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戦争の始まり

それは、結構な騒動になった。数十人の空手家が覆面男とカメラマン相手に繰り広げた追走劇はどこからともなくメディア筋へと漏れ、地域住民の数多の証言が次第に事件の輪郭を露わにしていった。


日本の格闘技を横断的に取り上げる雑誌『リング格闘技』の記事によれば、事件の顛末はこうだ。


台東の極竜道場に「ケンカマスク」を名乗りミル・デスカラスの覆面を被ったラガーマンのような体格の男が現れ、前年度の全日本選手権無差別級でベスト16に入った浜口誠《はまぐちまこと》二段と決闘になった。決闘の一部始終は、ケンカマスクに引き連れられたカメラマンによって撮影された。


そして、ケンカマスクは卑怯にも浜口二段に対し不意打ちの金的蹴りを入れてカメラマンと共に逃走し、逃走中に複数の道場生をノックアウト。さらに撒菱《まきびし》を放って足止めしたり、通行人の老婆の首にナイフを突きつけて人質にしたりして、最後には鉄パイプを振り回して包囲を抜け出し、姿をくらませた。


証拠写真などは無いが、覆面男と空手家群団によるチェイスの目撃情報があまりに多数に上ったため、編集部は該当道場の門下生に個別聞き取りを行い、報道を敢行した、とのことだ。


いくつか突っ込み所はあれど、概ね正しい情報だった。メディアもまだまだ捨てたものではないということらしい。


俺の生活は特に変わりなかった。ケンカマスクがニュースになろうが都市伝説になろうが、素顔の俺は20年後の椎間板ヘルニアと引き換えに重たい段ボールを上げたり下げたりして日銭を稼ぐ男でしかない。給料も増えないし、女も寄ってこない。


弟子をとろうが、裏ビデオを撮ってみようが、結局、俺は高卒の日雇い労働者だ。強いも弱いも俺の経済活動には関係の無いことである。


だが、不思議な高揚はあった。俺がしたのは紛れも無い喧嘩だ。何の示し合わせも無い相手の股座《またぐら》を蹴り上げ、転ばせ、肘でぶちのめし、鉄の棒で袈裟懸けにぶっ叩く。それらは、不思議な快楽を与えてくれる行為だった。


ここ最近、他の格闘家達と泥久保の仲介で戦ってきたが、やはり決闘と喧嘩は別物だ。決闘の後に生まれるのは相手への敬意と自分の不完全さへの自覚であり、喧嘩の後に生まれるのは、一つの感情には還元できないべらぼうな"良さ"だ。


まず、喧嘩の最中は無我夢中である。怒りの感情が引き出されるのとは違って、頭の中が真っ白、それもグツグツに加熱されて溶けた鉄のような真っ白になり、肉体が半ば自動で拳足を繰り出す。


脳を溶かす熱が引き、拳に残るジンジンした痛みが感じられるようになると、震えと怯えと罪悪感がやってきて、何もかもが怖くなる。相手をコテンパンに打ちのめした後でも、である。次に俺を襲ってくるのはあそこの老婆かもしれないし、あそこの女子大生かもしれないし、あそこの小学生かもしれない。そんな気分だ。脅威を察知する本能が過剰反応を起こすのだろう。


そして、その恐怖心すら引くと、やがて感情の地金、優越感と充足感がやってくる。己に宿る殺人的な攻撃性を確認し、その支配力を知る。それは強烈な快感だ。自己肯定感とも、自己有用感とも違うものが満たされていく。


相手を屈服させたから嬉しい、自分の力を誇示したから嬉しい、それだけではない。もっと深い位置に、自分が本質的にヒトという獰猛な雑食獣であることを知る悦びがあるのだ。自分が肉体労働者であり、武道家であり、日本人である前に、一匹の殺傷能力を持つ獣であることを知る悦び。


