1. 白紙の浸食と、無を語る声
あれから、どれほどの時間が過ぎただろうか。
街頭で立ち尽くしていた詩乃は、長谷川の差し出した手を取り、促されるままに歩き出した。
長谷川は彼女を自宅のマンションの入り口まで送り届け、いつもの穏やかな笑みを浮かべたまま「では先生、また原稿を楽しみにしております」と爽やかに去っていった。その間の会話も、足音すらも、今の詩乃の記憶には何ひとつ残っていない。
気づけば、詩乃は自分の部屋のデスクの前にぽつんと立ち尽くしていた。
詩乃の部屋の空気は、もはや静寂とすら呼べないものへと変質していた。
かつてそこにあったはずの湿り気や、怪異の気配を孕んだ重苦しい暗がりは綺麗に拭い去られていた。
窓から差し込む午後の光は、まるで正確に計算された数値に基づいて照射されているかのように、デスクの表面や壁紙の凹凸を均等に照らし出している。
陰影は浅く、色彩は薄い。部屋全体が、1枚の平坦なプラスチックの板になったかのようだった。
デスクの上のノートPCには、文芸誌『月刊文藝怪異』の入稿用テキストファイルが開かれている。
画面に並ぶ文字群を眺めながら、詩乃は自分の指先をぼんやりと見つめた。
指先は温かくもなく、冷たくもない。爪の輪郭すらも、周囲の空間との境界を曖昧にぼやかしているように見えた。
彼女の頭の中には、かつて長谷川との電話で交わしたやり取りが、遠い波音のように残っていた。
『この狂気という謎の単語が混入している部分はこちらで綺麗に削除して、全体を整えておきますね』
長谷川のその言葉通り、原稿から狂気や正気を失うといった表現は一粒残らず削ぎ落とされていた。
だが、恐ろしいのはその先だった。
文章から異常や狂気が消え去った後、そこに残されたのは、ただの無害で平坦な事実の羅列だった。
主人公は追い詰められても叫ばず、髪をかきむしることもなく、ただ状況を淡々と認識し、最も摩擦の少ない行動を選択して静かに物語を終えていた。
(……これで、いいの……?)
詩乃の口から出た呟きは、部屋の滑らかな壁に吸い込まれ、響くことすらなく消えた。
狂気という毒が抜けた原稿は、しかし、怪奇小説としては完全に破綻していた。
恐怖を与えるべき場所で、読者は恐怖を感じない。驚愕を与えるべき場所で、誰も動揺しない。
それは恐怖の物語ではなく、単なる人間の行動記録へと成り下がっていた。
詩乃は、胸の奥に残るわずかな抵抗感を頼りに、キーボードの上に指を置いた。
狂気が消えたのなら、せめて物語を正しく導かなければならない。
異常に侵された世界ではなく、人間が人間として正しく生き、正常な判断を下し、健全な精神を取り戻していく過程を描く。
狂気という暗闇の対極にある、眩しいほどの光。人間の理性が勝ち取る健全さを描くこと。それこそが、この破綻しかけた物語を救う唯一の道のはずだった。
彼女は、主人公が葛藤の末に正当な判断を下し、元の平穏な生活へと戻っていくクライマックスのシーンに、新しい言葉を打ち込み始めた。
『主人公は深く息を吐き出し、己の精神が再び健全な状態を取り戻したことを確信した。歪んでいた世界は正され、社会の健全な秩序が彼を優しく包み込んでいく。それこそが、人間が求めるべき正当で健全な幸福の姿であった――』
画面の上に健全という文字が並ぶ。
健全。
正しく、健やかで、偏りがなく、社会や人間のあるべき姿を保っていること。
詩乃はその言葉を画面に叩きつけることで、削り取られた世界の輪郭をもう一度繋ぎ止めようとした。
狂気という底なしの穴を埋めるために、健全という強固な土台を据え置こうとしたのだ。
「これなら……」
詩乃の掠れた声が、途中で途切れた。
文字を打ち込んだ瞬間、画面の右下が微かに明滅した。
