第43章 世界は意外と狭い
ナディアが放った「爆弾」がテーブルの真ん中で炸裂し、その場の空気は一瞬にして凍り付いた。トリアは俯いたまま動けず、ユダは突然短くなった呼吸を整えるのに必死だった。
幸運にも、絶妙なタイミングでウェイターが姿を現した。
磁器の皿が次々とテーブルに並べられる。芳醇なスパイスの香り、食欲をそそるスモーキーなグリルの匂い、そしてオーガニック野菜のみずみずしい香りが、瞬く間に鼻腔を満たした。
「ごゆっくりお楽しみください」
ウェイターは恭しく一礼して去っていった。
ユダの秘密を暴露した張本人であるナディアは、何事もなかったかのようにフォークを手に取った。彼女はトリアに親しげな眼差しを向け、凍り付いた空気を溶かそうとする。
「さあ食べて、トリア。さっきの話は気にしないで、ただの冗談よ」
ナディアはクスクスと笑ったが、その瞳には依然として悪戯っぽい光が宿っていた。
「トリアは、もともとどこの出身なの?」
話題が変わったことに安堵し、トリアはゆっくりと顔を上げた。「はい、ナディアさん。出身はジョグジャカルタですが、ここ数年はジャカルタで働いていました」
「あら、ジョグジャ! どうりで言葉遣いが上品だと思ったわ」
ナディアはサラダを頬張りながら相槌を打つ。「ジャカルタではどこに勤めていたの?」
他愛のない会話が滑らかに流れ始めた。ナディアには、初対面の相手でも長年の友人のようにリラックスさせる不思議な才能があった。トリアの強張っていた肩から、次第に力が抜けていく。
トリアはジャカルタでの経験を語り始めた。もちろん、ハルランに関する部分は伏せたままだ。そして、なぜ新しい環境を求めてバリへ来る決意をしたのかを静かに話した。
一方、テーブルの反対側では、二人の男が自分たちの世界に没頭していた。
「それで、アルデン。いつまでこっちにいるんだ?」
ユダは、ナディアが時折自分に向けてくる揶揄するような視線を無視しようと努めながら尋ねた。
「二週間だけだ、ユダ。ナディアがどうしてもバリに来たいって聞かなくてね。ニュージーランドに戻る前に、リフレッシュしておこうと思って。オークランドのプロジェクトが今、かなり立て込んでるんだ」
「まだ国際建設の分野か?」
「ああ。今は新しい港湾開発を手掛けている。プレッシャーは凄まじいが、その分、あっちでの生活費を賄うには十分すぎる報酬をもらっているよ」
アルデンは落ち着いた様子で答えた。
レストラン『ザ・グラス・ハウス』は、昼時を過ぎても賑わいを見せていた。ガラスの壁を通り抜ける陽光が、木のテーブルの上に美しい陰影を描き出している。ノートパソコンを広げるエグゼクティブや、軽装の観光客たちの話し声が、心地よい背景音となって響いていた。
皿が空になると、再びウェイターがやってきて食器を下げ、注文していた冷たい飲み物を運んできた。トリアはアイスライチティー、ナディアはフレッシュオレンジジュースを口にする。
不意に、ナディアがテーブルの上にあるトリアの手に触れた。
「トリア、あっちの席に移動しない? あっちの方が写真映えしそうだし。それに、この二人の『熊さん』たちに、思う存分政治やプロジェクトの話をさせてあげましょうよ」
ナディアが立ち上がると、トリアもそれに続こうとした。しかし、ユダの反応はそれよりも遥かに早かった。彼は反射的に顔を上げ、警戒心を露わにしてナディアの動きを追う。
「ナディア、トリアをどこへ連れて行くつもりだ?」
ユダの声には、隠しきれない保護欲が混じっていた。ナディアは足を止め、ニヤリと深い笑みを浮かべて振り返る。
「落ち着いてよ、ユダ。トリアを誘拐したりしないわ。ただ隣の席に移るだけ。あっちの方が景色がいいのよ」
ナディアは茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせた。
「どうせあなたとアルデンは、一度話し始めたら自分たちの世界に沈んじゃうでしょ。トリアにそんな専門用語ばかり聞かせるのは退屈よ」
ゴホン!