この感情の高低は、麻薬的だ。これを知る人生と知らない人生とでは相当違うだろうと思う。俺に言わせれば、喧嘩の無い人生はセックスの無い人生と同じくらい問題だ。


妹尾が風邪で稽古を休んだ土曜日、俺はビデオショップ・ドロクボに向かった。道場破りの裏ビデオがどれくらいの反響だったか知るためだ。


徒歩で店に向かう。道中、浮浪者がベトコンの編み上げ靴よりも汚い俺のミズノを指して「ニイさん、靴磨きでもしてやろうか」などと声を掛けてきたので、「気持ちで十分」と言って500円玉をくれてやった。俺も20年後にはこうなるだろうと考えると、他人とは思えなかった。


あちこち穴の空いたひさしの下を通り、ガラス戸を開けると、耳に飛び込んできたのは苛立った男が泥久保と言い争う声だった。見れば、カウンターで泥久保に掴みかからんばかりに吠えているのは稲田という男だ。


稲田は21歳の極竜空手家で、大学に通いながらドロクボの裏ビデオに出ている。俺と手合わせしたことは無いが、先日、夜の境内で弟子の妹尾と戦っており、俺は師としてそこに立ち会った。


試合展開は稲田の突きにのっけからタックルを合わせた妹尾が彼の足を取って手水舎まで押し込み、ケンケンで逃れようとする彼を担ぎ上げ、空中で風車のように取り回して大地に叩きつけたところ、肩甲骨が割れて早くも試合終了という流れだった。試合後、妹尾は「組み技って意外に使えるんだね」などと言っていた。


その稲田が泥久保に詰め寄っているので、「どうした」と声をかけると、彼はキツい眼差しでこちらを睨んでくる。左腕には固定用のギプスが巻かれていた。


「お前、妹尾と一緒に極竜に道場破り仕掛けたのか」

「泥久保のオヤジさんがやれって言ったんだよ」


なんでも俺のせいかっ、と反論する泥久保を他所に、稲田は瞳孔をかっ開く。


「怪我してなけりゃ今すぐぶん殴ってるとこだ、無職風情が」

「いや、フリーターだ」

「悪いがな、壬生に泥久保のオッサン、俺はここの会員である前に極竜の人間だ。あんなビデオを撮ったんなら、壬生のことは極竜の城東支部に暴露させてもらうぞ。今のうちに件《くだん》の道場に詫び入れなきゃ、とんでもないことになるぜ」

「へえ、どうなるってんだよ?」

「東京中の極竜空手家がお前を殺しに来るんだよ」


血管が広がった。東京中の極竜空手家が、俺を殺しに来る。


「そりゃ映画みてえだな。悪の覆面ファイター・ケンカマスク対正義の東京空手家軍団ってか?面白えじゃん。千葉真一でも撮れねえや」

「フカすなよ。俺はマジだぜ」

「戦争ってことだろ?いいぜ、俺は一対一だけの男でも素手だけの男でもねえ。忍法の心得も多少あるもんでな、ランボーごっこやって欲しいなら付き合ってやるよ」


自分でも高揚しているのが分かった。厄介なほどペラが回る。


「お前、自分が置かれてる状況分かってんのか?」

「分かってるよ。お前に喧嘩売られてんだ。じゃあ買ってやる。そんだけだろうがあ」


左拳を滑り出す。スナップを効かせた軽いパンチが、稲田の肩にまともに入った。かっ、と詰まるような息が出る。彼は瞳孔に続いて鼻の穴までかっ開き、顰めっ面でじっと蹲《うずくま》った。


