道場破り
あれから俺は毎週末、妹尾数希に稽古をつけた。彼は極竜空手家として強くなりたいというよりは実戦に対して強くなりたいようなので、ボクシングや組み技も教えた。
彼は打撃全般に非常な才能がある。特に、蹴りに関しては天下一品と言えるだろう。伸び代も含めれば、俺が出会った中でも五指に入るかもしれない。彼の蹴りは体重移動、関節の連動、打ち終わり、コンビネーションへの接続、体重の乗せ方、全てに無理が無く、流れる水のような自然さを帯びている。
しかし流水を思わせる蹴りは、インパクトの瞬間に人体を抉り千切る激流へと変貌する。その静と動の混淆は空手の秘奥を見たとでも言いたくなるような類の代物で、火喰鳥の蹴りの如き野性美を体現していた。
一方、組みはてんでダメだった。打撃畑なためか相手の懐に飛び込むことに強い抵抗があり、高い瞬発力のわりに重心操作が下手糞だ。タックルをスプロールして潰すことはできるのだが、そこからの攻防となると頭がこんがらがるようで、雑に逃げたがる。
何より、どうやら彼はレスリングというものが実戦に必要だとは捉えていないらしかった。「師匠、空手の理想は一撃必殺だよ。組むより先に仕留めればいいんだよ」などと定期的に抜かし、組みの練習を始めるとやれやれ、師匠に付き合うか、という空気を醸してくる。どうやら組みの方の上達は当分後になりそうだ。
ビデオショップ・ドロクボには月に2度ほど通った。勝っても負けてもファイトマネーは2万。2回戦えば4万。喧嘩は平均15分で終わるとして、時給換算すればこれほど羽振りのいいアルバイトは無いだろう。
会員制というだけあって対戦相手の強さは相当なレベルで担保されている。先日戦った長村のような五輪級は流石に他にはいないが、中々バリエーションに富んだ強者達がドロクボには集まっていた。
長村以外にも印象に残った対戦相手はいる。サンビストの輪島という男とは、泥久保の運転で向かった山間部の廃道で戦った。打撃で常に距離を作り、入らせない・組ませないことを徹底したが、左フックを入れてよろめかせたところにラッシュをかけた際、勢いを利用して膝突き背負い投げを食らった。
俺は顔面から落ちて首の骨を折りかけたがどうにか生き延び、そこからは寝技の地上戦となって足関節の極めっこに持ち込まれた。サンビスト相手に足の取り合いをするのは流石に骨が折れたが、俺が先に膝十字固めをとって参ったを引き出した。
試合後、俺と泥久保は輪島の行きつけだという小料理屋に立ち寄った。日本でサンビスト、しかもこれだけ実戦に技を落とし込んでいるサンビストは珍しいので、輪島の話が聞きたくなって取り入ったのだ。
輪島は高校まで柔道部だったが立教大学時代に左翼思想に目覚め、中核派に所属しながらサンボに転向したという人物だった。泥久保が「中核派ならソ連は批判対象じゃねえのかっ」と聞くと輪島は「スターリン主義国家としてのソ連は嫌いだが、十月革命で成立した労働者国家としてのソ連は好きだ。だからソ連の文化や技術は好きだ」と返した。
そこからは輪島が革マル派や日本共産党や天皇陛下やアメリカの悪口を並べ、最初はうひゃうひゃと笑っていた泥久保だったが、そのうち何かカチンとくる主張があったのか反論し始め、場が荒れて怒鳴り合いになってから別れた。俺は彼らが何の話をしているのか殆ど分からず、ずっと曖昧に笑っていた。
輪島は興味深い人物だったが、気難しそうなので友人になるのはやめておいた。
先端巨大症の柔道家、原とは深夜2時の総合公園で戦った。原は筋肉の土管のような体格の男で、戦いが始まるとアントニウス猪俣がボクサーのマハムード・アリに仕掛けたような猪俣アリ状態を作ってきた。
あんなココナツのような力コブの腕で引き込まれたらお終いだと金的狙いで何度も蹴りを振ったが、足裏で勢いを殺されて上手くいかず、この膠着は数十分に及んだ。
そして天啓が降りた。俺は原に背を向けて全力でジャンプし、すぐ後ろの回旋塔に飛びついた。揺れる回旋塔の持ち手によじ登って足をかけ、老獪に寝転ぶ原の腹部に膝から飛び込む。キングコング・ニードロップだ。
