3. 壊れたカバンと、磨り減る思考
詩乃はすがるような思いで、あてもなく街を歩き回っていた。
ネットやSNSという記号の海が綺麗に整地されたのだとしても、生身の人間が蠢く物理的な街の中には、まだ言葉の処理漏れのような異物が生々しく転がっているのではないか。そう思いたかった。
街の中央にあるスクランブル交差点に差し掛かった時、彼女の視界に明確な異物が跳び込んできた。
歩道の真ん中に、1人の男が立っていた。
スーツを着たごく普通のサラリーマン風の男だ。だが、彼の行動は明らかに異様だった。
男は、自分のビジネスバッグを道路のアスファルトに向かって、何度も、何度も叩きつけていた。
ドカッ、バキッ、と。
バッグの中に入っているであろうノートPCや書類が押し潰される鈍い音が、周囲に虚しく響く。
男の顔は怒りに満ちているわけでもなく、泣いているわけでもない。ただ汗をダラダラと流しながら、無表情に、機械的な動作でバッグを地面に叩きつけ続けている。
(……あ……!)
詩乃の胸が跳ね上がった。
狂気だ。あれこそが、常軌を逸した人間の衝動、正気を失った者の行動だ。
世界がどれだけ取り繕おうと、目の前で人間が壊れているという物理的な事実まで消し去ることはできない。
彼女は周囲の通行人たちに目を向けた。
人々もまた、その男の周りで足を止め、彼を見つめていた。
かつてなら、悲鳴が上がり、人々は遠巻きにしてスマホのカメラを向けたり、関わり合いを恐れて逃げ出したりしていたはずの光景。
しかし、人々の顔に浮かんでいたのは、恐怖でも警戒でもなかった。
ただ物理的な障害物を前にした自動ドアのように、静かで無機質な注視。
「な……何をしているんですか、あの人……!」
詩乃は耐えかねて、隣に立っていた若い男性の袖を掴んだ。
「見えませんか!? あの男の人、自分のカバンを叩き潰してるんです! 頭がおかしくなってるんです! 誰か止めるか、警察を――」
若い男性はゆっくりと詩乃の方を振り向いた。
その瞳は、透き通るほどに穏やかで、何の波風も立っていなかった。
「……? 何をそんなに慌てていらっしゃるんですか?」
「慌てるって……! あの人があんな奇怪な動きをしているのを見て、何も感じないんですか!?」
男性は視線を男の方へ戻し、ふむ、と首を傾げた。
「奇怪……? いいえ、彼はいま、バッグの耐久性をテストしているか、あるいは内部の物質の配置を重力によって再整列させているのでしょう。少し非効率な運動に見えますが、彼なりの合理的な理由があるはずです」
「な……っ……」
詩乃は言葉を失った。
男性の言っていることに悪意はない。彼は本気で、目の前で起きている精神の破綻を認識できず、ただの物理現象として脳内で辻褄を合わせ、解釈していたのだ。
周囲の声も、詩乃の耳に届いてくる。
『あの動き、筋トレの一種かしら』
『バッグの強度に関する実証実験ですね』
『少々周囲の交通の妨げになっていますが、物理的な接触はありませんね』
誰も、恐怖を感じていない。
誰も、彼を狂人だと思っていない。
街の中で突如として発生した明らかな異常行動ですら、狂気というフィルターを失った人々の脳を通すと、ただの風変わりな物理運動へと滑らかに翻訳されていく。
「違う……違うのよ……! あの人はカバンを壊してるの! 理由なんてないの! 心が壊れたからあんなことをしてるのよ!!」
詩乃は叫んだ。
だが、その叫びは通行人たちの穏やかな微笑みの中に、ただの大きな声として吸収されて消えた。
(……待って……)
詩乃は、自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。
目の前でバッグを叩きつけ続ける男。
その男の顔を、もう一度よく凝視する。
(あの人は……どうしてあんなことをしているの……?)
自分の脳の奥底で、暗いもやが広がっていく。
カバンを叩きつけている。なぜ?
心が壊れたから。……心が壊れるとは、どういうこと?
正気を失ったから。……正気とは、狂気とは、一体なに?
(……あ……れ……?)
言葉を手繰り寄せようとするたび、脳内の回路が泥にハマったように空回りする。
先ほどまであれほど明確に感じていた狂気への恐怖が、手のひらの隙間からサラサラと砂のようにこぼれ落ちていく。
男の行動は、確かに何かが違う。違和感はある。胸の不快感もある。
しかし、それを狂気という概念として固定するためのフレームが、詩乃の頭の中でも急速に磨り減り、形を失いかけていた。
(何かが……何かがおかしいはずなのに……)
言語化できない。
感情が、意味を持つ前にただの不快なノイズとして脳内に漂い、やがて消えていく。
世界から言葉が消え、概念が消えた毒は、世界を拒絶していたはずの詩乃の精神の内側へも、確実に侵食を始めていた。
彼女は、自分が何に対して恐怖していたのかすら分からなくなるという、底なしの脱力感に襲われながら、その場に崩れ落ちそうになっていた。




