第47章 正式なデートの誘い
午後三時半。壁掛け時計に目をやったユダは、執務室の隅にある長方形の鏡に映る自分を見つめた。水色のシャツの袖を肘まで几帳面に捲り上げたその姿は、一見すれば完璧なビジネスマンだ。しかし、鏡の中の表情は、およそ冷静とは言い難いものだった。
ユダはシャツの襟を少し引き、再び整えた。体を左右に捻り、一箇所の皺も許さないと言わんばかりに確認を繰り返す。
「よし、落ち着け。深呼吸だ」
鏡の中の自分に向かって、低く呟いた。
手で髪を後ろへ掻き上げ、それからわざと少しだけ崩す。あまりに堅苦しく見えないように。
――馬鹿げている。
役員たちの前で数十億ルピア規模のプロジェクトをプレゼンする時でさえ、彼は汗一つかかなかった。海外のベンダーと厳しい交渉を繰り広げる時も、瞬き一つせずに対峙してきた。それなのに、今はどうだ。ただ一人の女性をディナーに誘うというだけで、手のひらは冷や汗で湿っている。
「トリア、今度の土曜の夜は空いてる?」
すぐに首を振った。
「堅苦しすぎる。これじゃ人事の面接だ」
ユダは咳払いをし、もう少しリラックスしたトーンを試みる。
「なあ、トリア。土曜の夜、飯でもどう?」
「軽すぎるな。ただの友達の誘いだと思われて終わりだ」
彼はデスクの縁に腰を下ろし、ドアをじっと見つめた。親友のアルデンが言った言葉が脳裏に蘇る。『もっと積極的に、攻めろ。ぶつかっていけ』
問題は、トリアの心の壁を崩すには適切な戦略が必要だということだ。ただの無鉄砲な勇気だけでは足りない。
トントン。
ドアを叩く音が、彼の予行演習を打ち消した。ユダはびくりとして、慌てて椅子に座り、手近にあった適当な書類を手に取った。
「入れ」
威厳を保とうと声を整える。
ドアが開き、書類の山を抱えたジュニアスタッフが入ってきた。ユダは安堵の溜息を漏らした。少なくとも、退勤時間までに勇気を振り絞る猶予はまだ数時間ある。
*
ユダが葛藤を続けている頃、トリアはデスクを離れ、ゆっくりと給湯室へ向かっていた。頭の中は、今朝エレベーターで会った時のユダの眼差しでいっぱいだった。
涼しい給湯室には、インスタントコーヒーとジャスミン茶の香りが漂っている。ウォーターサーバーがお湯を注ぐ低い音が、静かに響いていた。
トリアはそこに立ち、カップから立ち上る湯気を見つめていた。しかし、意識はここにはない。ここ数日のユダとの小さなやり取りを、遠くを見つめるような瞳で思い出していた。
頭に置かれた手。寝る前の短いメッセージ。親しい友人たちを交えた昼食。
そのすべてが甘く、けれどその甘さの裏には、怯えが潜んでいた。かつてハルランも、同じように甘く、あまりに甘く近づいてきたのだという記憶が、影のように付きまとう。
「ずっとぼーっとしてると、何かに取り憑かれちゃうわよ」
トリアは肩を揺らした。隣には、全粒粉ビスケットの袋を開けているセラが立っていた。
「あ、セラ。ううん、お湯が少し冷めるのを待ってただけ」
トリアは薄く微笑んで誤魔化した。
しかし、セラはその微笑みにお世辞で返すような性格ではない。彼女はトリアを真っ直ぐに見つめた。友としての鋭く、けれど共感に満ちた眼差しだった。
「ユダさんのこと、考えてるんでしょ?」
セラの直球に、トリアは俯き、カップの中のスプーンの端をいじった。
「……そんなに顔に出てた?」
「丸出しよ。道を渡りたいのに、車に跳ねられるのが怖くて立ち止まってる人みたいな顔してる」
セラはビスケットを齧りながら言った。
トリアは深く長い溜息を吐いた。
「ただ、怖いの。また足を踏み外すんじゃないかって。これが一瞬の高揚感だけで、また突き落とされるんじゃないかって」
セラはビスケットを置き、トリアの腕にそっと触れた。
「トリア、聞いて。過去は学ぶための場所であって、住む場所じゃないわ。未来にまで過去の亡霊を連れて歩いていたら、新しく入ってこようとする人が可哀想よ」
