第50章 黒薔薇に隠された恐怖
トリアにとって、その一週間は心身を削るような演劇の連続だった。シャニアの前では初デートの冷やかしに明るく笑ってみせ、ナディアからのメッセージには偽りの熱量で応じ、ユダのWhatsAppには心が浮き立っているかのように可愛らしいスタンプを送る。
だが、部屋のドアに鍵をかけ、明かりを消した瞬間にその仮面は剥がれ落ちる。ここ二晩、トリアは毛布のなかに丸まって震えていた。暗い窓を虚ろな目で見つめ、ガラスを叩く風の音にさえ怯えて眠れぬ夜を過ごす。
スマホが震えるたびに、心臓が跳ね上がる。ハルランからの脅迫めいたメッセージがまた届くのではないかという恐怖。睡眠不足と焦燥感、そして断続的に襲いかかるパニック。まるで処刑の時を待つ逃亡者のような心地だった。
月曜の朝、眩しい陽光が差し込んだが、トリアの心を温めることはなかった。シャニアの車がアルカディア・プライムの降車場に滑らかに止まる。
エンジンを止めたシャニアが、眉を深く寄せてトリアの顔を覗き込んだ。薄く塗ったファンデーションでは、疲れ切った目元の隈を隠しきれていない。
「トリア、本当に仕事に行くつもり?」シャニアが心配そうに声をかける。「顔色がひどいわ。まるで生きる屍よ。その隈は嘘をつけないわよ」
トリアは強張る口角を無理やり引き上げ、明るい声を絞り出した。
「大丈夫ですよ、シャニアさん。本当です」トリアは動揺を隠すように素早く髪を整えた。「ただ……土曜日のユダさんとのディナーが楽しすぎて、アドレナリンが出っぱなしで眠れなかっただけですから」
シャニアは疑わしげに目を細め、トリアの瞳の奥にある嘘を暴こうとする。それは恋に浮かれている顔などではない。何かに怯える者の顔だ。しかし、頑なに隠そうとするトリアを見て、それ以上は追及しなかった。
「……あなたがそう言うならいいけど」シャニアは納得のいかない口調で言った。「昼休みにユダに直接聞くからね。嘘をついていたら承知しないわよ」
「はいはい、お節介さん」
トリアは冗談めかして言いながら車を降りた。軽く手を振り、シャニアがさらに問い詰める前にロビーへと急ぐ。館内に入ると冷房の空気が肌を刺したが、背中には冷や汗が伝っていた。
ロビーを数歩進んだところで、出勤してきたばかりのミラとセラに出くわした。
「おはよう、トリア!」ミラが陽気に声をかけたが、親友の顔を間近で見るなりその笑顔が消えた。「えっ、ちょっと……病気? 顔色がすごく悪いよ」
セラも近寄り、トリアの腕に触れた。「本当ね。三日は寝てないみたい。仕事、大丈夫なの?」
トリアは深く息を吸い込み、ひび割れかけた笑顔の仮面を再び被り直した。
「二人とも、シャニアさんと同じこと言ってる。ちょっと寝不足なだけだよ。昨夜、韓国ドラマを観すぎちゃって」
「もう、しょうがないわね」ミラは呆れたように首を振った。「さあ、行きましょう。まずはコーヒーでも飲んで目を覚まさなきゃ」
三人はエレベーターに乗り込み、他の社員たちに揉まれながら三階へと向かった。ドアが開くと、オフィスの喧騒が耳に飛び込んでくる。電話のベル、コピー機の音、パーテーション越しに交わされる朝の挨拶。
トリアは重い足取りで自分のデスクへ向かった。今日という日が何事もなく過ぎ去ることを願いながら。だが、その希望はデスクの前に立った瞬間に打ち砕かれた。
キーボードの上に、異様な存在感を放つ大きな花束が置かれていたのだ。
それは色鮮やかな花ではなく、黒い薔薇だった。死の気配を纏ったような、深く暗い花びら。メッセージカードもリボンもなく、ただ粗末な麻紐で束ねられている。
トリアは立ち尽くした。喉の奥で息が詰まる。肩から滑り落ちたバッグが床にどさっと音を立てたが、気にも留めなかった。
後ろを歩いていたミラとセラも足を止め、驚きに目を見開いた。
「わあ……お花?」ミラが困惑したように呟き、確認するために一歩踏み出した。「でも……どうして黒なの? これ、誰から? トリア宛て?」
「ユダさんからかな? ゴシックな演出とか?」セラが推測してみたが、その声は自信なさげだった。