かつて紫と緑のノイズを撒き散らしていた黒い穴の跡地。今はただのグレーのピクセルと同化していたその場所が、一瞬だけ、歪んだような気がした。
いや、歪んだのではない。
打ち込んだはずの言葉が、文字通り滑り落ちていったのだ。
画面上の健全という2文字のフォントが、まるで熱を得た蝋のようにゆっくりと形を失っていく。
横画が痩せ、へんとつくりが離れ、文字としての意味を保持できなくなった記号の残骸が、背景の白い空白の中へとスーッと溶けて消えた。
「え……?」
詩乃は目を見開いた。
バックスペースキーを押したわけではない。エラーメッセージが出たわけでもない。
ただ、彼女が入力した健全という言葉だけが、まるで最初からそこに書き込まれる資格などなかったかのように、原稿の表面から滑らかに消消滅していったのだ。
『主人公は深く息を吐き出し、己の精神が再び[ ]な状態を取り戻したことを確信した。歪んでいた世界は正され、社会の[ ]な秩序が彼を優しく包み込んでいく。それこそが、人間が求めるべき正当での姿であった――』
穴の開いた文章が、画面に残された。
「嘘……なんで……?」
詩乃は取り憑かれたようにキーボードを連打した。
ケンゼン。健全。健全な精神。健全な社会。
ローマ字を打ち込み、変換キーを押す。
しかし、候補一覧の中に健全という漢字は表示されなかった。
いくらスペースキーを叩いても、画面に出てくるのは権全、健全といった無意味な同音異義語の羅列か、あるいはただの空白だった。
辞書機能が壊れたのではない。
変換エンジンが、その言葉を存在しない概念として弾いているのだ。
「健全……健全よ! なんで変換できないの!? 正しい言葉じゃない! 世界を正しく保つための、一番必要な言葉じゃないの!!」
詩乃は指先を白くさせながら、画面に向かって叫んだ。
狂気が消えた世界なのだから、残された世界は完璧に健全であるはずだ。
狂うことが許されない世界なら、誰もが健全に生きているはずだ。
なのに、なぜその健全という言葉すらも、世界は拒絶するのか。
その時、デスクの上のスマートフォンが静かに振動した。
画面に踊る『長谷川(怪異編集部)』の文字。
詩乃は弾かれたように端末を掴み、画面をスワイプした。スマートフォンを耳に押し当てる手が、激しく震えていた。
「長谷川さん! 長谷川さん、助けてください! 原稿が……原稿の文字が消えるんです!」
『……あ、詩乃先生。お疲れ様です』
スマートフォンから流れてきた長谷川の声は、相変わらず透き通るように爽やかで、何の不純物も混ざっていなかった。
その声の平坦さが、今の詩乃にはどんな悲鳴よりも恐ろしく感じられた。
『文字が消える、ですか? 入稿データのフォーマットに何か不備でもありましたか? こちらの画面では、先ほどいただいたファイルは完璧に開けていますよ』
「違います! 私が今、新しく書き足そうとしている言葉です! 健全という言葉が……健全という漢字が、どうしても原稿に入らないんです! 消えてしまうんです!」
静寂が流れた。
電話の向こうのオフィス音は、相変わらず寸分の狂いもなく打ち鳴らされていた。規則正しいキーボードの打鍵音。複写機が紙を送り出す滑らかな駆動音。社員たちの朗らかな笑い声。
長谷川は、困惑した様子もなく、ごく自然な、優しいトーンで問いかけてきた。
『先生……すみません。今、なんとおっしゃいましたか?』
「だから! 健全です! 健全という言葉です!」
『けんぜん……?』
長谷川の喉が、その音をなぞる。
先日の狂気の時と、全く同じ反応だった。
拒絶の力みすらなく、ただその音の意味を理解できないというように、軽やかに音符を弾くような響き。
『先生、その……「けんぜん」とおっしゃったのは、どういう意味……ですか?』
「どういう意味って……!」
