1. 原稿の更地と、かみ合わない会話
世界から異常という概念が削ぎ落とされてから、ほんの数日が経過していた。
部屋の中に立ち込める空気は、恐ろしいほどに滑らかで、一切の引っ掛かりを持たなかった。
デスクの上に置かれたノートPCの画面右下には、かつて存在していた不気味な空間の歪み――あの紫と緑のノイズを放っていた黒い穴すらも、いつの間にか綺麗に平滑化され、ただの無機質なグレーのピクセルへと同化していた。
穴が塞がったのではない。
穴を穴として認識するための、歪みや破綻という概念そのものが、世界の表面から綺麗に研磨されて消え去ったのだ。
詩乃は、デスクの前で呆然と座っていた。
彼女の手元には、先日長谷川との通話が途絶えた後に狂ったように書き直した、長編怪奇小説の修正原稿があった。
異常という言葉がすべて白い空白へと変わってしまったあの原稿。
彼女は自分の記憶を疑い、血を吐くような思いで、その空白を狂気、狂乱、狂気じみたという別の言葉で埋め立てていた。
怪奇小説家として、彼女にとって狂気とは最後の砦だった。
世界がどれほど健全で平坦な顔をしようとも、人間の精神の暗部には絶対に制御できない支離滅裂な狂気が存在する。
それがあるからこそ、怪談は成り立ち、人間は底なしの恐怖に慄くのだ。
「これで……どうにか物語として繋がったはず……」
詩乃は掠れた声で呟き、震える指でメールの送信ボタンを押した。
宛先は、文芸誌『月刊文藝怪異』の長谷川。
送った原稿のファイル名は『最終稿_修正済.pdf』。
本文中には、主人公が自我を失い、理解不能な行動に走る凄惨なクライマックスの描写が嫌というほど詰め込まれていた。
人間の心が壊れていく瞬間。正気のタガが外れ、常軌を逸した狂気に身を投じる瞬間の描写。
送信完了の電子音が鳴った。
詩乃は祈るような気持ちで、両手を固く組んだ。
もし、この狂気という概念までもが世界から拒絶されたなら、自分は本当に壊れてしまう。
それは怪奇小説というジャンルそのものの死であり、自分がこれまで書き続けてきた物語の存在理由を根底から否定されることを意味していた。
わずか30分後、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。
画面には『長谷川(怪異編集部)』の表示。
詩乃は弾かれたように端末を取り上げ、息を呑んで通話ボタンをスワイプした。
「もしもし! 長谷川さん……! 原稿、届きましたか!?」
『あ、詩乃先生! お疲れ様です、長谷川です』
受話器の向こうから聞こえる長谷川の声は、先日の気まずいやり取りなど最初からなかったかのように、軽やかで爽やかだった。
そのあまりの普通さに、詩乃の背筋を冷や汗が伝う。
『再送していただいた原稿、確認しましたよ! 迅速なご対応、本当にありがとうございます。いやあ、前回の文字抜けのトラブルが嘘みたいに、スムーズに読めました。文章の繋がりも完璧です!』
「ほんとう……ですか……?」
詩乃は胸を撫でおろしかけた。
だが、長谷川の次に続いた言葉が、彼女の心臓を冷たい氷の針で突き刺した。
『ええ! 主人公が追い詰められていくプロセスの、あの丁寧な描写。感情が極限まで高まって、すごく静かで……そう、滑らかな着地を見せるのが最高ですね』
「……え?」
詩乃の思考が停止した。
滑らか? 着地?
