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第44章 擦れ違う優先順位

ガラス張りのレストランの一角では、男たちのテーブルが、真剣ながらもどこか落ち着いた空気に包まれていた。


アルデンはアイスアメリカーノをゆっくりと啜り、グラスをテーブルに戻した。そして、兄でありメンターでもあるような眼差しをユダに向ける。


「ユダ、もう一つ伝えておきたいことがあるんだ。せっかく直接会えたんだから、仕事の話をな」


アルデンが声を潜めて切り出すと、飲み物を混ぜていたユダの手が止まった。わずかに眉が上がる。


「仕事? オークランドの方で何か問題でもあったのか?」


アルデンは小さく首を振り、リラックスした様子で椅子の背もたれに体を預けた。


「問題じゃない、チャンスだ。パシフィック・ビジョン・ソリューションズのシニア・オペレーション・マネージャー、ロバート氏が来月正式に引退する。そのポストが空くんだ」


ユダは一瞬沈黙し、その情報の重みを噛み締めた。アルデンの勤める会社の評判は熟知している。この業界の人間なら誰もが憧れる、国際的なコンサルティング界の巨人だ。


「かなり戦略的なポジションだな。狙っている奴も多いだろう」


ユダが冷静に分析すると、アルデンは少し身を乗り出した。


「ああ。だが会社は、東南アジアの文化を理解し、かつ国際的な仕事の基準を兼ね備えた人材を求めている」


アルデンは言葉を続ける。


「休暇でこっちに来る前、役員会と話をしてきた。お前の名前を推薦しておいたよ、ユダ」


ドクン、と。


ユダの鼓動が跳ねた。冗談を言っているのではないかとアルデンの目を探ったが、親友の表情は極めて真剣だった。


「本気か?」


「本気だ。ジャカルタとバリでの実績があれば、ポートフォリオとしては十分すぎる。お前にその気があるなら、来月からプロセスを開始できる」


ユダは深く息を吐き出し、再び飲み物をかき混ぜた。今度は先ほどよりもゆっくりとした動作だった。誇らしさが込み上げる一方で、意識はすぐに隣のテーブルへと飛んだ。


ナディアの話に声を上げて笑っている、トリアの方へ。


「ありがとう、アルデン。正直驚いたよ……俺を信じてくれて光栄だ」


ユダは誠実な笑みを浮かべて答えた。


「縁があれば、自ずと道は開けるはずだ。だが、少し考える時間が欲しい」


アルデンは軽く笑いながら、ユダの肩を叩いた。


「気にするな。じっくり考えればいい。もしお前が向こうに来てくれたら、最高の飲み仲間ができるしな」


ユダも釣られて笑ったが、胸の内には大きな問いが芽生え始めていた。


(もし本当にこの話を受けることになったら、トリアはどうなる?)


