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第51章 電柱の影

その日の夕暮れの家路は、ひどく長く感じられた。大きすぎるヘルメットをからかう冗談も、夕食の献立の会話も、腰にためらいがちに回される腕もない。ただスクーターのエンジン音と、肌を刺すように冷たいサヌールの風の音だけが響いていた。


ユダは一定の速度でスクーターを走らせながら、絶えずバックミラーに視線を送っていた。後方の交通状況を確認するためではない。背後に座る女性の様子を窺うためだ。


トリアはどこにも掴まっていなかった。両手は太ももの上に置かれ、指先がブラウスの裾をせわしなく捻り続けている。その視線は虚ろで、まるで魂が抜け落ちたかのように、後方へ流れていくアスファルトを見つめていた。


オフィスの駐車場を出る直前、ユダはアルデンに短いメッセージを送っていた。盾が必要だった。この脅威に対し、トリアが一人ではないと思える環境を整えなければならなかった。


スクーターはゆっくりと方向を変え、シャニアの家の敷地に入った。普段なら門の前でトリアを降ろし、彼女が家に入るのを見届けるだけだ。しかし今日、ユダはエンジンを切り、スタンドを立てて自らも降りた。


スクーターの傍らに立ち、動力を失った機械のように緩慢な動きで降りてくるトリアを静かに待つ。


「着いたよ、トリ」


トリアは肩を跳ねさせ、長い悪夢から引きずり出されたように瞬きをした。


「あ……うん。ありがとう、ユダ」


トリアが鞄から鍵を取り出すよりも早く、玄関のドアが開いた。部屋着姿のシャニアが敷居に立っている。妹を出迎えるはずだった明るい笑みは、トリアの顔を見た瞬間に凍りついた。


血の気の引いた顔。乾ききった唇。腫れ上がった目元。


「トリ?」


シャニアの声に警戒の色が混じる。その視線は、トリアの背後で顎に力を込め、硬い表情で立つユダへと素早く移った。


「何があったの? どうして——」


シャニアが言葉を終える前に、一台の車が門の前に停車した。ドアの閉まる音が二度響く。ナディアとアルデンが、マルタバクのロゴが印刷された大きなビニール袋を提げて姿を現した。


「トリア! 特製チーズマルタバク買ってきた——」


ナディアの陽気な声が途切れた。テラスを覆う重苦しい空気を察知し、庭の半ばで足が止まる。明るい笑みは一瞬で消え去り、女性特有の鋭い直感が働いた。力なく垂れ下がったトリアの肩と、周囲を警戒するようなユダの立ち姿が目に入る。


何も問うことなく、ナディアは持っていた袋をアルデンに押し付けた。足早にテラスへ上がり、シャニアとユダの横を通り抜けると、そのままトリアの体を強く抱きしめた。


ぎゅっ。


「大丈夫……大丈夫だからね」


ナディアはトリアの背中をさすりながら囁いた。


朝からひび割れていたトリアの防壁が、ついに崩れ落ちた。ナディアの腕の中で、その体が激しく震え出す。声を上げて泣き叫ぶことはない。ただ、声を出すことすら恐れているかのように、喉の奥で押し殺した小さな嗚咽だけが漏れていた。


「中に入って」


シャニアが毅然とした声で促す。ドアを大きく開け放ち、彼らをリビングへと招き入れた。


シャニアはリビングの照明をすべて点け、室内を眩しいほどに明るくした。まるでその光が、トリアがオフィスから引きずってきた暗闇を追い払ってくれると信じるかのように。トリアは長いソファの中央に座らされ、両脇をナディアとシャニアが固めた。ユダとアルデンは向かい側のソファに腰を下ろす。


しばらくの間、部屋は静寂に包まれ、トリアの不規則な呼吸音だけが響いていた。


「さて、説明してもらえる? 一体何があったの」


シャニアの鋭い視線がユダに向けられる。


ユダは上体を前傾させ、両肘を膝につき、指をきつく組み合わせた。その表情は暗く沈んでいる。


「今朝、トリアのデスクに荷物が届いた」


ユダの低い声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。


「書類じゃない。花束だ」


「花?」


シャニアが眉をひそめる。


「それがどうしたの?」


「黒いバラだ、シャン。メッセージカードもなく、真っ黒な紙で包装されていた」


ユダが言葉を遮る。


「あれは贈り物じゃない。あれは……脅迫だ」


シャニアは手のひらで口元を覆い、戦慄に目を見開いた。


「嘘でしょ……」


ユダの隣で、アルデンが膝の上で拳を握りしめる。普段の温和な顔つきは消え失せ、冷ややかな表情に変わっていた。妻を持つ身として、そして一人の男として、その象徴が意味するメッセージを痛いほど理解していた。


「送り主は? 名前はあったのか?」


アルデンが短く問う。


「ない。だが、トリには心当たりがある」


ユダは痛ましげな視線をトリアに向けた。


全員の視線がトリアに集まる。彼女はさらに深く俯き、乱れた髪で顔を隠した。恐怖よりも重い罪悪感が、胸を激しく締め付けている。


休暇を楽しんでいるはずだったナディアとアルデンを巻き込み、シャニアに心配をかけ、ユダにこれほどの怒りを抱かせている。周囲の人間を蝕む毒にでもなったような気分だった。


