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第41章 突然のランチの約束

 午前十時。三階のロビーに漂う空気は、いつもよりどこか張り詰めていた。


 ユニはパントリーから姿を現し、冷たい水の入ったタンブラーを指先で弄んでいた。足を止め、ゆっくりと中身を口に含みながら、視線はオープンスペースへと向けられる。


 その瞳が、執務室から出てきたばかりのユダの姿を捉えた。彼は迷いのない足取りで、ある場所へと向かっていく。事務デスク――トリアの席だ。


 ユニの口元に、薄い笑みが浮かんだ。甘いやり取りか、あるいは感情の衝突でも起きるのではないかと期待に胸を躍らせる。しかし、目の前の光景は予想に反するものだった。ユダがデスクの傍らに立っても、トリアは顔を上げようともしなかったのだ。


 それどころか、トリアは山積みのファイルに没頭し、まるで生きるか死ぬかの瀬戸際にいるかのような猛烈な勢いでキーボードを叩き続けている。


 ユダが言葉をかけようとした瞬間、トリアは弾かれたように立ち上がった。数枚の書類をひったくるように掴むと、隣に佇むユダには目もくれず、コピー機の方へと足早に去っていく。


 ユニは小さく含み笑いをもらした。胸の奥で、どす黒い満足感が弾ける。


「いい気味だわ」


 静寂に向かって、低く呟いた。


「ようやく自分の立場を理解したようね」


 ユニは顎を上げ、誇らしげな足取りでマーケティング部の部屋へと戻っていった。昨日のパントリーでの毒が、完璧に回ったのだと確信していた。トリアは怯え、身を引いた。それはユニにとって、完全なる勝利を意味していた。


 オフィスを照らす蛍光灯の下で、時間は緩やかに過ぎていく。目に見えない緊張感を孕んだまま、時計の針はついに正午を指した。


「ねえ、昨日のお店にまた行かない?」


 ミラが弾んだ声で誘い、手際よくバッグを整える。


 セラも頷いたが、その視線はどこか心ここにあらずといった様子のトリアに向けられた。「トリア、行きましょう。ぼーっとしてちゃダメよ。昨夜の電話の『事件』について、たっぷり聞かせてもらうんだから!」


 トリアはハッとし、手がわずかに震えた、震える手でスマートフォンをバッグに押し込んだ。「え? あ、ええ……」


 ガチャリ。


 ユダの執務室のドアが開いた。トリアは反射的にそちらを向き、心臓が不規則な鼓動を刻み始める。しかし、ユダが歩み寄るよりも早く、マーケティング部の方から一つの影が滑り込んできた。


 コツ、コツ、コツ!


 小気味よい足音は、周囲を驚かせる大胆な動きで止まった。ユニ・ララサティが突如としてユダの隣に現れ、慣れた手つきで彼の腕に絡みついたのだ。あまりに近く、あまりに不敵な距離だった。


「ユダさん! 奇遇ですね」


 静まり返ったフロアに、ユニの甘ったるい声が響き渡る。


「一緒にランチに行きませんか? 新しいステーキハウスを見つけたんです。きっと気に入っていただけるわ」


 トリアの身体が凍りついた。ミラとセラは顔を見合わせ、呆然と口を開けている。ユダ自身も虚を突かれたようで、しがみつかれた自分の腕を冷ややかな目で見つめた。


 ユダは短く咳払いをし、硬く結ばれた顎のラインをさらに強張らせた。彼はゆっくりと腕を引き抜こうとする。「ユニ、離してくれ。人目が良くない」


 だが、ユニはさらに力を込めて抱きつき、その微笑みを崩そうとはしない。「いいじゃないですか、ただのランチですもの。今日は私にご馳走させてください!」


 ミラは鼻を鳴らし、スカートの脇で拳を握りしめた。ユダを自分の所有物のように扱うユニの振る舞いが、我慢ならなかった。セラはただ溜息をつき、深くうつむいてバッグのストラップを握りしめるトリアを見守ることしかできない。


 ユダは腕を振り解こうとするのを止めた。背筋を伸ばし、表情から温度を消す。だが、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。彼はプロフェッショナルな、そして極めて冷淡な笑みを浮かべる。