やがて立ち直ると、彼の瞳に燃えていたのは怒りと決意だった。恐らくは、俺に懸賞をかける決意だ。


「今のは高く付くぜ無職野郎。俺の手元にゃ、お前と妹尾の裏ビデオだってあんだ。面なんぞすぐ割れる」

「好きにしろよ。喧嘩は買うって言ってんだろうが」

「お前はそれでいいかもな。でも、妹尾はどうだかな」

「アイツを見くびっちゃいけねえよ。アイツだって武道家だ。お前らに殺されたって、戦って死ぬなら屁でもねえだろう」

「そうかよ。お前、もう東京じゃ枕高くして寝れねえぞ」


そう言うと、稲田は踵を返して去っていった。

俺はカウンター脇の背もたれ無しのパイプ椅子にどっかり座り込む。


「おやっさん、道場破りの裏ビデオの方は評判どうなんすか」

「上々だっ、これだけ話題になってるからにはどこぞの編集者に売りつけてやろうと思ってんだがっ……それよりおめえ、本気で極竜に喧嘩売るつもりかっ」

「うーん、まあ、売っちゃいましたね」

「売っちゃいましたって、そんなんで済む問題かっ」

「売っちゃったもんは仕方ないでしょう。喧嘩は払い戻しとかないですから」


拳にギプスのズレる感覚が残る。震えと怯えと罪悪感がそろそろ湧き上がってくる。極竜の世界競技人口は1200万人、国内なら50万人程度だと聞く。そのうち何割が東京にいて、さらにそのうち何割が俺の首を取りに来るのだろう。


ひょっとすると、俺はリンチの末に殺されるのかもしれない。数十人の屈強な男達に囲まれ、羽交締めにされて内臓も骨もメチャクチャになるほど殴られ、ペチャンコの濡れ煎餅になって死ぬのかもしれない。


それでも「参った」とも「勘弁してください」とも言わずに死ねれたら、きっと俺の魂は救済される。輪廻転生があるのかは分からない。でも、最後まで戦って死ねば、来世がアブラムシということはないような気がした。


その晩、妹尾の家に電話をかけて彼の母親に取り次いでもらうと、「俺ら、死ぬかもしんねえぞ」と伝えた。


※※※


それから五日が経過したが、俺の生活にはまだ変化は無かった。常にどこから空手家が襲ってくるかと警戒してリュックのすぐ取り出せる場所に通販で買った22〜55cm、480gの特殊警棒とホームセンターの熊除けスプレーを忍ばせて活動しているのだが、どうも襲撃者は現れない。


妹尾にも毎晩電話させているが、特に変わったことはないらしい。


だから、その日も俺は何が入っているかも分からない段ボールを上げたり下げたり上げたり下げたりしていた。腰を酷使しながら作業していると、自分がフォークリフトになったような気分になる。


生き物としての血と肉を失って、不細工で恰好悪い機械に成り下がる。その代わりに金を貰う。その間、俺は何日も執念深く鹿や猪をつけ回し、ついに射殺して肉を剥ぎ取る肉食の性も、野山に分け入って自然と遊び、キノコや木の実を採集する草食の性も忘れる。


「おい壬生、そんな強く置くんじゃねえよ。中身に響くだろうが。お前さ、仕事に真心持てって言ってるよな」


そう言ってくる正社員に、俺は返事をしなかった。この日々も、今に終わる。俺のもとに次から次へと命を狙う刺客が空手界から送り込まれ、戦いに明け暮れる日々がやって来る。


やがて仕事が終わり、飲みに誘われたが、俺は断った。普段の俺は飲みに誘われれば適当に薄そうなのを一杯頼んで後は烏龍茶でツマミを食うようにしているが、酒を飲んで襲撃を受けるわけにはいかないからだ。


帰路の夜道では、四方八方に注意が散った。刺客は来るのか、来ないのか。来るとして、空手家らしく素手なのか、それともバットなり角材なり、はたまた刃物なりを持ってくるのか。


部屋に着くと、俺は室内灯をつけず、真っ暗な部屋から注意深く街路を観察した。不審な人物はいない。


俺には不安があった。このまま、戦争が始まらないという不安だ。極竜の奴らが、まあまあ、そんなムキになる話でもないでしょう、なんて大人の対応をして、俺に対する報復をしてこないという未来があり得るのが怖かった。


自分に危害が及ばない未来が怖い、というのは何か倒錯しているかもしれないが、俺には戦えないことへの恐怖があった。どこへ行っても空手家が襲ってくるか分からず、常に神経を尖らせていなければならない終わらないゲリラ戦の中に身を置きたい。このまま有耶無耶になるのは嫌だ。4,5人くらいしか詰めに来ないで終わるのも嫌だ。