ユダは小さく咳き込んだ。親友の前であまりに独占欲を出しすぎたことに気づき、きまりが悪そうにアルデンへ視線を戻す。アルデンはそんなユダの反応を見て、満足げに肩を揺らして笑っていた。トリアも、ナディアにやり込められて形無しなユダの姿に、思わず吹き出しそうになった。
「行きましょう」
ナディアはグラスを手に、トリアを促した。
二人の女性は観葉植物に囲まれた隅の円卓へと移動した。残されたユダとアルデンは再び会話に戻ったが、ユダの視線は時折、どうしても彼女たちの方へと向いてしまう。
トリアはストローで飲み物を啜った。ライチの甘さと冷たさが、ゆっくりと喉を潤していく。ナディアは両手で頬杖をつき、満面の笑みでトリアを見つめた。
「それで……」
ナディアは、からかうような低い声で切り出した。
「二人はもう、付き合ってるの?」
ブッ!
トリアは激しくむせた。今度は本当に驚いたのだ。顔は耳の先まで真っ赤に染まっている。
「ナディアさん……」
トリアは困り果てたような声を漏らした。まるで年上の姉に追い詰められた妹のような反応だった。
「ウフフ!」
ナディアは楽しそうに笑った。「ごめん、ごめん。冗談よ、トリア。だって、あなたとユダってどこか似てるんだもの。いじりがいがあるというか」
トリアは小さく溜息をつき、照れくさそうな笑みを浮かべた。彼女はそっとユダのテーブルの方へ目を向ける。遠目に見えるユダは、アルデンと真剣な表情で話し込み、手振りで何かを説明していた。その横顔は凛々しく、それでいてどこか穏やかだ。
ナディアも視線を移し、夫とユダの様子を眺めた。「あんなに饒舌なユダを見るのは、初めてじゃない?」
トリアは静かに頷いた。「はい。会社での彼は……なんていうか、王子様みたいなんです。ハイクラスで、冷徹で、威厳があって。他人とは必要最低限のことしか話さない方ですから」
「それで……?」
ナディアが先を促す。
「どうしてでしょう。あんな風に真剣な時の彼は、すごくカリスマ性があって……」
トリアは無意識のうちに言葉を繋いでいた。
ドクン。
「えっ? あの、その……」
トリアはハッとして目を見開いた。自分の口から出た言葉の重さに気づき、慌てて両手で口を覆う。ナディアはそんな素直な反応を見て、再び満足げにクスクスと笑った。
「トリア、恥ずかしがることはないわ」
ナディアはテーブルの上のトリアの手を優しく握った。
「同じ女性として、あなたの気持ちは手に取るようにわかるわよ。ユダのことが好きなんでしょう?」
トリアの顔に再び熱が昇る。「ナディアさん、そんな……」
否定しようとしたが、その声には全く説得力がなかった。彼女はさらに深く俯き、ストローの先をいじった。
「誤魔化しても無駄よ。さっきの彼の見つめ方だけで、十分伝わってきたわ」
ナディアの柔らかな微笑みに、トリアは深く息を吐き出した。そして、囁くような小さな声で尋ねた。
「そんなに……そんなに、はっきり分かってしまいますか?」
ナディアは目を見開き、トリアの手をさらに強く握りしめた。「私にはね。でもユダはどうかしら? おそらく気づいてないわね。あの子、仕事はキレるけど、女心に関しては……かなり鈍感なのよ」
トリアは顔を上げ、ナディアを見つめた。そして、心からの笑みを浮かべた。出会ったばかりの人なのに、不思議と信頼できる。本心を打ち明けられたことで、胸のつかえが降りたような気がした。
「いつからユダのことを意識し始めたの?」
ナディアの問いに、トリアは少しの間沈黙した。記憶の断片を整理するように。
「分かりません。本当に、突然だったんです。きっかけは、昨日の夕方かもしれません。彼が突然、一緒に帰ろうって私の手を引いて……それから、激しい雨が降ってきて……」
トリアは言葉を切った。今朝のオフィスの光景が脳裏をよぎったからだ。あの野心家のマーケティングスタッフ、ユニが、皆の前で恥ずかしげもなくユダの腕に抱きついていた場面。あの時に感じた胸のざわつきが、再び蘇ってくる。