「あいにくだが、それはできない」


 ユニは眉をひそめ、不満げに唇を尖らせた。「どうして? ユダさんも休憩でしょう? いつも一人で食べているじゃない」


「そうではないんだ」


 ユダは短く答え、視線を巡らせた。彼が最初から探していた、ただ一人の女性を捉える。その瞳が、トリアを射抜いた。


「トリアとランチの約束をしているんだ」


 ドクン、と心臓が跳ねた。


 トリアは勢いよく顔を上げた。目を見開いたまま、思考が停止する。穏やかな微笑みを向けてくるユダを見つめていると、世界が止まってしまったかのような錯覚に陥る。


「そうだろう、トリア? 今朝、メッセージで約束したじゃないか」


 ユダは、存在もしない事実をさも当然のように口にし、彼女に同意を求めた。


 トリアは喉の奥が詰まったような感覚に襲われた。鋭い視線を向けてくるユニと、期待を込めた眼差しで自分を見つめるユダを交互に見る。極限の緊張の中で、トリアは無意識のうちに、小さく首を縦に振っていた。


「え……ええ、そうです。本当です」


 ミラとセラは、驚きのあまり叫び出しそうになるのを必死で堪えた。二人は顔を見合わせ、一体いつそんな約束が交わされたのかと、記憶を必死に手繰り寄せる。


 ユニはゆっくりと腕を離した。その手は力なく体側に落ちる。一瞬だけ悔しげな表情を見せたが、仮面を被ることに長けた彼女は、すぐに自分を取り繕った。


「あら……そうなの?」


 ユニは乾いた笑い声を上げた。「それなら仕方ないわね。新人さんのお相手で『お忙しい』なら。お先に失礼するわ!」


 ユニは軽やかに手を振ると、優雅な足取りでエレベーターへと向かっていった。


 チーン。


 扉が開き、ユニが乗り込む。扉が完全に閉まるまで、その唇には艶やかな笑みが張り付いたままだった。


 ドンッ!


 無人になった箱の中で、ユニは鉄の壁に拳を叩きつけた。笑みは消え失せ、恐ろしいほどの憤怒がその顔を支配する。肩で荒い息をつきながら、低く呪詛を吐いた。


「あの女……!」


 その瞳には、どす黒い憎悪が渦巻いている。


「身の程知らずにもほどがあるわ。忠告してあげたのに、調子に乗って……」


「見てなさい。この会社で、ただで済むと思わないことね」


 事務デスクの周辺には、まだ気まずい空気が漂っていた。ミラは隠しきれない好奇心を顔に出し、トリアに詰め寄る。


「ヒューヒュー! 秘密の約束なんて、聞いてないわよ? どういうこと?」


 ミラが肩を小突くと、トリアの顔は一気に熱を帯び始めた。「違うの、ミラ……それは……その……」


 言い訳を探して口を開くが、言葉が出てこない。自分でも、なぜあんな嘘に頷いてしまったのか分からなかった。


 不意に、バッグを握っていたトリアの手の甲に、温かい感触が触れた。驚いて顔を上げると、すぐ隣にユダが立っていた。


「行こう。もたもたしていると、店が混んでしまう」


 ユダは返事を待たなかった。トリアの指先を優しく包み込み、椅子から立ち上がらせるようにゆっくりと引く。


「ユダさん……ちょっと、待って……」


 トリアはパニックになりながらも、足は勝手に彼の歩みに従ってしまう。


 ユダは、目を輝かせて見守るミラとセラの方を振り返った。


「ミラさん、セラさん、すみません。トリアを少しお借りします。二人で先に食べていてくれますか?」


 ミラは満面の笑みで、勢いよく手を振った。「全然構いません、ボス! なんならトリアをそのままお持ち帰りしちゃってもいいですよ!」


「ミラ!」


 トリアは親友を鋭く睨みつけたが、ユダはそれを見て低く笑った。


 ユダはトリアの手を引いたまま、エレベーターへと向かう。その握り方は決して離さないという意思を感じさせ、むしろさらに彼女を守るような力強さがこもっていた。トリアはなす術もなく、茹で上がったカニのように顔を真っ赤にして、ただ彼に付いていくしかなかった。


 ミラとセラは、遠ざかる二人の後ろ姿を見送って、いたずらっぽく笑い合った。


 チーン。


 エレベーターの扉が開き、二人は中へと消えていく。トリアは磨き上げられた壁に映る自分の姿と、ユダに固く握られたままの手を見つめた。


(一体、何が起きているの……!?)


 トリアは心の中で叫んだ。激しく打ち鳴らされる鼓動は、今始まったばかりの甘い混乱を祝福しているかのようだった。


第41章、お読みいただきありがとうございます。

ユダさんの機転と、ユニさんの撃退……爽快感がありましたね!

「ナイスボス」「トリアちゃん頑張れ」など、応援のコメントをいただけると嬉しいです。

ランチデートの行方は? 次章もどうぞお楽しみに。

ブックマークよろしくお願いいたします。

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