悶絶する原に拳足を打ち下ろし、決着をつけた。後で聞いた話によれば原は東大出身のエリートで、七帝柔道に励んでいたが21歳のとき先端巨大症を患い、175cm110kgの肉体を手に入れたのだという。それによって人間の骨を枯木のようにへし折る快感に魅入られた原は、東大を辞めて夜の街でチンピラの腕を折りまくり、懲役を食らったそうだ。
ところで、ビデオショップドロクボに忘れ物を取りに寄った際、客として来ていた原を見かけた。彼はレズビアンモノのビデオのパッケージを穴が開くほど見つめており、ちょっとばかしパッケージの匂いを嗅いでから棚に戻していた。
もしかすると、そんなに悪い奴ではないのかもしれない。
そういえば、長村薫とも再開した。また試合をしたのではなく、公園で走っていたところ、息子とキャッチボールをしている彼に遭遇したのだ。横には彼の婦人もおり、どうやら家族でピクニックでもしているようだった。背が高く肩幅の広い女で、この夫妻の子供は大きくなるだろうなと思った。
俺が声を掛けると、長村は家族に俺のことを「父さんの格闘技の友達だよ」と紹介した。俺は女性や子供と喋るのは久しぶりで何を言えばいいのか分からず、「この前、ご亭主におキンタマを蹴られそうになりました。おキンタマを、です」と言うと、一家の表情が渋くなった。
そんなある日、泥久保がこんな提案をしてきた。
「壬生よう、企画モノっちゅうものをやってみねえかっ?」
「企画モノ?」
「最近はうちの裏ビデオのダビングをさらに別のビデオ屋が売るようになってよっ、結構な規模の商売になってきてんだっ。だからここらでデカいことやろうじゃねえかよっ」
「いいけど、何すんですか?」
泥久保はカウンターの下に手を突っ込むと、何か白いものを取り出して叩きつけた。それは、黒い縁取りのなされた白い覆面だ。
「ミル・デスカラスの覆面?」
「お前、これ被って喧嘩しろっ。デスカラスの覆面なら呼吸と視界に支障がねえからなっ。企画名は『謎の覆面戦士・ケンカマスク』だっ」
「なんすかそれ」
「うちの裏ビデオに出てるので一番強えのは長村かお前のどっちかなんだけどよっ、長村は嫁と子供いるし自衛官だからあんま無茶できねえだろっ。だからお前がケンカマスクになれっ」
泥久保の主張を掻い摘むと、概ねこんなところだ。まず、延々とタイマンの裏ビデオを撮っているだけではマンネリなので、これからはより過激な撮影を行う。
これまでは喧嘩と言っても互いに了承を得ての決闘であったが、これからは会員が外部の人間を挑発して喧嘩に至るまでの撮影もする。そして会員の中でも特に実力があり、かつ独身で定職に就いていないので、打ち所が悪く死んでも最悪困らない俺はこの企画に最適である。
そのため以降の俺の撮影は覆面で戦う『ケンカマスクシリーズ』なるものをメインにし、これからはボクシングジムや相撲部屋で出待ちして喧嘩を売るという形になる、とのことだった。
「泥久保さん、あんた舐めてんのか?」
「どうしてだっ」
「あのね、それはケンカマスクじゃなくて通り魔って言うんすよ。第一、警察でも呼ばれたらなんて説明するんですか?ケンカマスクの撮影なんて言っても通用しないっすからね」
「1回5万だすぞ」
「やりましょう。やらせてください」
こうして、俺はケンカマスクになった。今からでも初仕事が待ち遠しい。喧嘩を売るところから撮影するなら、巻き舌でがなる練習なんかもした方がいいのだろうか。とにかく、引き受けたからにはできるだけの仕事はするつもりだ。金をもらう以上それは当然のしきたりだろう。
※※※
ケンカマスク第一回の撮影が始まる。今回は危険なロケで泥久保は付いてこれないので、カメラは妹尾で進行する。時刻は19時45分、とある極竜空手道場の手前にある歯医者の駐車場で、白いマスクを被った俺を映して撮影は始まった。
「ほら、ししょ……ケンカマスク、カメラ回ったよ」
「よし、私は壬生自在流體術、及び中泉流忍法免許皆伝のケンカマスクである!極竜空手なる地上最強を謳う空手があるが、真の地上最強はこのケンカマスクである!今日はそれを証明しにやって来た!では行くぞ、押忍!」
