第48章 紺碧の夜と忍び寄る影
数日が瞬く間に過ぎ去った。トリアはオフィスでユダと共に過ごす時間を心から楽しんでいた。二人の距離は確実に縮まり、穏やかな時間が流れていた。ここ数日、ユニからの嫌がらせも止んでいる。トリアは心のどこかで不安を感じていたが、ユダの存在と二人の親友の支えが、その影をかき消してくれた。
そして、ついに待ちわびた日がやってきた。ユダとのディナー。二人にとって、初めての非公式なデートだった。
クリーム色を基調とした寝室で、トリアは姿見の前に硬い表情で立っていた。シャニアが、体にぴったりと沿うネイビーのドレスの襟元を整える間、彼女は思わず息を止めた。
ドレスは膝丈のシンプルなAラインで、洗練された印象を与える。深い紺色は、トリアの肌をより白く、瑞々しく引き立てていた。シャニアは一歩下がり、満足げに目を輝かせながら胸の前で手を合わせた。
「完璧! 本当に、トリア、今夜のあなたは最高に綺麗よ!」
シャニアが興奮気味に声を上げる。トリアは鏡に映る自分を見つめた。髪は毛先にナチュラルなウェーブをつけたダウンスタイル。薄く施されたメイクが顔色を明るく見せ、数週間前に泣きながら現れたあのボロボロの女性とは、まるで別人のようだった。
「これ……やりすぎじゃないかな、シャニアさん?」
トリアは不安げに尋ね、耳元の小さなピアスに触れた。
「どこがよ? ちょうどいいわ! エレガントで、クラス感があって、でも可愛らしさも忘れてない。ユダさん、きっと瞬きするのも忘れるわよ。数日前の作戦通りね」
シャニアは茶化しながら、トリアの手首に軽く香水を吹きかけた。トリアは小さく笑ったが、頬は林檎のように赤く染まっていた。胸の奥で、緊張と期待が混ざり合い、心臓がどきどきと音を立てている。まるで初めてデートに誘われた十代の少女のような気分だった。
「いい、トリア。今夜、あなたは主役なの。ただ楽しんで。仕事のことも、オフィスのドラマも全部忘れるのよ」
シャニアはトリアの両肩を掴み、言い聞かせるように言った。トリアは力強く頷いた。
「わかったわ、シャニアさん」
その時、表の門の前に、聞き慣れたスクーターの音とは違う、静かで滑らかなエンジン音が止まった。シャニアはすぐに窓から外を覗き、抑えた悲鳴を上げた。
「わあ、王子様のお出ましよ! 鉄の馬じゃなくて、ちゃんとした馬車で迎えに来たわ!」
トリアは飛び出しそうな心臓を抑えながら、玄関のドアを開けた。
門の前には、黒く光り輝くセダンに寄りかかるユダの姿があった。彼はいつもの仕事用のシャツではなく、トリアのドレスに合わせたような深いネイビーのシャツを纏っていた。長袖の袖口は肘まで丁寧に捲り上げられ、ベージュのチノパンが、リラックスしつつも清潔感のある大人の余裕を醸し出している。
トリアが姿を現すと、ユダは背筋を伸ばした。その動きが一瞬止まる。彼の視線は、近づいてくる彼女の姿に釘付けになった。数秒の間、ユダは何も言わず、ただトリアを頭の先からつま先まで見つめていた。
トリアは彼の二歩手前で立ち止まり、緊張で小さなバッグを握りしめた。
「こんばんは、ユダさん」
トリアが静かに声をかけると、ユダは我に返ったように瞬きをした。そして、いつもとは違う、より深く、感嘆の混じった笑みを浮かべた。
「こんばんは……トリア」
ユダの声は、どこか呆然としていた。
「今夜の君は……本当に、言葉にできないほど綺麗だ」
その真っ直ぐで誠実な称賛に、トリアの顔は一瞬で火照った。彼女は視線を落とし、こぼれそうな笑みを隠した。
「ユダさんも……いつもと雰囲気が違いますね。今日は車なんですか?」
照れ隠しにそう尋ねると、ユダは少しはにかみながら答えた。
「せっかくの髪が風で乱れないようにね。こんなに綺麗な君に、ヘルメットを被せるわけにはいかないだろう?」
ユダは冗談めかして言い、自分の緊張を解こうとした。
「シャニアさん! 行ってきます」
ユダが、目を輝かせて二人を見守っていたシャニアに声をかける。
「ええ、ユダさん。気をつけてね。トリアをがっかりさせたら、承知しないから!」
シャニアが拳を握って脅してみせると、ユダは軍隊のような敬礼のジェスチャーで応えた。
「心得ています、ボス!」
二人のやり取りにトリアは思わず吹き出し、張り詰めていた空気が少しずつ和らいでいった。彼女もシャニアに向かって手を振る。