「ごめんなさい……」


トリアの震える声が空気を震わせた。


「ごめんなさい、ナディアさん……アルデンさん……せっかくの休暇だったのに。ごめんなさい、シャニア姉さん……家にまで迷惑をかけて」


「ちょっと、何を言ってるの」


ナディアが優しく言葉を遮る。


「全部、私のせいなんです」


トリアは強く首を振り、膝の上に涙の雫を落とした。


「ここに来るべきじゃなかった。逃げるべきじゃなかったんです。ハルランは私がここにいると知っている……あの人は絶対に諦めない。私は、みんなに迷惑をかけてるだけ……」


ユダが口を開きかけた。迷惑などではないと否定しようとしたが、アルデンがその腕を掴んで制止する。アルデンは視線だけで合図を送った。


『今は吐き出させろ』


「怖い……」


トリアの嗚咽が大きくなる。


「あの人が、みんなのことまで傷つけるんじゃないかって。あの人は異常なんです……執着してる。あの黒いバラは……」


部屋は静まり返り、トリアの痛切な思いだけが空間に溶け込んでいく。


自分を案じてくれる人々の、同情と心配に満ちた視線に耐えきれず、トリアは唐突に立ち上がった。足元はふらついていたが、無理やり力を込める。


「ごめんなさい……少し、休みます」


誰の顔も見ることができず、掠れた声で絞り出す。


トリアは背を向け、逃げるように自室へと向かった。ドアが閉まり、内側から鍵をかける音が響く。


かちゃっ。


その無機質な音は、リビングに残された四人の胸を鋭く抉った。


シャニアは深く息を吐き出し、乱暴な動作でソファの背もたれに寄りかかった。先ほどまでの心配げな表情は消え、完全な戦闘態勢に入っている。テーブルの上からスマートフォンを掴み取った。


「このままじゃ駄目ね。トリには落ち着く時間が必要よ。こんな精神状態で明日出社させるわけにはいかない」


シャニアが低く呟く。


画面を操作して連絡先を呼び出し、発信ボタンを押す。スピーカー機能がオンにされた。


『もしもし、シャニア? 夜遅くに珍しいな』


電話の向こうから、バスカラの落ち着いた声が響く。


「バス、夜分にごめんなさい。急ぎで頼みたいことがあるの」


シャニアは前置きを省き、単刀直入に切り出した。


「明日、トリを休ませるわ。病欠扱いにしてほしいの。彼女が落ち着くまで、必要な日数だけ」


電話の向こうで、わずかな沈黙が落ちた。オフィスでの出来事を把握しているバスカラは、状況を即座に理解したようだ。


『分かった、シャン。事情は察した。トリには、今は仕事のことは一切考えるなと伝えてくれ。彼女の安全と健康が最優先だ。事務手続きは俺が処理しておく』


「ありがとう、バス。恩に着るわ」


シャニアは通話を切った。ユダ、アルデン、ナディアの顔を順番に見回す。


「今夜は私がトリについてる。あなたたちは帰って休んで。特にあなたよ、ユダ」


ユダは躊躇うような素振りを見せた。その視線は、閉ざされたトリアの部屋のドアに向けられている。だが、今のトリアには一人の時間が必要であり、寄り添う役割はシャニアが適任であることも理解していた。


「彼女を頼む、シャン。何かあったらすぐに連絡してくれ。何時でも構わない」


ユダが真剣な眼差しで告げる。


「ええ。気をつけて帰ってね」


ナディアがシャニアを軽く抱きしめ、励ましの言葉を囁いてから、アルデンの腕を引いて外へ向かう。ユダも重い足取りでその後に続いた。


外に出ると、夜風が一段と強さを増していた。星一つない曇天が、この場の張り詰めた空気を映し出しているかのようだ。


車に乗り込む直前、アルデンがユダの肩を叩いた。


「なあ、奴の居場所を突き止めるとか、何か手伝いが必要なら言えよ。一人で動こうとするな」


「ああ、助かる」


ユダは短く応じた。


アルデンの車が走り去り、シャニアの家の門前にはユダ一人が残された。


ユダはヘルメットを被り、スクーターに跨った。エンジンをかけようとしたその瞬間、視界の隅で、道路の反対側に動くものを捉えた。


薄暗い街灯に照らされた電柱の陰に、一つの人影が静かに佇んでいる。


男だった。暗い色のジャケットを着て、フードを深く被っている。顔は暗闇に沈んで見えないが、微動だにしないその体は、真っ直ぐにシャニアの家を——トリアの部屋の窓を見据えていた。


ユダの心臓が大きく跳ねた。素早く顔を向け、目を凝らす。


「おい!」


ユダの鋭い声が夜の空気を切り裂いた。


だが、一台のバンが通り過ぎて視界が遮られた一瞬の隙に、その影は背後の暗い路地へと後退した。バンが通り過ぎた後には、もう誰もいない。ただの空間が広がっているだけだった。


ユダはスクーターに跨ったまま、ハンドルを強く握りしめた。あれはただの通行人ではない。本能がそう警鐘を鳴らしている。サヌールの夜の空気に、濃密な危険の気配が漂っていた。


敵はすでに、門の前に立っている。




第51章、お読みいただきありがとうございます。 トリアを取り巻く環境が、少しずつですが確かに変化しています。 ユダの視線の先には、何があったのでしょうか。

続きが気になる方は、ブックマークやコメントをいただけると嬉しいです。 皆さんの感想が、私にとって一番の活力になります。

X(@mrnoxvane)やLINE(ID: noxvane)でも、お気軽にご連絡ください。 次章もお楽しみに。

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