現実的に考えれば俺と極竜で戦争になる可能性なんて殆ど無いのかもしれないが、期待を持たせたのは稲田だ。今は奴が各地の道場主に掛け合って、空手軍団を結成しているところだと信じるしかなかった。


戦って、打ち所が悪く死ぬのならそれでいい。リンチにされて死ぬのならそれでいい。俺が誰かを殺して、死刑になるのならそれでいい。ただ、戦えないことだけが恐ろしかった。


翌《あく》る日、俺はリュックに財布と三日分の着替え、歯ブラシ、特殊警棒と熊除けスプレーを詰め込み、家を出た。


その日も単純労働が続く。人間という雑食の野生動物にとって不自然で、病魔を招く退屈な労働をこなす。


段ボールを持ち上げる。そして下ろす。また持ち上げる。そしてまた下ろす。賽の河原の子供達は、こんな気分なのだろうか。自分の人生を打開することに一切寄与しない苦役をこなしながら、俺は死後の世界について思いを馳せる。


極竜との戦争が始まったら、俺は下手を打てば死ぬだろう。いや、死ぬことを期待しているのかもしれない。戦って、内外に力を示し、その高揚の中で前のめりに死にたいのかもしれない。獣としての殺傷力を示しながら、獣として死にたいのかもしれない。


ともかく、死ねば俺はどこへ行くだろう。正規雇用の経験が無いから地獄だろうか。結婚して子供を作らなかったから地獄だろうか。色んな人を殴ってきたから地獄だろうか。別に構わない。死後の世界なんて無くて、天国も地獄もなく輪廻転生もなくただ消えるだけでも、別にいい。その代償を払っても構わないから、早く戦いたかった。


そうこうしていると、退勤の時間になった。臭いツナギを脱ぎ捨てて、ヤれて動きやすく、生地が硬く中綿入りなので突き飛ばされても怪我しにくい濃紺のワークジャケットに着替える。お疲れ様でした、そう言って上がろうとすると、「ちょっと、壬生くん」と班長に呼び止められる。班長はにこやかで滅多に怒らず、正社員の中で俺が唯一嫌いではない人物だ。以前家にお邪魔したこともあり、10歳の娘さんがべらぼうに太っていたのを覚えている。


「どうしたんすか、班長。酒ですか?自分、禁酒してるんで……」

「いや、そうじゃないんだよ。ちょっと、保管庫に行こうか」


俺はリュックを背負って班長について行き、ラックの山ほど並んだ空間に出る。くたびれた労働者達がうぞうぞ蠢いている昼間の光景と比べると、無人で灯りも無い倉庫は驚くほど寒々しい。


「あのさ、俺、壬生くんのこと結構好きなんだよ」

「告白ですか?」

「違えよ!壬生くん、仕事雑だけどハルク・ローガンばりにタフじゃん。段ボール3段重ねとかでいつも運んでるでしょ?腕骨折したから仕事休むとか言って1週間で戻ってくるしさ。肉体労働が天職だよね」

「それ、喜んでいいんすかねえ」

「いいよ、いいよ。実際、一瞬だけどプロレスラーだったんだもんな?しかも新東洋のさ。いや、大したもんだよ」


棚の影で、何かが動いた。1つではない。2つ、3つ、いや、それ以上。


「要は、壬生くんのことは結構評価してるっていうわけ……だけどさ、俺、13のときから極竜やってるんだよ」


そして、影が群を成して正体を表す。それは、屈強な男達だった。黒い服に身を包み、胸板が分厚く、瞳に殺気を宿した男達。8人いた。その視線に一斉に射抜かれ、思わずゾクゾクする。今から、襲われるのだろうか。掴んで、倒されて、ガシガシ蹴りを入れられて、殺されてしまうのだろうか。腰が抜けちゃいそうだ。


