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第46章 元カレの傷ついた自尊心

マーケティング部門の明かりが、一つ、また一つと消えていく。静まり返ったフロアで、ユニのデスクにあるコンピューターの画面だけが、青白い光を放っていた。


ユニは緩慢な動作でハンドバッグを片付けながら、誰もいなくなった室内を見渡した。


「みんな、もう帰ったのね」


低く呟いた彼女の視線は、ガラスの仕切り越しに事務エリアへと向けられた。トリアのデスクは完璧に片付けられ、椅子も整然と収められている。


苛立ちの混じった好奇心に突き動かされ、ユニは足早に正面駐車場を見下ろす大きな窓へと歩み寄った。目を細め、帰路につこうとする社員たちの群れをなぞるように視線を走らせる。


そして、彼女は「それ」を見つけた。


スクーターの傍らに立つトリアの姿。その目の前には、すでにシートに跨りヘルメットを被ったユダがいた。彼は何かに答えるように、楽しげに笑っている。


少し離れた場所では、ミラとセラが冷やかすような笑みを浮かべて手を振っていた。その光景に、ユニの血が沸騰する。


「……やっぱり。また一緒に帰るつもりなのね」


忌々しげに毒づくと、彼女はブレザーのポケットから最新型のスマートフォンを取り出した。カメラを起動し、ズーム機能を限界まで引き上げる。


レンズは、その瞬間を完璧に捉えた。トリアの頭に優しくヘルメットを被せてやるユダと、恥ずかしそうに俯くトリア。


二人の距離はあまりにも近い。ただの同僚にしては、親密さが過ぎる。


パシャッ。


シャッター音が響く。ユニは画面に映し出された画像を確認し、口角を吊り上げた。ズームのせいで画質は多少荒れているが、二人の仕草がすべてを物語っている。


「なんてお熱いこと」


皮肉たっぷりに囁くと、彼女は画面をタップし、ジャカルタの情報源であるルリから手に入れたばかりの連絡先を開いた。


そこには一つの名前が記されている。――ハルラン・アディティア。


*


海の向こう、ジャカルタ。グラハ・アルジュナ・タワーの12階は、重苦しい空気に包まれていた。


かつては整然としていたマネージャー室は、今や見る影もなく荒れ果てている。デスクの上には書類が散乱し、冷めきったコーヒーカップがいくつも放置されていた。


ハルランは力なく椅子に深く沈み込んでいた。シャツは皺だらけで、ネクタイはとうの昔に緩められ、無様に曲がっている。


彼は虚ろな目でガラスのドアを見つめていた。まるで、二度と叩かれることのないその扉を待っているかのように。


「ハルランさん、役員会への報告書は明日の朝までですよ」


昼間に聞いた秘書の言葉が耳の奥でリフレインし、頭痛を加速させる。


ハルランはこめかみを強く指で押さえた。今月の仕事のパフォーマンスは最悪だった。思考が全くまとまらない。


アパートに帰っても、彼を待っているのは温かい微笑みや労いの言葉ではない。クラリッサからの執拗な要求だけだ。


ドンッ!


ハルランは手に持っていたペンを壁に投げつけた。


「クソッ! なんでこんなにめちゃくちゃなんだ!」


誰もいない部屋で、彼は苛立ちを爆発させた。


彼は平穏を欲していた。文句一つ言わず、自分の尻拭いをしてくれた従順なトリアを。


脳裏に浮かぶトリアの柔らかな面影が、傷ついた自尊心を締め付ける。


ブルル……ブルル……。


書類の山に埋もれていたスマートフォンが、長く震えた。表示されているのは、バリの市外局番から始まる見知らぬ番号だ。


ハルランは眉をひそめた。しばらく放置していたが、端末は執拗に注意を促し続ける。


億劫そうに緑のボタンをスライドさせ、耳に当てた。


「……もしもし」


『お疲れ様です、ハルランさん。お忙しいところ失礼いたします』


受話器から聞こえてきた女の声は、丁寧でしとやかだったが、どこか奇妙な響きを含んでいた。


「誰だ?」


『ユニと申します。バリでトリアさんと同じ職場にいる者です』


その瞬間、ハルランは背筋を伸ばした。「トリア」という名が、死に体だった彼を呼び覚ます呪文のように作用した。


「トリア……? バリにいるのか?」


ようやく居場所を突き止めた。


電話の向こうで、わざとらしい溜息が漏れる。


『実は……お電話すべきか迷ったのですが。同じ女性として、トリアさんに後悔してほしくなくて』


「後悔? どういう意味だ。トリアに何があった!」


ハルランは焦燥感に駆られ、声を荒らげた。


『トリアさんは、今でも元カレのことを想っていると話していました。この番号も、彼女の携帯からこっそり控えたんです』


ユニは言葉を継ぐ。


『でも、今こちらで彼女に近づいている男がいるんです。自分の気持ちに迷っているトリアさんに付け入るようにして……』


ハルランの手が椅子の肘掛けを強く掴んだ。目が見開かれる。


(やっぱり……やっぱりトリアが俺を忘れるはずがないんだ!)