トリアは答えなかった。目はその花に釘付けになっている。心臓が激しく脈打ち、肋骨を内側から叩くような痛みが走った。
黒。死。哀悼。
(ハルラン……)
心のなかで恐怖が囁いた。
その時、パントリーの方からハイヒールの足音が近づき、事務デスク周辺の静寂を破った。ユニ・ララサティがコーヒーカップを手に現れ、その光景を見て薄ら笑いを浮かべた。
「あらあら……朝からロマンチックなドラマね」
ユニはわざと大きな声で言い、周囲の視線を集めた。彼女は悠然とトリアのデスクに近づき、黒薔薇の花束を嘲笑うような目で見つめる。
「トリア、誰からの贈り物? ユダさん?」ユニはわざとらしく口元を押さえた。「でも、どうして黒なの? それって死や別れの象徴じゃない。不気味ね、まるでお葬式みたい」
ドクン、と心臓が跳ねた。
その言葉が、大槌のようにトリアを打ちのめした。
呼吸が浅くなり、肺が締め付けられる。オフィスの酸素が急激に奪われていくような感覚。土曜の夜に送られてきた写真、あの脅迫メッセージ。そして、この花。ハルランは職場を知っている。デスクの場所まで把握している。彼はいつでも自分に手が届くのだ。
「……いや……やめて……」
手は激しく震えていた、蚊の鳴くような声で漏らした。
「トリア? どうしたの?」
セラが異変に気づき、トリアの肩に手を伸ばそうとした。だが、触れられるよりも早く、トリアはパニック状態で背を向けた。何も言わず、振り返りもせず、彼女は廊下を駆け出し、女子トイレへと逃げ込んだ。
「トリア! 待って!」ミラの叫び声が響く。
三階のフロアは一気に騒がしくなった。あちこちで囁き声が広がる。ユニは満足げな笑みをカップの陰に隠し、平然とコーヒーを啜った。
ばたん!
トリアは女子トイレのドアを激しく押し開け、一番奥の個室に飛び込んで鍵をかけた。
便器の蓋の上に崩れ落ち、両手で自分の髪を強くかきむしった。喘ぐような呼吸の合間に、恐怖の涙が頬を伝った。
「彼がいる……ここにいるんだわ……」
声を殺しながら、ひきつけを起こしたように泣いた。バリで必死に築き上げてきた安心感が、たった一束の花によって一瞬で崩れ去った。
トイレの外では、ミラとセラが狼狽しながらドアを叩いていた。
「トリア! 開けて! どうしたの? お願い、返事をして!」
返事はない。ただ、押し殺した泣き声だけが漏れてくる。
その頃、エレベーターのドアが開き、ユダが姿を現した。彼はいつものように落ち着いた様子でノートPCのバッグを手にしていたが、事務デスク周辺の不穏な空気と人だかりを見て、すぐに眉を寄せた。
同じ部署のアリンが、青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「ユダさん!」
「どうしたんですか、アリンさん。何があったんです?」
「それが……トリアさんのデスクに、黒い薔薇が置かれていて。彼女、ひどくショックを受けたみたいで、泣きながらトイレに駆け込んだんです」アリンが早口で説明した。「誰かの悪質ないたずらみたいで……」
ユダの顎のラインが瞬時に強張った。バッグを握る指の関節が、白く浮き出るほど強く締め付けられる。
「誰が置いた?」
低く、冷徹な声が響いた。アリンは首を振った。
「誰も見ていないんです。彼女が出勤した時には、もうあそこに……」
ユダはそれ以上何も言わず、大股でトリアのデスクへと向かった。野次馬となっていた社員たちは、ユダから放たれる圧倒的な怒りのオーラに気圧され、蜘蛛の子を散らすように道を空けた。
デスクの前に立ったユダは、黒薔薇を憎しみのこもった目で見つめた。今のトリアにとって、この花が何を意味するのかを彼は痛いほど理解していた。これは贈り物ではない。テロだ。
近くで様子を伺っていたユニは、普段の冷静な彼からは想像もつかない形相に息を呑んだ。とばっちりを受けるのを恐れ、彼女はそそくさとその場を離れ、他の社員に紛れ込んだ。
ユダは荒々しい動作で花束を掴み取ると、包装紙ごと力任せに握りつぶした。
「ゴミが」
吐き捨てるように言うと、部屋の隅にある大きなゴミ箱へ向かい、それを叩きつけた。
どさっ!