遠くから彼女の背中を見つめ、ユダは小さく首を振った。まだ起こってもいない別れの予感を、無理やり頭の隅へと追いやった。



一方、観葉植物に近い円卓では、女たちの会話が別の話題へと移っていた。ナディアは南半球での生活について、熱心に語っている。


「オークランドは本当に穏やかなところよ、トリアちゃん。空気は綺麗だし、春になると花がとっても美しく咲き乱れるの」


目を輝かせるナディアの話を、トリアは頬杖をついて熱心に聞いていた。


「ナディアさんは、向こうでの生活が本当に合っているんですね」


「ええ、もちろん。最初はインドネシアを離れるのが辛かったけど、アルデンがいたから乗り越えられたわ。家っていうのは場所じゃなくて、誰と一緒にいるか、でしょう?」


ナディアはオレンジジュースをかき混ぜ、ふと思い出したように表情を改めた。少し真剣で、それでいて温かみのある視線をトリアに向ける。


「そういえば、オークランドの話だけど……さっきホテルでアルデンから聞いたの」


「何を聞いたんですか?」


トリアが純粋な疑問を投げかけると、ナディアは言葉を繋いだ。


「アルデンの同僚が引退するらしくてね。そのポスト、ユダくんにぴったりだってアルデンが言ってたわ」


パリンッ。


そんな音が、トリアの脳内で響いた。現実の音ではない。だがその衝撃に、ストローを持っていた彼女の手が止まった。


「それって……ユダさんがニュージーランドに移住するかもしれないってことですか?」


トリアの声は、空虚で細かった。ナディアはトリアの顔色の変化に気づかず、平然と頷いた。


「ユダくんがその気になれば、可能性は高いわね。アルデンも彼を呼び寄せようと張り切ってるし。給料はドル建てだし、キャリアにとっても最高の話じゃない? 断る理由なんてないわよね」


トリアは素早く男たちのテーブルに目をやった。アルデンの言葉に、ユダが楽しそうに笑っているのが見えた。その笑みは晴れやかで、まるで輝かしい未来を計画しているかのようだった。


ここから遠く離れた場所。バリからも、そして自分からも遠い場所。


(彼は……行ってしまうの?)


聞き覚えのある息苦しさが、突然トリアの胸を締め付けた。ようやく心の扉をわずかに開けかけたというのに、別れの報せが先にノックをしてきたのだ。


トリアが急に黙り込んだことに気づき、ナディアはすぐにその理由を察した。悪戯っぽい笑みが再び唇に浮かぶ。


「あら……急に考え込んじゃって。置いていかれるのが怖いの?」


ナディアがトリアの腕を軽くつつくと、トリアはハッとして我に返った。図星を突かれて顔を赤らめるが、その瞳には隠しきれない不安が滲んでいた。


「えっ……そ、そういうわけじゃなくて。ただ、驚いただけです」


ナディアは愛おしそうにクスクスと笑った。


「大丈夫よ、可愛い人。まだ計画の段階なんだから。あなたの『ダーリン』は、そんなにすぐには逃げ出さないわ。それに彼が賢いなら、こんなところにダイヤモンドを置いていったりしないはずよ」


トリアは苦笑いするしかなかった。ナディアの冗談が、今の彼女には少しも笑えなかった。



昼休みが終わろうとしていた。男たちが立ち上がり、トリアとナディアのテーブルに歩み寄ってくる。


「さて、オフィスに戻ろうか。遅れるといけない」


ユダが腕時計を見ながら促した。トリアは小さく頷き、心の動揺を薄い笑みの下に隠した。


「ええ、行きましょう」


四人は並んでレストランを出て、昼下がりの太陽が照りつける駐車場へと向かった。


ユダとアルデンが道順を話しながら少し前を歩いていると、ナディアが突然トリアの腕を掴んだ。男たちとの間に、意図的に距離を作る。


「トリアちゃん、ちょっと」


トリアが振り返る。「どうしたんですか?」


ナディアのいつもの明るい表情が、真剣なものへと変わっていた。その眼差しは鋭くも慈愛に満ち、まるで実の妹を見守るかのようだった。


「一つだけ言わせて」


ナディアは囁くように言った。


「ユダくんはね……滅多なことでは人を好きにならない人よ。理想が高くて、理屈っぽすぎるところもある。でも、一度誰かを選んだら、その人を死ぬ気で守り抜く男よ」


トリアはバッグのストラップを握りしめ、沈黙した。


「あなたの過去に何があったかは知らない。でも、あなたが自分の中に高い壁を築いているのは見て取れるわ」


ナディアは優しく、風に乱れたトリアの髪を整えた。


「過去の恐怖に、未来を邪魔させちゃだめよ、トリアちゃん。幸せになるチャンスは、二度とは来ないこともある。ユダくんが一歩踏み出したなら、あなたも勇気を出してそれに応えなきゃ」