「……はい、もういいよ」
妹尾が担いでいたカメラを下ろすと、何か猛烈な恥ずかしさが襲ってきた。覆面の下が熱い。数ヶ月かけて彼の前で築き上げてきた威厳のようなものが、一気に崩落していく気がする。
しばらく駐車場の縁石に座っていると、いかにも極竜っぽい二人組が通りがかったので、急いで妹尾にカメラを回させる。方や鬼剃り、方やパンチパーマのガッシリした男達だ。二人とも上にジャンパーを羽織っているものの下は道着の白いズボンで、裾から黒帯の端らしきものがちらちら覗いている。担いでいるナップザックも防具入れに違いなかった。
「やあやあ、君たち。極竜の子かな?」
突如現れた覆面の大男と、それを撮影している茶髪の不良に、二人は全く動じていなかった。傾いているだけのことはあり、肝が据わっているらしい。
「なんだよオッサン。痛い目見たくねえならカメラ止めろよ」
「それはできないんだよね。君たちはさ、極竜空手って最強の格闘技だと思ってる?」
「ああ?喧嘩売ってんのかオメエ……ん、おい、お前、妹尾数希じゃねえか?」
パンチパーマが言った。
「え、俺?そうだけど。なんで知ってんだ?」
間抜けに目を丸める妹尾を見て、パンチパーマと鬼剃りはにやりと笑った。
「ここいらじゃ有名だろ、お前。都大会で優勝までしたのに、喧嘩でネンショー行って破門されたってよ」
「失神した相手の頭にコンクリブロック落としたんだろ?ワルだねえ」
「ああ?オメエらに関係ねえだろ」
「ねえこたねえよ。お前みたいのがいると極竜の品位に関わるだろうが」
「その馬鹿みてーな鬼剃りの方が品位に関わってんじゃねえか?」
「おーコワ!俺らも頭にコンクリ……」
鬼剃りの台詞は、そこで途切れた。妹尾の中足が肝臓に突き刺さったのだ。重たいビデオカメラを担いだまま、軽い動作で放たれた三日月蹴りは、美しい弧を描いて男を沈黙させた。鬼剃りは硬直した後、ゆっくりと体をくの字に折り畳み、その場でカヒュッ、カヒュッと呼吸をかすめる。
「テメェ!」
妹尾に殴りかかるパンチパーマに、俺は背後からタックルを敢行する。抵抗する人体を段ボールのように持ち上げ、地面に押し付けるように捻り倒した。
「離せっ、おいっ!」
一〇二キロの肉体の重みに青年はジワジワ潰されていく。そのまま俺は蛇のように首元へ腕を滑り込ませ、チョークをセットした。キュッと頸動脈を押し潰す。パンチパーマは泥のように眠った。
息が上がる。覆面での喧嘩は意外に堪えた。それでも俺はどうにか息を整え、カメラに振り向くと、胸をそびやかしてみせる。
「極竜空手、なかなかいい格闘技だったが私には及ばないようだ!次回もよろしく!」
※※※
俺たちはマクドナルドにいた。目の前の妹尾は俺の金で容赦なく注文したクォーターパウンダーにチョコサンデーのセット、2つの単品ビッグマックにかぶりついている。俺はというと弟子に迂闊に奢ったせいで単品のポテトにコーンポタージュスープであるが、彼はお構いなしで、猪のように舶来品のファストフードを貪り食っていた。
「師匠って粗食なんだなあ。そんなんでその体維持できんのかよ?」
「うん……それより、お前、極竜破門されてたんだな」
「まあね。別にいいよ、あんな空手。師匠に教わって分かったけど、顔面パンチも肘も頭突きも掴みも無いんじゃ極竜なんかタカが知れてるよ」
「喧嘩でネンショー行ってたってのは?」
「中学の空手部の奴が、極竜空手なんか顔面無しで実戦空手でも何でもねえとかケチつけてきてさ。ムカッときたからキンタマ蹴り上げて、失神するまで殴ってやったんだよ。そんで、近くにあったブロック頭に落としたわけ。まあ、今となっちゃソイツの言うことも分かるけどね」
「それ、ヘラヘラ話すことか?」
「えー?別に、喧嘩に勝ちたいから空手やってたんだもん。今だって、喧嘩に勝ちたいから師匠に習ってるんだし」
妹尾がビッグマックにかぶりつく。彼がそれから口を離し、机に戻すのを俺は待った。その間、夜の店内を照らす琥珀色のペンダントライトが2度瞬いた。