「長谷川さん、何を言っているんですか? クライマックスのシーンですよ。主人公は己の狂気に呑み込まれて、自分の爪を剥がしながら壁に意味不明な血の文字を書き殴るんです。あそこは、この作品の中で最も過激で、最も凄惨な狂気を描いた場所です。滑らかだなんて――」
受話器の向こうで、長谷川が小さく首をかしげるような気配が漂った。
そして、彼は本気で不思議そうに、ごく自然なトーンで問いかけてきた。
『先生……すみません。今、なんとおっしゃいましたか?』
「だから……クライマックスの、主人公の狂気の描写です」
『きょうき……?』
長谷川の喉が、その音をなぞった。
しかし、その声には異常という言葉の時のような拒絶の力みすら無かった。
まるで今日の夕飯の献立について聞かれたかのような、あまりにも無防備で、完璧に中身の抜け落ちた、空虚な響き。
『先生、その……「きょうき」とおっしゃったのは、どういう意味……ですか?』
「どういう意味って……!」
詩乃は座っていた椅子から立ち上がり、スマートフォンの筐体を指が白くなるほど強く握りしめた。
「どういう意味も何もありません! 狂うことです! 精神が破綻して、正気を失い、予測不能な行動をとることです! 狂気です! 怪談やホラーの根底にある、あの最も恐ろしい人間の状態のことですよ!」
静寂が訪れた。
スマートフォンの向こうのオフィス音が、淡々と流れている。
キーボードの打鍵音。複写機の動作音。遠くで交わされる社員たちの雑談。
そのどれもが、完璧な秩序と平穏を保っていた。
長谷川は、困惑すら通り越した、呆れを含んだ爽やかな苦笑いを漏らした。
『ハハ……先生、また新しい言葉のレトリックですか? 先生は本当に表現力が豊かでいらっしゃいますね。でも、そんな恐ろしい響きの新造語、作中の雰囲気に合わせて作られたとしても、少し唐突すぎるかもしれませんよ』
「新造語……!? 狂気が、新造語だと言うの!?」
『だって先生、人間が狂うなんてこと、あるわけがないじゃないですか』
長谷川の口から出た言葉は、冷酷な悪意ではなく、あまりにも純粋で無垢な真実としての響きを持っていた。
『人間は、脳という器官のシグナルに基づいて、常に合理的な生存確率を選択して行動する生き物です。感情が揺れ動くことはあっても、理解不能な行動をとったり、自らを破壊するような行動に出るなんて、生物の構造上あり得ませんよ。そんな状態を指す言葉なんて、日本語にも、人間の思考の中にも存在しません』
「そんな……そんなバカな……! 狂気がないなら、私が書いてきたホラー小説は何なの!? 人間の底知れぬ怖さはどこへ行くの!?」
『ホラー、ですか?』
長谷川の声は、穏やかな教師が幼い子供に諭すように優しかった。
『先生の作品の魅力は、日常の繊細な心理描写と、空間の湿度感でしょう? 存在しない幽霊や、あり得ない精神の故障なんてものを描かなくても、人間がすれ違う切なさや、静寂の美しさを描くだけで十分素晴らしいじゃないですか。変なノイズを混ぜ込もうとするのは、おやめください』
ノイズ。
その言葉が、詩乃の脳腔を激しく打ち叩いた。
「長谷川さん……あなた、本当に長谷川さんなの……? 私の原稿を読んで、一緒に『この狂気がたまらないですね』って、泣きながら面白がってくれた、あの長谷川さんなの……?」
『ええ、ずっと長谷川ですよ。何を心配されているんですか? さあ、先生。原稿の修正、ありがとうございました。この狂気という謎の単語が混入している部分はこちらで綺麗に削除して、全体を整えておきますね。印刷所への入稿、楽しみにしています』
「待って、やめて! 削除しないで! それを消したら、物語が――」
プツリ。
通話が切れた。
平坦な電子音が、部屋の中にぽつんと残された。
詩乃は手からスマートフォンを滑り落とした。
床に落ちた端末がコンと乾いた音を立てる。
狂気が、消えた。
世界から異常が消え去っただけでは収まらなかった。
人間の精神が破綻する可能性そのものが、思考の枠組みから完全に切除されたのだ。
狂気が存在しない世界。それは、誰も傷つかず、誰も逸脱せず、誰も本当の意味で狂うことすら許されない、あまりに正しく、あまりに美しい地獄だった。




