2. 無評価の世界と、平坦な街
部屋の中に留まっていることができず、詩乃は再び街へと飛び出していた。
午後の日差しは相変わらず均一で、ビルの影すらもアスファルトの表面に浅くへばりついているだけだった。
眩しさもなければ、鬱陶しさもない。ただ光という物理現象がそこにあるという事実だけが、空間を埋めている。
詩乃は歩道橋の階段を上り、手すりに身を預けた。
眼下の交差点を、車も歩行者も、信号の点滅に従って寸分の狂いもなく行き交っていた。
クラクションの音も、急ブレーキの排気音も聞こえない。車載のAIが最適かつ最短の車間距離を計算し続け、事故という確率そのものを完全に排除しているからだ。
すべてがスムーズで、すべてが正しい。
いや、もはや正しいと表現することすら正しくない。正しさの基準となる間違いが最初から存在しないのだから。
詩乃はポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップした。
アプリのアイコンを開き、SNSの検索窓に指を走らせる。
健全。
タップする。
『健全に一致する投稿は見つかりませんでした』
冷ややかなシステムメッセージが画面に踊った。
先日の狂気の時と、完全に同じ結果だった。
「やっぱり……」
詩乃の指先がかすかに震えた。
彼女は諦めず、次々と画面に言葉を打ち込んでいく。
健全な精神、健全な育成、健全な社会、健全化
検索結果は、すべてゼロだった。
かつてネットの海には健全なコンテンツを守れという主張と、不健全な表現の自由を認めろという議論が激しく渦巻いていた。
人々は自らの正当性を主張するために健全という言葉を盾にし、相手を叩くための武器にしていた。
だが今や、その抗争の舞台そのものが消滅していた。
詩乃はさらに検索窓へ言葉を放り込む。今度は健全の対極にあるはずだった言葉だ。
不健全、有害、悪、非道、不徳――。
『一致する投稿は見つかりませんでした』
全滅だった。
言葉が存在しないのではない。
良い状態と悪い状態、正義と邪悪、優性と劣性を比較評価するための価値の天秤そのものが、人々の思考の底から丸ごと切り取られていた。
タイムラインの通常表示に画面を切り替える。
そこに流れていく投稿を、詩乃は食い入るように目で追った。
『本日、予定されていた作業が完了しました。明日も同様の作業を行います』
『気温は22度です。最適な服装での外出を推奨します』
『食事の摂取を終了しました。必要なカロリーと栄養素はすべて満たされています』
そこにあるのは、感情の波すら存在しない純粋な事実の通知だけだった。
いいねの数を示すハートマークのアイコンは残っていたが、どの投稿を見ても数字はすべて0だった。
誰も他人の投稿にいいねを押さない。
なぜなら、他人の行動を良いと評価する動機が存在しないからだ。その投稿は悪いものでもないため、批判されることもない。
ただ事実が存在するという情報としてタイムラインを滑り落ちていくだけ。
「……評価が……ない……」
詩乃の唇から乾いた呟きが漏れた。
かつて人々は、承認欲求に狂い、他者からのいいねを求めて必死に言葉を紡いでいた。
時に過激な言動に走り、時に哀れな自分を演出し、タイムラインの波に揉まれながら生きていた。
そこには無数の傷と、浅はかな欲望と、そして作品や言葉に対するやり取りがあった。
だが今、タイムラインは完全に静まり返っていた。
誰も他者を称賛せず、誰も他者を貶めない。
素晴らしい作品もなければ、酷い駄作もない。
ただ、情報のデータが一定の速度で上から下へと流れていくだけの、無機質なスクロール。
「こんなの……何の意味があるの……?」
詩乃は歩道橋の上で、スマートフォンを胸に抱きしめた。
評価が存在しない世界。
それは、誰も傷つかず、誰もマウントをとられず、誰も敗者にならない世界だ。
だがそれは同時に、どんな努力も、どんな熱量も、どんな美しい表現も、すべて価値ゼロとして均一に処理される世界ということだった。
自分の書いた小説が、誰かに届いて面白いと言われることもない。
つまらないと捨てられることもない。
ただ存在し、ただ消えていく。
「嫌だ……」
詩乃は頭を振った。
「面白いとか、つまらないとか……良いとか、悪いとか……そういうのがあるから、私たちは言葉を書くのに……! 誰かに良いって思ってほしいから、必死で物語を作るのに……!」
彼女の声は、通行人の誰の耳にも届かなかった。
すれ違う人々は、歩道橋の端で叫ぶ詩乃を一瞬だけ見つめたが、そこに警戒も同情も浮かべなかった。
『障害物:歩道橋の端に立ち止まっている人物。回避行動を選択』
人々の脳内で、そんな自動処理が行われているかのように、滑らかな軌道を描いて詩乃の横を通り過ぎていく。
詩乃は自分の胸のあたりを強く掴んだ。
そこにあったはずの表現したいという焦燥感が、薄い水のようにサラサラと指の隙間からこぼれ落ちていく感覚があった。
(……良い作品って……なんだっけ……?)
思考の深い場所で、言葉の結び目が解けていく。
狂気が消え、健全が消え、善悪が消えた。
価値を測るための尺度をすべて失った脳は、書くという行為そのものの意味を見失い始めていた。
(何を書けば……いいの……? 何を目指して……言葉を並べればいいの……?)
空を見上げても、そこにはただの薄い青が広がっているだけだった。
世界の濃淡が、静かに、確実に失われていた。