その言葉は、トリアの心の奥深くに突き刺さった。ハルランというトラウマの影に隠れ続けてはいけないのだと、突きつけられた気がした。


「はい……アドバイス、ありがとうございます」


トリアが消え入りそうな声で答えると、ナディアは再び明るい表情に戻って満面の笑みを浮かべた。


「よし! 頑張ってね。続きはまたWhatsAppでやり取りしましょう」



オフィスへの帰り道は、行きとは違う空気が流れていた。ヘルメットについての冗談も、手を握るような甘いやり取りもない。ただ、エンジンの音と耳元をかすめる風の音だけが響いていた。


トリアは後部座席に座り、バイクのグラブバーを握りしめていた。ナディアの助言と、ニュージーランドの話が頭の中で激しく渦巻いている。


この沈黙は親密でありながら、問いを抱えるトリアにとっては息苦しいものだった。


ついに、トリアは耐えきれなくなった。少し身を乗り出し、風を切り裂くようにユダの背中に顔を近づける。


「ユダさん……」


「ん?」


ユダは少しだけ顔を向けたが、視線は道路に集中させたままだった。


「さっき……ナディアさんから、アルデンさんの会社での仕事の話を聞きました」


トリアが慎重に切り出すと、ユダは一瞬沈黙した。バイクは混雑しつつも流れの良いバイパスを安定して走っていく。


「ああ、その話か。ナディアのやつ、口が軽いな」


ユダは場の空気を和らげようと、低く笑った。


「……向こうに行くつもりなんですか?」


トリアは単刀直入に尋ねた。その声は小さく、他の車の騒音にかき消されそうだった。


ユダはハンドルを握る手に力を込めた。その問いに含まれた不安な響きを、彼は逃さなかった。


「確かにオファーはあったよ、トリア。素晴らしいチャンスだ。だが、先のことについてはまだ分からない。そのポストが本当に空くかどうかも含めてね。それに……」


ユダは正直に答えた。バックミラー越しに、トリアのヘルメットの反射をちらりと見つめる。


「今の俺にとって、最優先事項はここにあるから」


穏やかな声だった。トリアはヘルメットのシールド越しに瞬きをした。


(ここに?)


混乱していた彼女の脳は、「ここ」という言葉を物理的な場所として解釈した。オフィス。バリ。アルカディア・プライム。


「ああ……そうですね。アルカディア・プライムは今、プロジェクトが山積みですものね」


トリアは少しだけ安堵して、小さく呟いた。


ユダはヘルメットの中で苦笑した。後ろにいる女性の鈍感さに少しだけ呆れながらも、彼はあえて訂正しなかった。残りの答えは、時間が証明してくれるだろう。


(アルカディアじゃない、トリア。俺の優先順位は、君なんだ)



ブロロロ……。


ユダのスクーターがアルカディア・プライムのゲートをくぐった。警備員が短く敬礼し、ユダは会釈で応える。


二人はゆっくりと従業員用の駐輪場へと向かった。ユダがトリアを乗せている光景は、もはや珍しいものではなくなっていたが、それでもいくつかの視線を集めていた。


しかし、その中に一つだけ、他とは違う眼差しがあった。


一階ロビーのガラス壁の向こうで、ユニ・ララサティが立ち尽くしていた。腕を組み、白いブレザーの袖口を握る指先が、白くなるほど力んでいた。


彼女は見ていた。ユダがバイクを停め、トリアが降りるのを辛抱強く待つ姿を。ユダがトリアからヘルメットを受け取り、この二年間、自分には一度も見せたことのないような笑みを浮かべるのを。


ユニの顔には、もはや皮肉な笑みも激しい怒りもなかった。ただ、平坦で、冷たく、計算高い表情だけがそこにあった。


「そういうことね……」


ユニは低く、毒を吐くように呟いた。

第44章、お読みいただきありがとうございます。

ニュージーランドの話、そしてユダさんの本心……トリアさんはまだ気づいていないようですが、読者の皆さんはヤキモキしますね。

「ユダさん早く言って!」「ユニ怖い」など、コメントお待ちしています。

次章は、また緊迫した展開になりそうです。ブックマークよろしくお願いいたします。

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