4. 境界の消失と、静寂の完成
アスファルトの上に崩れ落ちかけた詩乃は、自分の膝を強く抱え直した。
目の前では、スーツ姿の男が相変わらず機械的にバッグを叩きつけ続けている。
その「ドカッ、バキッ」という打撃音。周囲を行き交う人々の、穏やかで波風の立たない足音。
それらすべての音が、まるで厚い水層を通してきたかのように、くぐもって彼女の耳へと届いていた。
(……何が……違うんだろう……)
頭の中で、同じ問いが何度も虚しく反芻される。
違和感はある。
胸の奥が不快に疼き、視界に映る光景に対して身体が拒絶反応を起こしているのは確かだ。
だが、その拒絶の理由を説明するための言葉が、思考の引き出しのどこを探しても見つからない。
狂気という概念を失った脳は、目の前の現象をただの意味の分からない動きとして処理するしかない。
意味の分からない動き。それは恐怖ではなく、ただの解読不能なデータだ。
データとして処理された瞬間、感情の尖った毒針は抜かれ、ただの平坦な日常の1コマへと滑り落ちていく。
(私は……何を恐れていたの……?)
詩乃の指先から、力が抜けていく。
そのまま耐えきれず、膝をついて道路にしゃがみ込んだ。
世界に抗うための問いすらも、それを形作る単語が存在しなければ、思考の中で維持することすらできない。
頭の中に立ち込めるもやは、彼女の意識の深い場所にまで広がり、彼女自身と世界の境界線をなぞっていた薄い膜を、溶かすように摩耗させていた。
「詩乃先生……?」
ふと、頭上から滑らかな声が落ちてきた。
詩乃がゆっくりと顔を上げると、そこには長谷川が立っていた。
いつもの仕立ての良いスーツを身にまとい、手にビジネスバッグを持った文芸誌の編集者。
その顔には、完璧な善意と、一切の歪みのない清涼な笑みが浮かんでいた。
「長谷川……さん……」
「こんなところでしゃがみ込んで、どうされたんですか? 顔色が悪いですよ。やはり、相当お疲れのようですね」
長谷川は優しく手を差し伸べてきた。
その手に、かつて詩乃の怪談原稿を読んで「この狂気が最高です!」と興奮気味に語っていた男の熱量は、微塵も存在しなかった。
そこにあるのは、傷ついた他者を介抱するための、完璧に標準化された親切心だけだ。
「長谷川さん……私……分からなくなっちゃったの……」
詩乃は彼の差し出した手を見つめながら、途切れ途切れに呟いた。
「あの人が……カバンを叩きつけてるの……。それを見て……私はすごく怖かったはずなのに……どうして怖かったのか……何がそんなに嫌だったのか……思い出せないの……」
長谷川は、男の方へ一瞬だけ視線をやり、それから何事もなかったかのように穏やかな笑みを深めた。
「怖がる必要なんて、最初からどこにもありませんよ、先生」
長谷川の声は、まるでぬるま湯のように詩乃の鼓膜を包み込んだ。
「彼はただ、自分の中に溜まったエネルギーを消費しているだけです。この世界に間違った行動なんてものは存在しません。すべての現象には理由があり、すべての行動は平穏な全体の中に収まっています。
……あなたが感じているその違和感は、ただの疲れというノイズですよ」
「疲れ……ノイズ……」
「ええ。意味のないノイズです。そんな不確定なものに囚われるのはおやめなさい。言葉を使って余計な意味付けをしようとするから、脳が勝手に摩擦を起こしてしまうんです。何も考えず、ただ世界が流れるままに身を委ねればいい」
長谷川の言葉が、詩乃の脳内の暗いもやに溶けていく。
反論したい。
「違う、そんな平坦な世界は嘘だ」と叫びたい。
しかし、反論するための言葉が、彼女の口から出てこない。
概念を奪われた精神は、抵抗するための武器を失った兵士と同じだった。
否定する言葉を持たない思考は、提示された滑らかな正解を、ただそのまま受け入れるしかなくなっていく。
(そう……なのかな……)
詩乃の胸の奥で、小さな解体音が聞こえた。
自分が怪奇小説家として、人間を描く者として守り続けてきた最後のトゲ。
世界に対する違和感、不揃いなものへの執着、暗がりへの恐怖。
それらの感情を世界に繋ぎ止めていた言葉という名のピンが、1本、また1本と引き抜かれていく。
(狂気なんて……最初からなかったのかもしれない……)
そう思った瞬間、脳内の不快なノイズが、スーッと引いていくような感覚があった。
胸の痛みが消える。
解読不能な男の奇行も、ただの風景の一部として視界に馴染んでいく。
世界は美しく、滑らかで、完璧に整っている。
(あぁ……ラクになる……)
思考の薄膜化。
自我と世界の境界線が溶け合い、彼女の認識は、完璧な正気と平穏で満たされた世界の表面へと静かに沈み込んでいった。
詩乃は長谷川の手を取り、立ち上がった。
その表情から、かつて彼女が宿していた鋭い葛藤の陰影は消え去り、通行人たちと同じ、透き通るような静けさが広がっていた。