「だからさ、いくら壬生くんみたいないい青年でも、極竜を侮辱するなら許せないんだよ……ごめんね?」

「班長ォ、そりゃないっスよ……」


全身の筋肉が、微細に脈動する。神経系を荒々しい電流が奔り抜けていく。口角が三日月のように釣り上がった自分に気付く。


男達は素手だった。8つ、班長も入れて9つの肉体の壁が並び、ジワジワと迫ってくる。9つの呼吸、9つの拍動、9つの敵意。


「殺せ」


班長が言うや、俺はリュックのサイドポケットから熊除けスプレーを抜き放つ。ジェットエンジンの如く黄色い毒霧を噴きつける。


男達は怯んだが、一人が強引に突進を敢行する。俺はその男の顔面にスプレーをぶち撒け、足が止まる刹那に飛び掛かった。


下弦の弧を描き、ジャージズボンの奥の脛を側頭部に叩きつける。飛び上段回し蹴りである。


発生した莫大なパワーに、男の首は明後日の方向を向く。俺の肉体も空中で跳ね返される。尻餅をつきながら、俺は素早く立ち上がった。左手にスプレーを持ち替え、そのノズルを前のめりに倒れた男に向け、ありったけ噴霧した。


男はショックと窒息でグチャグチャになり、仲間達が俺に突進を開始する頃にはとうに戦闘不能になっていた。あと8人。


「待てや、コラァ!」


俺は押し寄せる男群に背を向け、全速力で駆け出す。背後の足音の乱雑さに心臓の血が沸騰する。俺は今、命を懸けている。


走りながら上体を反転させ、再び噴霧に及ぶ。1秒、2秒、3秒。男達が咳き込んで足が鈍り、やがて、一人が咳と涙でへたり込む。あと7人。


給湯室に飛び込むと、俺は入り口脇の食器棚を力任せに倒してバリケードにした。それから、窓を開ける。男達が2人がかりで棚を押し退けようとすると、俺は再びそこに熊除けスプレーをぶっかけた。


2人組は苦悶の表情を浮かべながらなんとかバリケードの除去を試みるが、ダメだった。殆ど2人同時に嘔吐したので、俺は思わず笑ってしまった。予め開けておいた窓に飛び込み、秋の夜の冷たい風を浴びながら2階のトタン屋根を駆け降りる。窓のひさしに飛び移りながら、素早くアスファルトに着地した。あと5人。


近くに歩道橋があるので、歩いてそこを上った。呼吸を整える。体内の二酸化炭素を排出するために、何度も深く息を吐き出す。 5人。あと5人をどう処理するべきだろうか。熊除けスプレーを駆使すれば、太刀打ちできないことはない。だが、これだけ人数を減らしておいて武器を使うのでは喧嘩の妙味を無視することになる。俺はリュックを地べたに置き、スプレーも転がした。


その決断をしてしまってから、後悔した。武の心得を持つ5人組というもの相手には、流石に武器無しで勝つ情景が見えない。心臓が早鐘を打つ。それでも、決めてしまったものは決めてしまったのだ。スプレーは屈んで拾い上げるだけでまた使えるが、そうしなかった。この期に及んでスプレーに頼れば、戦ったことにならない。9人相手には躊躇なく使えたが、どうやら俺のボーダーラインはここにあるようだった。


柔軟体操をし、フットワークを確認していると、ようやく倉庫から男達が姿を表した。


「こっちだボケッ!」


何を考える間もなく声が出る。自分でも驚くような怒鳴り声だ。男達は歩道橋に俺の存在を認めると、怒りを湛えた瞳で上がってきた。きっかり5人、回復した奴はいないようだ。


「壬生くん、意外と汚ないマネすんだね。裏ビデオ、俺のとこにも回ってきたよ。忍法だっけ?」


班長が言った。


「大人数で襲っといて何言ってんすか」

「4人とも行動不能だよ。壬生くん、こういうの初めてじゃないね?」

「まあね。それより、早くかかってきていいっすよ。班長には世話になったんで、割引で優しく絞め落としてあげますよ」


俺は構えた。彼らからすれば珍妙な構えに見えただろう。下半身は足を前後して半身にしながら、上半身は馬鹿正直に胸を見せている。体が捻れたような構えだ。不恰好だが、一対一に専念できない戦闘ではこの構えが最適なのである。


