第42章 食卓に漏れ出た秘密
ユダのスクーターのエンジン音が、昼時の混雑が始まったサヌールの通りを切り裂いていく。ヘルメットの隙間から入り込む生暖かい海風が、トリアの頬を撫で、ヘルメットの隙間から覗く髪を揺らした。
トリアは前を走るユダの背中を見つめた。その背は驚くほど広く、確かな存在感を放っている。ただその背中を見つめているだけで、胸の奥がざわつくのを感じた。
どきどき。
心臓の鼓動が激しく刻まれる。トリアは慌てて視線を落とし、自分の靴の先を見つめた。昨日の雨の中での出来事、昨夜の短いメッセージ、そして何より、先ほどオフィスで起きたことが頭をよぎる。
昨夜の彼の優しい態度は、ただの気まぐれだと思っていた。しかし、その予想は大きく外れた。今日のオフィスでのユダは、昨日よりもずっと大胆だった。ミラやセラ、そしていつも皮肉を言ってくるユニの目の前で、彼は堂々とトリアの手を引いたのだ。
トリアは膝の上で指を強く握りしめた。頬が熱く火照るのを感じる。けれど、唇の端には自然とかすかな微笑みが浮かんでいた。ユニの前で自分を庇ってくれた彼の姿を思い出すと、温かいものが胸に広がる。まるで、目に見えない頑強な砦に守られているような、そんな心地だった。
スクーターを操るユダもまた、見た目ほど冷静ではなかった。ハンドルを握る手は、じっとりと冷や汗をかいている。自分でも、先ほど取った行動が信じられなかった。
(どうしてあんなに大胆な真似を……)
トリアの手を優しく引き、彼女を導くようにオフィスのロビーを通り抜けた時の光景が脳裏に焼き付いている。警備員の驚いた顔や、すれ違う社員たちの囁き声もはっきりと覚えている。だが不思議なことに、後悔はしていなかった。
ユダは、先ほどトリアの指を包み込んでいた左手に目をやった。無意識のうちにその手を少し持ち上げ、ヘルメットのシールドの隙間から鼻を近づける。
ふわり。
彼女が使っているハンドクリームだろうか。百合の花のような、柔らかく落ち着く香りが微かに残っていた。
「……いい香りだ」
風の音にかき消されるほどの小さな声で、ユダは独り言を漏らした。
しかし、あることを思い出してユダの表情が急に強張った。今日はアルデンとナディアと昼食を共にする約束をしていたのだ。二人はすでに、宿泊先のホテルの近くにあるレストランで待っているはずだった。
「しまった!」
ユダは小さく声を上げた。
(アルデンとの約束をすっかり忘れていた。いきなりトリアを連れて行ったら、あいつらに何て説明すればいいんだ?)
ユダは唾を飲み込んだ。お喋りが大好きで、からかう機会を逃さないナディアの顔が浮かぶ。パニックになりかけたが、今さら引き返してトリアをどこかで降ろすわけにもいかなかった。
やがてユダのスクーターは速度を落とし、緑豊かなトロピカルモダンな外観のレストランへと入っていった。そこは『ザ・グラス・ハウス』という名の店で、オフィスからは28分ほど離れた場所にある。普段彼らが利用する店よりも、ずっとプライベートな雰囲気が漂っていた。
バイクを降りたトリアは、ガラス張りの建物と瑞々しい植物に囲まれた店構えを眺めた。
「ユダさん、ここで食べるの?」トリアは少し戸惑いながら尋ねた。「いつもの行きつけのお店じゃないよね?」
ユダはヘルメットを脱ぎ、呼吸を整えて平静を装った。「たまには気分転換もいいだろう、トリア。さあ、入ろう」
トリアは小さく頷き、ユダの後に続いた。
カラン。
ドアに取り付けられたベルが鳴り、二人が足を踏み入れる。外のサヌールの猛暑とは対照的に、冷房の効いた涼しい空気が肌を包み込んだ。店内は観光客や外国人居住者で賑わっている。
「ユダ! こっちだ!」
店内の喧騒を突き抜けるような大きな声が響いた。トリアとユダが同時に視線を向けると、窓際の角の席で一人の男性が勢いよく手を振っていた。その隣には、期待に満ちた表情を浮かべた美しい女性が座っている。
ユダは引きつった笑みを浮かべ、トリアを振り返った。「行こう、トリア。俺の友人たちだ」
トリアは絶句した。友人? まさかこのランチに他の誰かが同席するとは思ってもみなかった。不安を抱えながらも、彼女はユダの後に続いて歩き出した。
テーブルの前に到着し、ユダが口を開こうとしたその時だった。