「シャニアさん……行ってくるね」
「いってらっしゃい、楽しんでね!」
ユダは助手席のドアを開け、トリアが心地よく座るのを辛抱強く待ってから、静かにドアを閉めた。そして足早に車を回り込み、運転席に乗り込んだ。
車内は温かく、親密な空気に包まれていた。エンジンが始動すると、スピーカーから柔らかなジャズの調べが流れ出し、静寂をロマンチックな色彩で満たしていく。
車は観光客で賑わうサヌールの街並みを走り出した。街灯の光が交互に二人の横顔を照らす。トリアはバッグの上に手を置き、時折、片手でハンドルを握るユダの横顔を盗み見た。
「どこへ行くんですか?」
トリアが沈黙を破った。
「海岸沿いに、いい店があるんだ。静かで、落ち着いて食事ができる場所だよ」
ユダは一瞬だけ隣を向き、再び優しく微笑んだ。
「誘いを受けてくれて嬉しいよ、トリア。正直、今日の昼間は断られるんじゃないかって、ずっとどきどきしていたんだ」
トリアは爪先をいじりながら、控えめに笑った。
「どうして断る必要があるんですか? ちゃんと正式なディナーに招待してくれるって、約束したじゃないですか」
「正式、か……」
ユダは小さく笑った。
「それじゃあ、今夜は失敗できないな」
会話は軽やかに弾んだ。流れるジャズのこと、大騒ぎしていたシャニアのこと、そして二人のデートを知って盛り上がっていたアルデンとナディアのこと。さらには、ユダが今日の服を選ぶのにどれほど迷ったかという話まで。
「本当だよ、三回も着替えたんだ。場違いな格好をしていないか不安でね」
ユダの正直な告白に、トリアは鈴を転がすような声で笑った。
「オフィスであんなにクールなユダさんが、服のことで悩むなんて意外です」
「今夜は特別だからね」
ユダが即座に返したその言葉は、トリアの心に花を咲かせた。大切にされている、特別だと思われている。その実感が、彼女の頬の赤みを消させなかった。トリアは思った。今こそ、本当に幸せになってもいい時なのかもしれない、と。
車はやがて、海岸沿いにあるエレガントなレストランの駐車場へと滑り込んだ。建物は開放的な造りで、高い木の天井からはラタンのペンダントライトが吊るされ、温かな黄金色の光を放っている。
波の音がはっきりと聞こえ、食器の触れ合う音や客たちの穏やかな話し声と混じり合っていた。ユダは車を止めると、すぐに降りてトリアのためにドアを開けた。
「さあ、お姫様」
ユダの茶目っ気たっぷりの言葉に、トリアはくすくすと笑いながら彼の手を取った。大きく温かな彼の手の感触に、再び胸の奥が熱くなる。
二人は受付へと向かった。
「予約していたユダ・プラディプタです」
ユダがスタッフに告げる。
「お待ちしておりました、ユダ様。テラス席をご用意しております。ただいま状況を確認いたしますので、少々お待ちください」
ユダがスタッフと話している間、トリアは彼の一歩後ろに立ち、レストランのロマンチックな雰囲気を眺めていた。潮風が頬を優しく撫で、後れ毛を揺らす。
ぶるぶる……ぶるぶる……。
小さなバッグの中で、長い振動が伝わってきた。トリアはびくんと肩を揺らした。シャニアが状況報告か料理の写真を催促してきたのだろうと思った。
シャニアの騒ぎっぷりを想像して可笑しくなりながら、トリアはバッグを開けてスマートフォンを取り出した。
画面が点灯する。通知バーの最上部に、WhatsAppのメッセージが表示されていた。
シャニアからではない。
サンティからでもない。
知らない番号だった。
トリアは眉をひそめた。画面をスライドしてメッセージを開き、そして――。
心臓が止まった。
画面には、一枚の写真が映し出されていた。少し離れた場所から撮られたもので、ズームのせいで粒子が荒いが、はっきりと判別できる。
昨日の夕方、オフィスの駐車場での自分とユダの姿だ。
ユダが彼女の頭にヘルメットを被せている瞬間。
二人の顔が、至近距離で重なり合っている。
トリアが、はにかむように笑っている。
トリアの喉が詰まった。顔から血の気が引き、一瞬で土気色に変わる。写真の下に添えられた言葉を読んだ時、指先が激しく震え出した。
『君の笑顔は相変わらず美しいね、愛しい人。でも、その男は君の隣にふさわしくない』
どくん!