確信に近い喜びが、彼の胸を満たしていく。


『ハルランさんは、まだ彼女に未練がありますか? もしそうでないなら……今の話は忘れてください』


「もちろんだ! 俺たちはただの誤解で……俺も少し感情的になっていただけなんだ。それに……」


ハルランは言葉を切り、短く咳払いをした。


『……私の直感は正しかったようですね。では、証拠をお送りします。今の二人がどれほど「親密」か、ご自身の目で確かめてください』


プツッ。


通話が切れた。


ハルランの心臓は激しく鼓動し、怒りのリズムで肋骨を叩いた。十秒もしないうちに、メッセージの着信通知が届く。


震える手でそれを開いた。


一枚の写真。


端が少し欠けたスマートフォンの画面に、はっきりとトリアの姿が映し出されていた。俺の女。


トリアは一人の男の傍らに立っていた。その男は……その忌々しい男は、トリアの体に覆いかぶさるような距離でヘルメットを被せてやっている。


親しげで、心地よさそうで……幸せそうな顔をして。


ハルランの血が逆流し、顔面が真っ赤に染まった。


「……ふざけるな!」


ガシャーン!


彼はデスクの上のものを、一振りでなぎ倒した。コーヒーカップが床に叩きつけられて粉々に砕け、黒い液体がカーペットに飛び散る。


傷ついた野獣のように、荒い呼吸を繰り返す。


「トリア、お前は俺のものだ! 他の男と笑い合うなんて、許さない……!」


自尊心はズタズタだった。浮気をしたのは自分だ。傷つけたのも自分だ。だが、トリアが他人のものになることだけは、彼にとって最大の屈辱だった。


消えかけていた執着が再び燃え上がり、彼の理性を焼き尽くしていく。


「迎えに行ってやる。お前を誰にも渡さない……俺以外の誰にも」


写真の中のトリアを見つめ、彼は低く唸った。


*


その頃、ジャカルタから数千キロ離れたサヌールの夜は、穏やかな静寂に包まれていた。


シャニアの家のキッチンからは、ニンニクを炒める香ばしい匂いが漂っている。フライパンの弾ける音と、野菜を刻む包丁の音が心地よく響き合う。


トリアはコンロの前に立ち、とろみのついた八宝菜をかき混ぜていた。カウンターでは、シャニアがデザートのドラゴンフルーツを切り分けている。


「それで……今日、ユダさんとランチしたの? いい兆候じゃない」


シャニアは果物の一片を口に運びながら、楽しげに言った。


「はい。ザ・グラス・ハウスというレストランへ行ったんです。そこでユダさんの親友のアルデンさんにお会いして」


トリアが味見をしながら答えると、シャニアの手が止まった。包丁を握ったまま、彼女は驚愕の表情でトリアの背中を見つめた。


「ちょっと待って。アルデン? アルデン・ルクマナのこと?」


トリアは不思議そうに振り返り、頷いた。


「ええ、アルデン・ルクマナさんです。奥さんのナディアさんと一緒に旅行に来ているそうで」


「嘘でしょ!?」


シャニアはまな板の上に包丁を放り出し、椅子から飛び上がった。その顔は興奮で輝いている。


「本気!? あのゴシップクイーンのナディアがバリにいるの!?」


大げさな反応に、トリアは思わず吹き出した。火を止め、シャニアの方を向く。


「本当ですよ、シャニアさん」


シャニアは信じられないといった様子で額を押さえ、首を振った。


「信じられない……世界って本当に狭いわね。彼女とはもう五年も連絡が取れてなかったのよ!」


「どうしてですか? すごく仲が良かったって聞きましたけど」


「よくある話よ。番号を変えたり、クタで携帯を失くしたりして、そのまま疎遠になっちゃって」


シャニアは懐かしそうに目を細め、楽しげに笑った。


「昔はね、私とナディアともう一人の三人組で、キャンパスで一番うるさいって言われてたの。まさか彼女がアルデンと結婚するなんてね。昔は犬猿の仲だったのに」


「そうなんですか? でも、旦那さんのことをすごく大切にされているようでしたよ」


トリアが八宝菜を大皿に移しながら言うと、シャニアはいたずらっぽく身を乗り出した。


「それで……彼女、他に何か言ってなかった? 私の黒歴史をバラしたりしてないでしょうね?」


トリアは微笑みながら、皿をテーブルへと運んだ。


「そこまでは……。あ、でも、今度遊びに来るって言っていましたよ」


それを聞いたシャニアの目が輝き、ダイニングに明るい笑い声が響き渡った。トリアもつられて笑い、今夜の空気がとても軽く感じられた。


ハルランの影も、恐怖もない。ただ、家の温もりと、他愛もない昔話があるだけ。


「はあ……ナディアに会うのが楽しみ。会ったらまず、髪の毛を引っ掴んでやるんだから」


冗談を言いながら皿を取るシャニアを見て、トリアは心から安らぎを感じていた。


ジャカルタから巨大な嵐が自分に向かって動き出していることなど、知る由もなかった。

第46章、お読みいただきありがとうございます。

シャニアとナディアの再会フラグ、そしてジャカルタで蠢くハルランの影……。

平穏な日常の裏で、嵐の予感がしています。

「ハルラン怖い」「シャニアちゃん可愛い」など、感想をコメントでいただけると嬉しいです。

次章は、ついに動き出します。ブックマークよろしくお願いいたします。

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