「ああ! あなたがトリアさんね!?」
ナディアが弾んだ声を上げ、ユダの言葉を遮った。彼女は勢いよく立ち上がると、トリアの手を握って握手を求めた。
「ユダが惚れ込んでるっていう、あの彼女でしょ? 彼の冷え切った心に花を咲かせた女性!」
かあっと、トリアの顔が熟したトマトのように真っ赤に染まった。彼女は硬直したまま、ナディアに握られた手に力が入らない。
ユダが、自分を好きだなんて。
ユダ自身も、その瞬間に目の前の世界が崩れ去るような感覚に陥った。今すぐこの場から消えるか、海に飛び込みたい気分だった。彼はアルデンを鋭く睨みつけ、無言で責任を追及した。
アルデンは即座に視線を逸らし、トレイを運ぶウェイターを眺めながら、「おっと、俺の管轄外だぜ」と言わんばかりの表情を浮かべている。
「は、はい……トリアです」
トリアは喉の奥で消え入りそうな声で、ぎこちなく答えた。
ナディアは、その場の空気が耐え難いほど気まずくなっていることなどお構いなしに、楽しそうに笑った。そしてトリアを自分の隣の席へと引き寄せた。
「座って座って、トリアさん。遠慮しないで」
ナディアはそう言うと、今度は入り口の置物のように立ち尽くしているユダに視線を向けた。彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべ、ユダに手を差し出した。
「元気だった、ユダ? 久しぶりね」
ユダは、油の切れたロボットのようなぎこちない動きでその手に応じた。「ああ、元気だ、ナディア。……久しぶりだな」
緊張のあまり、ユダの声は上ずり、震えていた。
ユダの手を握ったまま、ナディアは深くうつむいているトリアを盗み見た。トリアは今、目の前のテーブルクロスの模様に異常なほどの関心を示しているようだった。
「ユダ、トリアさんって本当に綺麗ね」ナディアは遠慮なく褒めちぎった。「ずっと独身だったのも納得だわ。こんなに素敵な人が理想だったのね。親友の私としては……もちろん、大賛成よ! 二人の仲を応援するわ!」
トリアの顔は、もはや火傷しそうなほど熱くなっていた。今すぐテーブルの下に隠れてしまいたい。
すっ。
ユダは素早くナディアから手を引いた。
「ゴホン!」
彼はわざとらしく大きな咳払いをし、制御不能になりつつある状況を立て直そうとした。
「……話の続きは食事をしながらにしよう。トリアがお腹を空かせている」
ユダはゆっくりとトリアのすぐ隣の席に腰を下ろした。すると。
「まあ、なんて優しいの! 今のユダは本当に気が利くわね、あなた?」
ナディアが再びアルデンの腕を小突いて茶化した。
先ほどから天井を見上げて笑いを堪えていたアルデンが、ようやく短い言葉を発した。
「ああ。甘くなったもんだ。まるで蜂蜜漬けのフルーツみたいだな」
アルデンはユダの殺気立った視線を避けながら、そう付け加えた。
そのテーブルの空気は、実に奇妙なものだった。片側ではナディアが陽気に喋り倒し、もう片側では二人の男女が猛烈な羞恥心に襲われている。
ユダは、シャツの襟元が急に窮屈になったように感じた。
指先で第一ボタンを外す。冷房の効いた店内のはずなのに、彼にはそこが酷く暑く感じられた。ユダは視線の端でトリアを伺った。
ちょうどその時、トリアもまた彼を盗み見ていた。
どきり。
二人の視線が、わずかコンマ数秒だけ重なった。
ふいっ。
二人は同時に、正反対の方向へと顔を背けた。トリアはブラウスの裾をギュッと握りしめ、ユダは目の前のスプーンとフォークの配置を直すのに必死な振りをし始めた。
ナディアはその光景を見て、満足げに微笑んだ。彼女にとって、これはどんな韓国ドラマよりも刺激的な見世物だった。一方、アルデンは深くため息をつき、同情に満ちた目でユダを見つめた。
(悪いな、相棒。こればっかりは俺にも止められなかったんだ)
第42章、お読みいただきありがとうございます。
アルデンとナディアという最強の助っ人(?)登場で、ユダさんとトリアさんは大パニック!
「ナディア最高」「二人とも可愛すぎる」など、温かいコメントをいただけると嬉しいです。
この後、ランチはどうなる? 次章もどうぞお楽しみに。
ブックマークよろしくお願いいたします。