周囲の音が、突然消え去った。波の音も、ジャズも、客たちの笑い声も遠のき、代わりに耳の奥で高い金属音が鳴り響く。
ハルラン。
間違いなく、ハルランだ。これほどまでに恐ろしく、独占欲に満ちた呼び方をする人間は、他にいない。
骨の髄まで凍りつくような寒気が、足先から頭頂部へと駆け抜けた。トリアはパニックに陥り、顔を上げてレストランの薄暗い隅々を狂ったように見渡した。
暗がりの影がすべて怪しく見えた。背を向けて座っている男たちが、すべてハルランに見えた。
彼はここにいるのか?
今、どこかで自分を監視しているのか?
それとも、彼の差し金が今この瞬間もカメラを向けているのか?
「トリア?」
肩に手が置かれた。
「ああっ!」
トリアは激しく飛び上がり、スマートフォンを落としそうになった。目を見開き、恐怖に怯えた表情で一歩後ずさる。
目の前には、困惑と心配を隠せないユダが立っていた。彼の手は、トリアの肩に触れようとした形のまま宙に浮いている。
「どうしたんだ……? 大丈夫か?」
ユダが眉を寄せ、優しく尋ねる。トリアは荒い呼吸を繰り返しながらユダを見つめた。叫びたかった。泣き出したかった。今すぐここから連れ出してほしいと縋りたかった。けれど、舌が強張って動かない。
震える手で、トリアは急いでスマートフォンをバッグに押し込んだ。そして、引きつった、今にも壊れそうな笑みを無理やり浮かべた。
「え……ええ、なんでもないの、ユダさん。ちょっと考え事をしていて、びっくりしただけ」
掠れた声は、自分でも驚くほど説得力がなかった。ユダは疑わしげに彼女を見つめ、急激に青ざめたその顔を凝視した。
「本当に? 手がすごく冷たいよ」
ユダがトリアの手の甲に触れる。トリアはそっと手を引き、寒さを堪えるように自分の腕をさすった。
「潮風が少し強いせいかもしれないわ。さあ、席の準備ができたんでしょう?」
トリアは話題を逸らそうと、力が入らなくなった膝を叱咤して先に歩き出した。ユダはしばらくその場に立ち尽くし、トリアの背中を怪訝そうに見つめていたが、やがて彼女の後を追った。
案内されたのは、海に面したテラスの特等席だった。テーブルの中央で揺れるキャンドルの炎が、白いクロスの上に踊るような影を作っている。
初デートには、これ以上ないほど完璧なシチュエーション。ロマンチックで、静かで、美しい。
だが、トリアにとって、この場所はまるでガラスの牢獄だった。
ユダがおすすめのメニューについて話し、メニュー表のシーフードプラッターを指差している。トリアは頷き、聞き取ろうと努めたが、視線は落ち着きなく動き続けていた。入り口を、ユダの背後のテーブルを、そして暗い砂浜を。
テーブルの下で、彼女はナプキンを真っ白になるまで握りしめていた。
ウェイターが通り過ぎるたびに、トリアの体は硬直した。
客の大きな笑い声が聞こえるたびに、心臓が跳ね上がった。
あのメッセージが頭の中でリフレインする。『その男は君の隣にふさわしくない』
それは単なる嫉妬ではない。明白な脅迫だった。
トリアは、自分に微笑みかけるユダを見つめた。彼は気づいていない。夜の闇の向こう側で、自分たちの幸せを憎悪に満ちた目で見つめている者がいることを。
「トリア、何にする?」
ユダの優しい声。トリアはハッとして、愛情に満ちた彼の瞳を見つめ返した。罪悪感が胸を刺す。美しくあるはずだったこの夜は、死ぬことを拒む過去の影によって、無残に汚されてしまった。
「あ……あなたと同じものでいいわ、ユダさん」
トリアは消え入りそうな声で答え、心の中で祈り続けた。どうか、何事もなくこの夜が早く終わりますように、と。
第48章、お読みいただきありがとうございます。
やっと訪れた穏やかな時間でしたが、影はすぐそばまで迫っていましたね。
トリアの心境の変化や、ユダとのやり取りについて、感じたことがあればコメントで教えてくれると嬉しいです。
次回もどうぞお楽しみに。ブックマークしていただけると励みになります。