トリアは黙って、その言葉を噛み締めた。
「ユダさんは違う。私は彼と二年も一緒に働いてるけど、あんなに一人の女性に尽くしている姿は見たことがない。怖くなるのは当然だけど、その恐怖に幸せになるチャンスを殺させちゃダメ」
ピン。
ウォーターサーバーの音が、お湯の準備が整ったことを告げた。その音がトリアを現実に引き戻す。
「ありがとう、セラ」
トリアは心から言った。
「どういたしまして。さあ、バルコニーで外の空気でも吸ってきたら? アイロンをかけてない服みたいに顔がくしゃくしゃよ」
セラの冗談に、トリアは小さく笑って頷いた。彼女はカップを一度置き、廊下の突き当たりにあるバルコニーへと足を向けた。
*
バルコニーのガラス扉を開けると、サヌールの夕風がトリアの頬を撫でた。空は黄金色に染まり始め、アルカディア・プライム・ビルのガラス窓に美しく反射している。
トリアは手すりに寄りかかり、風に髪をなびかせた。セラの言葉が、昨日ナディアから受けた助言と共に頭の中で渦巻いていた。
『恐怖にチャンスを殺させないで』
彼女は目を閉じ、風の息吹を感じた。
コツ、コツ、コツ。
革靴の足音が近づいてくる。その力強く規則正しい足音の主が誰であるか、振り返るまでもなかった。心臓が先に反応していた。
「いい景色だね、今日の夕方は」
すぐ隣で、深いバリトンボイスが響いた。トリアは目を開けて隣を見た。ユダがそこに立ち、同じように地平線を見つめていた。
「ええ、ユダさん。空がとても綺麗」
トリアは静かに答えた。
ユダはすぐには彼女を見なかった。呼吸を整えているようで、喉仏が上下に動く。手すりを叩く指先が、緊張したリズムを刻んでいた。
「トリア」
ユダが呼びかけ、今度は完全に彼女の方へ体を向けた。
トリアも向き直り、手すりに背を預けた。「はい?」
ユダはトリアの瞳をじっと見つめた。鏡の前で見せていた迷いは、もうそこにはない。あるのは誠実な光と、少しの……覚悟だけだった。
「今週の土曜の夜……予定はあるかな?」
トリアは小さく首を振った。「まだ、何も。どうして?」
ユダは短く息を吸い込んだ。
「君をディナーに誘いたいんだ。友達とのランチでも、屋台の食事でもなく」
ユダは言葉を区切り、自分の意図が正確に伝わるのを待った。
「正式なディナーだ。二人きりで。君のことをもっと深く知りたいと思っている、一人の男として」
ドクン。
トリアの心臓が一瞬、止まったかのようだった。あまりに真っ直ぐな言葉。駆け引きも、遠回しな表現もない。
トリアは沈黙した。ハルランとのロマンチックなディナーが嘘で終わった時の光景が、閃光のように脳裏をよぎる。恐怖が、胃のあたりを締め付ける。
けれど、ユダの目を見つめた時、そこに欺瞞は見当たらなかった。あるのは不安混じりの期待と、純粋な真心だけだった。
セラとナディアの言葉が、彼女の思考を支配した。
ゆっくりと、トリアの口角が上がった。夕焼けの色に合わせるように、頬に赤みが差していく。
彼女は小さく頷いた。
「はい、ユダさん。喜んで」
ユダの肩が、目に見えてすとんと落ちた。重荷を下ろしたかのような安堵。オフィスでは滅多に見せることのない満面の笑みが、完璧にこぼれた。
「よかった。……じゃあ、七時にお迎えに行くよ」
「ええ、七時に」
トリアは柔らかく答えた。
ユダはまだ何か言いたげで、あるいは何かしたげだったが、自分を抑えた。彼は瞳に悪戯っぽい輝きを宿しながら、礼儀正しく頷いた。
「それじゃ……また帰りに」
ユダはそう言い残してビルの中へと戻っていった。その足取りは先ほどよりもずっと軽く、弾んでいるようにさえ見えた。
トリアは再び夕空を見上げた。今度は、その微笑みが消えることはなかった。
*
しばらくして、トリアは晴れやかな顔で執務エリアに戻った。雲の上を歩いているかのように、足取りは軽やかだった。