詩乃はスマートフォンを握りしめたまま、立ち上がった。
膝が笑い、デスクの端に激しく腰をぶつけたが、痛みすら感じなかった。
「どういう意味も何もありません! 正しいことです! 健やかであることです! 精神や身体が病んでおらず、正常で、健全な状態のことですよ! 狂気の対極にある、一番大切な価値観です!」
長谷川は、受話器の向こうで小さく微笑むような気配を見せた。
『先生……お言葉ですが、何か勘違いをされていませんか?』
「勘違い……?」
『ええ。正しいとか病んでいないとか、そういう比較をするための基準が、どこにあるというのですか?』
長谷川の声には、教壇に立つ教師のような、穏やかで絶対的な説得力が宿っていた。
『人間はただ、そこに存在し、その時々の環境において最も負担の少ない行動をとっているだけです。そこに健全などという特殊な状態を設定する必要がどこにありますか? 健全という状態が存在するということは、そうではない不健全な状態が存在するということになってしまいますよ』
「不健全……」
『ええ。ですが先生、人間には理解不能な行動をとったり、自らを損なうような異常な状態なんてものは存在しません。すべての人間は、常に合理的に、最適に存在しています。存在しない異常と比較するためだけの限定的な言葉を作る意味が、どこにあるでしょうか?』
「あ……」
詩乃の喉が詰まった。
『何かと何かを比べて区別する言葉は、不必要な二項対立の産物です。そんな余計な枠組みを持ち出さなくても、世界は最初から完璧で、平坦で、何の問題もないじゃないですか』
「そんな……そんなの屁理屈よ! 健全じゃなきゃ、人間が正しく生きているって、どうやって証明するの!? 良い状態と、悪い状態の区別はどうなるの!?」
『良い、悪い、ですか?』
長谷川の爽やかな苦笑いが、スマートフォンから漏れた。
『先生、どうしてそんなに世界に点数をつけたがるのですか? 良い状態も、悪い状態もありませんよ。ただ状態があるだけです。上も下も、表も裏もありません。すべては均一に、滑らかに存在しているんです』
「均一……」
『ええ。ですから、その「けんぜん」という不必要な装飾語を削ぎ落とした先生の原稿は、本当に素晴らしいですよ。何の引っ掛かりもなく、読者の脳にするりと入っていく。価値観の押し付けがない、完璧に平坦な美しい文章です』
「やめて……やめてよ長谷川さん……! それは小説じゃない! それはただの……ただの無地の紙と同じよ!」
『無地の紙。最高じゃないですか。何も汚れていない、完璧な状態です。さあ、先生。余計な言葉を探すのはやめて、入稿データを確定させてください。印刷所も、この完璧な原稿を待っています』
プツリ。
呆気なく通話が切れた。
ツーツーという無機質な電子音すら鳴らない。ただ、完全な静寂が部屋を支配した。
詩乃は力なく手に持っていたスマートフォンをデスクの上に置いた。
狂気が消えただけではなかった。
狂気を排除したことで、その対極にあった健全という概念すらも、存在理由を失って世界から霧散したのだ。
光があるから影ができるのではない。
影を消し去った世界では、光という概念そのものが意味をなさなくなり、ただの無色の明かりへと還元されていく。
良い状態もない。悪い状態もない。
健全もない。不健全もない。
世界からすべての高低差が消え去り、価値の起伏が完璧に平坦化されていた。
詩乃はノートPCの画面を見つめた。
そこに浮かぶ自分の原稿は、もはや意味を紡ぐ物語ではなく、ただ白い背景の上に整然と並べられた、無害で無価値な黒い記号の列に過ぎなかった。
彼女は自分の両手を見つめた。
その手は、何かを書き表現するための手ではなく、ただキーボードという物理的なボタンを押し込むだけの、肉の塊のように思えた。