「どうしたの、トリア?」
表情を曇らせたトリアに、ナディアが気づいた。
「さっき……会社にユニという同僚がいるんですが、彼女が突然、皆の前でユダの腕に抱きついたんです。それを見て、なんだか……すごくモヤモヤしてしまって」
トリアは、ナディアになら話せると感じ、その時の気持ちを打ち明けた。
ナディアの眉が鋭く寄せられた。その表情は一変して真剣なものになる。「ユニ? その子、いつもユダにあんな感じなの?」
トリアは力なく頷いた。「長く勤めている同僚の話では、そうみたいです。彼女、ユダさんのことが好きみたいで」
ナディアは何かを企むように小さく頷いた。しかし、すぐにまた明るい笑顔を取り戻す。
「まあ、そんなユニなんて放っておきなさい。どうせユダが好きなのは、あなただけなんだから」
カアッ。
「ナディアさん、もう、からかわないでください!」
トリアは狼狽えて声を潜めた。「ユダさんは、私のことをただの友達だと思っているはずです。それに、彼が私の面倒を見てくれるのは、シャニアさんに頼まれたからで……」
「シャニア?!」
ナディアが勢いよく声を上げ、トリアは驚いて肩を震わせた。
「はい。シャニアさんが、うちの人事部長のバスカラさんに私を推薦してくれたんです」
「じゃあ、あなたはシャニアの親戚なの?」
ナディアが目を輝かせて身を乗り出す。トリアは首を振った。
「いえ、シャニアさんの妹のサンティが私の親友なんです。バリにいる間は、シャニアさんの家に居候させてもらっています」
それを聞いたナディアは、宝物でも見つけたかのように満面の笑みを浮かべ、力強く頷いた。
「それは素晴らしいわ」
不思議に思ったトリアが問い返す。「ナディアさんは、シャニアさんをご存知なんですか?」
ナディアは椅子の背もたれに体を預け、満足げに笑った。
「知っているどころじゃないわよ、トリア。私たち、昔は一緒に悪いことばかりしてたんだから! ジャカルタの大学時代の遊び仲間よ。本当に、世間って狭いわね」
「えっ? 本当ですか?」
トリアは呆然と目を見開いた。
二人の女性が盛り上がっている様子を、隣のテーブルからユダとアルデンがずっと見守っていた。アルデンは少し身を乗り出し、ユダの耳元で囁く。
「あいつら、すっかり意気投合してるな。お前、終わったぞ、ユダ。今日一日で、お前の過去の失態は全部ナディアにぶちまけられるだろうな」
ゴクリ。
ユダは生唾を飲み込んだ。先ほどまでの冷静な表情はどこへやら、顔がみるみるうちに強張っていく。ナディアは楽しそうに笑いながら、トリアの耳元で何かを囁いている。
「頼む、アルデン……ナディアに、あまり余計なことを言わないように伝えてくれ。俺はこれからアプローチしようとしてるんだ。変な過去を知られて逃げられたら困る」
ユダは悲痛な面持ちで懇願した。しかし、アルデンは無慈悲にも首を振った。
「無理だ、ブラザー。ナディアを止めたりしたら、俺は今夜、ホテルの部屋から追い出されちまう」
アルデンは同情を込めてユダの腕を叩いた。
「祈るんだな。ナディアが『暴走』して、お前のカードを全部トリアに見せないことを。健闘を祈るよ、勇敢な戦士」
ユダは力なく頷くしかなかった。彼の視線の先では、トリアがナディアの話を聞いて楽しそうに笑っていた。
(アーメン……)
ユダは心の中でそう呟いた。その祈りが、すでに手遅れであることを予感しながら。
第43章、お読みいただきありがとうございます。
なんと、ナディアとシャニアは旧知の仲だったとは! 世界は本当に狭いですね。
「展開が面白い」「ナディアさん頼もしい」など、感想をコメントでいただけると嬉しいです。
ユダさんの過去が暴かれるのか!? 次章もどうぞお楽しみに。
ブックマークよろしくお願いいたします。