しかし、その高揚感は給湯室へ続く廊下で、ある人物とすれ違った瞬間に遮られた。
ユニ・ララサティ。
彼女は腕を組み、まるでトリアが通るのを待ち構えていたかのように壁に寄りかかっていた。赤く塗られた唇に、歪んだ笑みが浮かぶ。
「随分と嬉しそうね」
ユニの言葉は滑らかだが、棘があった。
トリアは足を止めた。せっかくの気分を台無しにしたくなかったので、ただ礼儀正しく微笑んだ。
「お先に失礼します、ユニさん」
通り過ぎようとしたトリアの前に、ユニが少し体をずらして立ち塞がった。
「今のうちにその笑顔を楽しんでおきなさい、トリア。ジャカルタからの『お客様』が到着するまでの間だけね」
ユニが低く囁いた。その瞳は意味深に光っている。
トリアは眉をひそめた。「どういう意味ですか?」
ユニは小さく笑い、髪をかき上げた。「別に。ただの忠告よ。過去には正確な住所があるの。決して家を間違えたりしないわ」
答えを待たず、ユニは去っていった。その足音は傲慢に響いていた。
トリアはその場に立ち尽くし、嫌な予感を抱えながらユニの背中を見つめた。肌に粟が生じる。
(ジャカルタからの客? 過去……?)
困惑が胸をかすめる。しかし、彼女はすぐに首を振った。違う。今日はユニにこの幸せを壊させたりしない。
彼女はデスクに戻り、静かに仕事に集中した。いつの間にか夕暮れは終わりを告げようとしていた。トリアがアルカディア・プライム・ビルを後にし、ユダの誘いによる余韻を抱えたまま駐車場へと向かう頃には。
*
アルカディア・プライムのバイク駐車場は、既に閑散とし始めていた。街灯が灯り、太陽の役割を引き継いでいる。
ユダはいつものようにトリアにヘルメットを渡した。違うのは、そこにもはや息の詰まるような気まずさがないことだった。
「準備はいい?」
トリアが後ろに乗ると、ユダが尋ねた。
「はい、ユダさん」
トリアが少し茶目っ気を出して答えると、ユダはヘルメット越しに楽しそうに笑った。スクーターは、夜の観光客で混み合い始めたサヌールの通りを走り出した。
夜風は涼しいが、寒くはなかった。目の前にユダの背中があるからかもしれない。
「土曜の夜は何が食べたい? シーフード? それともイタリアン?」
ユダが聞こえるように少し声を張り上げた。
トリアは少し体を前に乗り出した。
「何でもいいですよ。ただ、あまり辛くないものがいいかな。最初のディナーでお腹を壊しちゃったら、笑えないですもん」
「了解。イタリアンなら安心そうだね」
段差を越える際、バイクが減速した。トリアの体は自然と前へ押し出され、ユダの背中にぴたりと触れた。
いつもなら、トリアはすぐに身を引き、バイクの後ろの持ち手を掴むところだ。けれど今回は、一瞬だけ躊躇した。
そして、どこから湧いてきたのか分からない勇気と共に、トリアの手が動いた。腰を抱きしめるのはまだ早すぎるけれど、彼女は自分の手をそっと彼の腰のあたりに添えた。支えにするように、彼のジャケットを軽く掴む。
前を走るユダは、その感触を確かに感じ取っていた。ヘルメットのバイザーの奥で、彼の笑みが深まる。彼は何も言わず、ただいつもより少しだけ速度を落とした。この帰路のひとときが、少しでも長く続くように。
*
「ただいま!」
トリアは鼻歌を歌いながら、シャニアの家の玄関を閉めた。仕事用の靴を脱ぎ、棚に並べる。
リビングから、スナック菓子の容器を持ったシャニアが現れた。トリアのいつもと違う様子に、疑わしげに目を細める。
「鼻歌? 明るい顔? 定時退社?」
シャニアは指を折って数えた。
「ちょっと、何があったの? ユダが駐車場でプロポーズでもした?」
トリアは声を上げて笑い、シャニアに駆け寄ってその横から抱きついた。
「プロポーズじゃないわよ、お姉ちゃん! でも、今度の土曜日に正式なディナーに誘われたの!」
ガシャン!
