2. 言葉を失った街と、消えた検索結果
詩乃は、まるで足元のアスファルトが泥のように泥濘んでいく感覚に耐えかね、逃げるように部屋を飛び出していた。
太陽の光が、街並みを均一に照らし出している。
ビル群の壁面も、街頭の街路樹も、通行人たちの影すらも、まるで高度にレンダリングされたCGのように過剰に整えられ、何の狂いもなくそこに配置されていた。
彼女は震える手でスマートフォンを操作し、SNSのタイムラインを開いた。
「嘘だ……絶対にどこかに残っているはず……。人間が感情を爆発させて、支離滅裂な叫びを上げている場所が……」
かつてSNSといえば、不満、憎悪、妄想、そして剥き出しの狂気が渦巻く混沌の坩堝だった。
脈絡のない支離滅裂な投稿、他者への攻撃、意味不明な奇行の動画。そうしたネットの底溜まりのような場所にこそ、世界から排除されかけた狂気の残骸が漂っているはずだった。
彼女は検索窓に、すがるような思いで狂気と打ち込んだ。
検索ボタンをタップする。
『狂気に一致する投稿は見つかりませんでした』
無慈悲なシステムメッセージが、一瞬で表示された。
ヒット件数、0。
「そんな……じゃあ、狂うは……? 頭がおかしいは……!?」
彼女は必死で関連する言葉を打ち込み続けた。
狂乱、発狂、キチガイ、狂人――。
人間が歴史の中で、正気から逸脱した者を定義し、排除し、あるいは恐れるために生み出してきたあらゆる忌み言葉を、タイムラインの検索窓に投げつけた。
結果はすべて、ゼロだった。
言葉が存在しないのではない。
その概念そのものが、人々の脳内ネットワークから完全に通信エラーとして処理され、消去されていた。
タイムラインを通常表示に戻し、流れていく投稿を目で追う。
『今日のランチ、とても美味しかったです。栄養バランスも完璧でした』
『仕事で少しミスをしてしまいました。次からは手順をしっかり確認して対策します』
『雨が降りそうですね。傘を持って外出することをお勧めします』
そこにあるのは、完璧な善意と、完璧な論理と、完璧にコントロールされた平坦な感情の羅列だけだった。
怒りに任せてキーボードを叩きつけるような文章もなければ、意味不明なポエムも、深夜の泥酔した愚痴すらない。
誰もが、己の生存確率を最大化するための最適で合理的な発言しか口にしていない。
「ゼロ……。狂気が……完全にゼロになっている……」
詩乃はスマートフォンの画面を抱え込み、街角で膝を折った。
世界から異常が消えた時、人々はまだ普通じゃないという遠まわしな言葉で、かろうじて違和感を感じ取っていた。
だが今、狂気という概念すらも消滅したことで、人々はその違和感すら抱けなくなっていた。
心が壊れるという現象が存在しない世界。
支離滅裂な行動をとるという選択肢が存在しない人類。
それは、誰も傷つくことのない平和な世界に見えて、その実、人間の精神から破綻する自由すらも奪い去った、巨大な飼育箱に過ぎなかった。
「……何か……何かが違う……」
詩乃は呟いた。
自分の胸の奥に、不気味で重苦しい何かが溜まっている。
それはかつて、恐れや狂気と呼んでいたはずの感情のしこりだった。
しかし――。
「何が……違うの……?」
自分が抱えているこの重苦しさを、どうしても言葉に直すことができない。
狂気という概念を失った思考の回路は、胸の奥で渦巻くこの暗い塊を、どう解釈すればいいのか分からなくなっていた。
(狂気が消えた……。だから……何が消えたっていうの……?)
自分の思考が、もやのようにぼやけていく。
言葉が消えるということは、それを思考するための型が消えるということだ。
どれほど心で抵抗しようとしても、概念そのものを失った脳は、次第にその違和感の正体すらも見失い、平坦な世界のルールへと慣らされていく。
詩乃は自分の頭を抱え込んだ。
「嫌……忘れたくない……! 狂気はあった……! 人間は壊れる生き物だし、物語はそこから生まれるの……! 忘れちゃダメ……!」
彼女の悲痛な心の叫びは、しかし、言葉という形を結ぶことができず、ただ脳内で透明な波紋となって霧散していった。
認識の薄膜化。
彼女の精神と、世界の境界線を分かっていた最後のトゲが、ゆっくりと磨り減り始めていた。




