて笑いを堪えていた。


「あら、ジュリエットは照れちゃって。ロミオの方は随分と嬉しそうね」


シャニアがからかうと、ユダは低く笑った。「今の言葉、現実になるように祈っておくよ。どこかで天使が聞いていて、叶えてくれるかもしれないからね」


シャニアは大げさに両手を天に突き上げた。「アーメン! 神様、お願いします!」


二人は同時に笑い声を上げた。ユダは腕時計に目をやり、ゆっくりと立ち上がった。「家の主も帰ってきたし、安全も確認できた。僕はそろそろ失礼するよ、シャニア」


「えっ? マルタバを食べないの? 夕食も食べていけばいいのに」


「いや、いいんだ。家で確認しなきゃいけない荷物もあるし。それに、明日は今日の休みの分、早く出社しないといけないからね」


ユダがバイクの鍵を手に取ったちょうどその時、トリアが部屋から出てきた。


「表まで送るわ」


二人は並んでテラスへと歩いた。雨は止み、濡れた土の新鮮な香りが漂っている。


「ありがとう、ユダ。今日のこと」


門のところで立ち止まり、トリアが言った。


ユダは微笑み、彼女の頭を撫でたい衝動に駆られたが、それを抑えた。「どういたしまして。今夜は早く寝るんだよ。明日、元気に会社で会えるようにね」


「了解です、警備員さん」


トリアの冗談にユダは小さく笑い、門の外、少し暗いプルメリアの木の下に停めてあったスクーターへと向かった。


しかし、バイクに近づいた瞬間、ユダの足が止まった。眉が鋭く寄せられる。


バイクの傾きがおかしい。不自然に沈んでいる。


ユダは屈み込み、スマートフォンのライトを点けて足元を照らした。白い光が後輪を映し出す。


ユダの顎が瞬時に強張り、首筋に怒りの血管が浮き出た。


釘刺しではない。後輪のゴムは十センチほど、見事に縦一文字に切り裂かれていた。断面は滑らかで鋭利。これは事故ではなく、明確な警告だ。


これは事故ではない。メッセージだ。


ユダは静まり返ったサヌールの暗い夜道を見据えた。一日中感じていた安心感など、ただの幻想に過ぎなかったのだ。監視の目はすぐそばにあり、そして今、ついに彼の大切なものに手をかけ始めた。


「ユダ? どうしたの?」


門の方からトリアの不安そうな声が聞こえた。


ユダは素早くライトを消して立ち上がり、自分の体でタイヤを隠した。そして、心臓が警戒で激しく脈打つのを押し殺し、精一杯の穏やかな笑顔を作って振り返った。


「なんでもないよ、トリア。ただ……タイヤの空気が少し抜けてるみたいだ。すぐ先のバイク屋まで押していくよ」



第52章、お読みいただきありがとうございます。 ユダの「警備員」ぶり、少しは安心できたでしょうか? 甘い時間と、その裏に潜む不気味な影。 次の展開へ向けて、静かに動き出しています。

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