そして、俺は彼の側頭部に強烈な張り手をぶち込んだ。面食らった彼の髪をそのまま掴み、こちらに引き寄せて囁く。
「お前、調子いいこと言ってんなよ」
「……」
「壬生自在流體術ではな、弟子が世間様に取り返しのつかないような迷惑しでかしたら、師匠は弟子を殺して自分も腹切って死ぬことになってんだよ。お前、ちょっとは考えて喧嘩しろよ」
「……分かったよ」
その後、妹尾は俺の顔色を伺うようにホットアップルパイを追加注文し、申し訳なさげに一口で丸呑みして「あふい、あふい」と苦しんだ後、そそくさと帰って行った。あれだけ食い意地が張っていれば、もう少し背は伸びるかもしれない。
俺と妹尾が極竜のパンチパーマと鬼剃りを制圧する映像は、翌日の出勤前に泥久保に渡した。テープを検めた泥久保は「短えなっ」とぼやいていた。それから腰を削って延々と倉庫の段ボールを運ぶ仕事をこなし、帰宅して女の乳首が映る番組の撮り溜めを見ていると、そろそろパンツを脱ぐかというところで黒電話が鳴った。泥久保だった。
「今朝もらったケンカマスクのビデオだけどよっ、短すぎたから追加でもうちょいとばかり喧嘩してこいっ。諸々の事情は妹尾が把握してるからよっ」とのことだ。もう妹尾が前回と同じ集合場所で待っているそうなので、俺は仕方なく覆面をポケットに突っ込んで現場に向かった。前回と同じ歯医者の駐車場では、前回と同じようにドデカいビデオカメラを担いだ妹尾が待ち受けている。
「あっ、師匠。泥久保のオヤジからやること聞いてる?」
「いや、お前から聞けって言われたよ」
「ああそう。オヤジ、師匠に道場破りして欲しいんだってさ。向かいの道場に突っ込んで欲しいんだって」
「……ふーん」
馬鹿な考えだ。しかし、それを聞いた途端に俺の拳骨がむずむずと疼き始めてしまった。道場破り。無礼にもどこぞの流派に乗り込んで最強の者を指名し、弟子や後輩の前でコテンパンに打ちのめし、看板を奪い去っていく。
その一連の行為には、何か非常に原始的な快感がある。何度か経験済みだが、あの行為の帯びる悦びの存在は俺には否定できない。それは、マウンティングだ。マウンティングとは人間のみならず哺乳類や鳥類まで魅了する至高の快楽であるが、道場破りとは、ある男の目の前で妻を犯すのと並んでその極致にいると言っても過言ではない。
「やっちまうかあ、道場破り」
「考えて喧嘩しろって言わなかった?」
「考えてるぜ。いいんだよ、道場破りで死人が出るなら仕掛ける俺らの側だからな。人殺しちゃ賠償金だが、死ぬぶんには無料だ」
「それ、まともに考えてんのかよ」
俺が覆面を被ると、妹尾はカメラを回した。大股で道場へ向かう背中を撮りながら、彼は楽しげに笑った。
※※※
「頼もう」
そう言って入ってきた覆面の大男に、道場の空気は凍りついた。それに続いてカメラをかついだ茶髪の不良青年まで続くと、いよいよ臨戦態勢となる。マグマのように殺気だった男達の視線が、四方八方から浴びせられた。
「押忍、師範!自分と佐々木を襲ったのはあの二人組であります!」
見れば、先日襲撃した鬼剃りだった。
「私はケンカマスクである!極竜空手に代わり地上最強の座を手に入れるため、この道場で最も強い者と戦いに来た道場破りである!」
このキャラクターや喋り方は泥久保の考案であるが、実際に演じてみると非常に気まずいものがあった。特撮ヒーローの喋り方は、彼らが画面の中にいるからこそ不審者じみたものにならないのだろう。
「浜口。相手してやんなさい」
「押忍」
老人に顎で示され、前に出たのは大きな男だった。大きい、と言っても町道場の大きさで、175〜178cm、85〜90kgくらいだろう。俺より二回りほど小さい男だった。しかし眼光は鋭い。キレたサイのような重厚かつ獰猛な色彩があり、重たい瞼が怒気めいたものによって吊り上げられている。門下生達は壁際により、畳の中央で睨み合う俺達を見つめる。俺と浜口とやらを中心とした、殺意の渦のようなものが出来上がっていた。
「今日は形の稽古だけやる日で楽チンだったのになあ。取り敢えず、何でもアリ。それでいいか、ええと……」