「何ですって!? 本気!?」
シャニアは叫び声を上げ、スナックをこぼしそうになりながらテーブルに容器を叩きつけた。
「本気よ! 『正式なディナーに、二人きりで』って。それって……デートよね?」
「それは間違いなくデートよ、トリア・マヘスワリ!」
シャニアは即座にトリアの手を引き、寝室へと引きずっていった。
「さあ! 今すぐクローゼットをひっくり返すわよ! 初デートに仕事着やTシャツで行かせるわけにはいかないわ!」
二人はトリアの部屋に入った。シャニアは気合十分にクローゼットの扉を大きく開け放つ。
「お姉ちゃん、落ち着いて……まだ土曜日まで時間があるし」
トリアは笑いながら抗議したが、シャニアが次々とハンガーを取り出し始めるのを大人しく見ていた。
「準備こそが勝利の鍵よ、トリア! ユダが瞬きを忘れるくらい見惚れさせなきゃ!」
シャニアは膝丈のネイビーのドレスを取り出し、トリアの体に当てた。
「うーん……フォーマルすぎるわね。株主総会に行くみたい」
そう言ってベッドに放り投げる。
次にピーチ色のサブリナブラウスを手に取った。
「これよ! これは可愛いわ。でもボトムスを合わせなきゃ。あのモダンなバティックの巻きスカートを試してみて」
部屋は一瞬にしてフィッティングルームと化した。ベッドの上には服が散乱している。トリアは、シャニアの時折辛口だが愉快なコメントを聞きながら、何度も着替えを繰り返した。
その喧騒の中で、トリアは鏡に映る自分を見つめた。シャニアが選んだシンプルな花柄のドレスを着ている。頬は上気し、瞳には生気が宿っていた。
鏡の中の女性が、自分だとは信じられなかった。数週間前、目を腫らし、心を壊してバリにやってきたあの女性が、今はこんなにも希望に満ちている。
「そんな風に笑うと、本当に綺麗よ、トリア」
シャニアが背後に立ち、トリアの肩に手を置いて優しく言った。
トリアはシャニアの手に触れた。
「ありがとう、お姉ちゃん。お姉ちゃんがいなかったら、私、今でも部屋の隅で泣いていたかもしれない」
「もう、しんみりしないで。今の私たちの目的はただ一つ」
シャニアは片目を瞑ってみせた。
「今度の土曜日、ユダ・プラディプタを骨抜きにすることよ!」
トリアは笑い、力強く頷いた。
その夜、サヌールのささやかな部屋で、トリアはようやく再び夢を見る勇気を持てたのだった。
第47章、お読みいただきありがとうございます。 ついに「正式なデート」のお誘い! シャニア姉さんのテンションも最高潮ですね。 「やっと来たー!」「シャニア姐さん頼もしい」など、嬉しいコメントをいただけると嬉しいです。 土曜日のディナー、どんな展開になるのか……お楽しみに。 ブックマークよろしくお願いいたします。