鈍い衝撃音に、フロア中の社員が肩を震わせた。ユダは構わず背を向け、愛する女性が一人で怯えている場所へと半ば走るように向かった。
トイレの前では、セラが不安げに服の裾をいじっていた。近づいてくる足音に気づき、彼女は顔を上げた。
「ユダさん……」セラは涙目になっていた。「ミラが中で付き添っていますが、トリアが出てこなくて」
ユダは硬い表情で頷いた。怒りで呼吸が荒くなっている。今すぐにでもドアを蹴破って入りたかったが、それがトリアをさらに怯えさせるだけだと自制した。
「ミラさんに任せよう。俺は……ここで待つ」
ユダはもどかしげに息を吐き、誰一人として中へ入れさせない門番のように、ドア横の壁に背を預けて立った。
十分が五時間にも感じられた。ようやく、トイレのドアがゆっくりと開いた。
まずミラが出てき、俯いて歩くトリアを支えるようにして連れてきた。トリアの顔は死人のように青ざめ、目は赤く腫れ上がっている。パニックの余韻で、その体はまだ小さく震えていた。
その無残な姿を目の当たりにし、ユダの胸は締め付けられた。送り主への激しい怒りと、彼女を守りたいという強烈な衝動が混ざり合う。
ユダは迷うことなく、ミラやセラ、そして遠巻きに見守る数十人の社員たちの前で一歩踏み出した。
彼は両腕を広げ、壊れそうなトリアの体を力強く抱き寄せた。
ぎゅっ。
トリアは一瞬身を強張らせたが、ユダの香りと胸の温もりを感じた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。彼女はユダのシャツに顔を埋め、崩れ落ちないように彼の服を必死に掴んだ。
フロア中に驚きの囁きが広がった。仕事に厳しくプロフェッショナルなプロジェクトマネージャーであるユダ・プラディプタが、勤務時間中のオフィスで女性社員を抱きしめるなど、誰も予想していなかった。
ミラとセラは一瞬驚いたものの、すぐに状況を察した。アリンも加わり、三人は他の社員たちの視線を遮るように立ちはだかり、二人のプライバシーを守る壁となった。
「はい、みんな! 解散、解散! 仕事に戻って! 見世物じゃないわよ!」ミラが毅然とした声で周囲を追い払う。
「さあ、デスクに戻りなさい。写真は厳禁よ!」アリンの先輩らしい威圧感に、他のスタッフたちは渋々引き下がった。
人だかりが散っていくなか、ミラとセラの目はパントリー付近に立つユニの姿を捉えた。ユニは混乱を満足げに見つめて薄笑いを浮かべ、自分の部署へと優雅に去っていく。ミラはその卑劣な笑みに、煮えくり返るような怒りで拳を握りしめた。
一方、ユダは抱擁を解かなかった。周囲の目などどうでもよかった。右手でトリアの背中をなだめるようにさすり、左手で彼女の後頭部を包み込み、周囲の視線から守り続けた。
「しっ……大丈夫だ。俺がここにいる。誰にも君を傷つけさせない」
トリアの耳元で、優しく、言い聞かせるように囁く。
やがてトリアの泣き声が小さなしゃくり上げに変わると、ユダは少しだけ腕を緩めた。乱れた彼女の髪を、この上なく愛おしそうに整える。
彼はトリアの顔を両手で包み込み、涙で濡れた瞳を、静かだが力強い眼差しで見つめた。
「パントリーへ行こう」
トリアは力なく頷くのが精一杯だった。
ユダは彼女の肩を抱き寄せ、好奇の視線を無視して、フロアの隅にある静かなパントリーへと導いた。
パントリーに入ると、ユダはドアを閉めた。トリアを椅子に座らせ、すぐに給湯器から温かい白湯を汲んで持ってきた。
「これを飲んで」
差し出されたグラスを、トリアは冷え切った手で受け取った。
一口飲むと、温かさが喉の奥に広がり、泣きすぎて痛む喉をゆっくりと癒していった。
ユダは別の椅子を引き寄せ、トリアの正面に座った。「なぜ」とも「誰が」とも聞かなかった。彼女がまだ話せる状態ではないことを分かっていたからだ。彼はただ、テーブルの上でトリアの手を握りしめた。沈黙と自分の存在が、愛する女性にとっての何よりの鎮静剤になることを信じて。
今回も読んでいただき、本当にありがとうございました。
トリアの不安が少しでも伝わっていれば幸いです。
ユダの反応、どうでしたか?
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