秋の夜、俺と男群との間の空気が張り詰める。季節外れの陽炎《かげろう》でも起きそうな白熱だ。俺と男達は睨み合い、そして──


「やあやあ、いいことやってるね」


それは、太い男だった。肩周り、胸板、腕、足、首が服の上から分かるほど太く、腹回りも太いが肥満は感じさせない。顔にも太さがあり、角刈り頭と潰れた耳がそれを強調している。


長村薫《ながむらかおる》だった。


「長村さん?なんで……」

「歩道橋の上でワチャワチャやってるのを見たら公安職の血が騒いでね。日本の治安を守るために参上したら、知ってる顔がいたってとこだよ」


班長達は怪訝な目で長村を上下に見回すと、その大きさに多少面食らった様子だった。


「なんだ、あんた。個人的な喧嘩に口出ししねえでもらえるかい」

「5対1の喧嘩を見過ごす訳にはいかないな。自分は自衛官でね、治安出動ってことにさせてもらうよ」


長村は構えた。レスリング上がりらしからぬ、半身の高い構えだ。


「長村さん、殺さないでくださいよ?あんたの合気道、エゲツないから」

「え?ああ……そうだ。俺は合気三段だ」


長村がわざとらしく言う。卑怯だが、これも武術のうちである。


そして、男の一人が打ち掛かってくるや──長村の見えないストレートが炸裂する。一切のモーションを伴わず放たれた透明な拳は、一撃で男を昏倒させた。あと4人。


男達の動揺が収まらないうちに、俺は群れを襲撃する。滑るように身体を切り込みながら、真っ向から右の拳を突き出す。意識外からのパンチに男は転倒し、離脱しながら頭に素早く蹴りを入れると、それが効いて男は立ち上がれなくなった。あと3人。


男が長村の左フックを食らって前のめりに崩れ、しがみつくと、長村は男を俵返しで一回転させて投げ飛ばす。そのまま顔面に硬そうな拳を連打した。固定された長村を蹴り飛ばそうと別な男が駆け寄るので、俺は逆方向から駆け寄ってショルダータックルをぶちかました。男は後ろにつんのめってケンケンしながら後退した。見れば、長村に殴られた男は顔を押さえて戦意喪失していた。あと2人。


俺はショルダータックルで弾き飛ばした男にそのまま飛び込み、野球の投手のように上体を倒しながらオーバーハンドのパンチをぶち込んだ。男の体は一瞬浮き、そのまま硬直して倒れる。あと1人。残すは班長のみだ。


「あと1人だから、君がやれ」


そう言って、長村はその場で腕を組み始めた。尤《もっと》もだ。長村の性格からして、2対1で相手をいたぶるのは性に合わないだろう。


班長の目から闘志は消えていなかった。ここまでやられてなお、彼は俺を倒すことを諦めていない。


距離が一歩ずつ詰まっていく。互いの制空圏が微かに触れては離れ、触れては離れる。


そして、後ろ蹴りが放たれた。起死回生のその一発を、俺は上体を曲げてキャッチした。ふくらはぎを掴んで胸にぴったりつけ、そのまま骨盤まで手繰る。


俺は足を支えに班長の肉体を持ち上げた。彼は遥か上空に浮き、必死にもがいている。俺はそれを掴んで離さず、一歩、また一歩手すりへ近づいていく。頭が熱した鉄のように真っ白だった。相手に致命傷を与えねばならない。それ以外はどうでもいい。決着をつける必要がある。


「死ねっ!」


そうして、俺は遥か下の道路に班長を叩きつけ、惨《むご》たらしく落下死させるために振りかぶる──と、姿勢が崩れた。脇腹に長村のヤクザキックをまともに食らい、吹き飛ばされたのだ。班長も歩道橋側に落ち、四肢をついて荒い呼吸をしている。


「俺を失望させてくれるなよ。喧嘩で人生棒に振ったんじゃつまらんぜ」


こうして、俺と極竜の緒戦はこちらが制するところとなった。しかし、戦いが終わったわけではない。ここから始まるのだ、長く激しく、血湧き肉躍るような戦いが。

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