「私はケンカマスクだ。構わないぞ」
「じゃ、始めるぜ。先手を譲ってやるよ、いつでも打ち込んでいい」
お言葉に甘え、俺はなるたけ滑らかな動作で回れ右をした。浜口に背を晒し、道場の入り口に顔を向ける。視線の先にはカメラを構えた妹尾がいた。
「おい?」
浜口の困惑の声には応えない。そのまま背中を無防備に晒し続ける。
「お前──」
振り上げた。上体を前に振り落としながら、テコの原理で踵を蹴り上げる。ゴチュッと音がして、踵が温かい"袋"のようなものにめり込んだ。
残心しながら反転すると、そこには下腹部を押さえて中腰に蹲る浜口がいた。俺は彼にジャンプして飛び掛かり、落下開始点に合わせて膝を突き出す。それは稲穂のように垂れた頭の頂点に突き刺さり、浜口は倒れ込んだ。
「何でもアリ、だろ?」
前方から門下生の一人が走り込んできた。拳が振りかざされる。そして、それが一閃される前に俺の左拳が届いた。顎骨の硬い感触が拳骨に跳ね返る。
その男が前のめりに倒れ、転がりながら浜口に被さったのが皮切りだった。
白い道着の男群が入り乱れ、一個の白い津波となって押し寄せる。白波からは血走った眼球、皮の潰れた拳足、剥かれた犬歯が飛び出し、俺達を叩き殺す兇器となって迫った。
「逃げるぞ!」
俺の掛け声に反応して妹尾が道場のガラス扉を蹴っ飛ばし、二人でそこへ走り込む。やはり天性の身体能力で、カメラを担いでいようが妹尾の快速ぶりは止まらない。
階段をほとんど飛び降りるように降りると、同じようにジャンプしてきた一人の足を前から払い、アスファルトへ顔面から突っ込ませる。追撃する間もなく空手家津波が迫って来るので、男は放ったらかしにして逃走を続ける。
退勤中のサラリーマン、仲間とたむろしている学生、ランニング中の男、彼らの合間を縫って猛スピードで駆け抜ける。真っ暗になった夜の世界を、電灯が宇宙の星のように流れていく。振り返れば、全てが白い群団に飲み込まれていく。
電気屋の前で肩の布地を掴まれると、俺は回転しながら顎に肘を叩き込んだ。男は昏倒して倒れるが、その一瞬で囲まれる。たちまち進行方向に別動群が回り込み、俺と妹尾は電気屋の前で閉じ込められた。逃げ場はどこにも……
「師匠!こっち!」
妹尾が電気屋の脇の裏路地に飛び込む。袋小路の未来しか見えなかったが、アクションを起こさないことには仕方ないのでそこに突進した。群団もつられてワラワラと恐ろしいスピードで迫ってくる。
一本道の路地裏は確かにすぐに行き止まりになったが、成果はあった。鉄パイプがいくつか束になって突っ込まれている廃材箱があったのだ。一本引き抜いてみると、御誂え向きの肉厚な一品だった。
左右に鉄パイプを振り回し、打撃の壁を作ると群団の勢いは収まった。狭い路地では、四方八方から一度にかかることはできない。
俺はパイプを一字構えにすると、それでも飛び出してきた一人の肩口に全力で叩き込んだ。鎖骨がぶち折れる確かな手応えと共に、男はぎゃっと叫んで後退する。左腕が上がらないようだ。
「どうする!このまま4,5人道連れか、それとも引っ込むか!選べ!」
声の限りに怒鳴りつける。あらためて、武者震いした。このまま彼らは、俺にめがけて雪崩れ込むかもしれない。俺は4人か5人の顎を砕いたところで突き飛ばされ、引きずり倒され、次から次へと拳足を叩き込まれ、絶命するのかもしれない。
その事実が俺の内臓をどうしようもなく震わせた。怖い。楽しい。後悔。興奮。それらを統合し、超越した何かが1万キロカロリーのサイダーのように湧き上がり、あらゆる血管を沸騰させる。俺は生きていた。この世界で、今の俺は最も確かに存在していた。
「もういい。帰るぞ」
だから、親分格のその言葉に、俺は失望したのかもしれなかった。
※※※
「へへへへへへへっ、おいっ、これ見ろっ」
泥久保が突き出してきた格闘技雑誌『リング格闘技』の見出しには、こんな文言があった。「極竜道場、襲撃さる!覆面レスラーの犯行か?」。ここから、事態は収拾の付かない方向へと敷衍していく。




