↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
消えた言葉を探す旅、世界は静かに壊れていく  作者: 都桜ゆう
第4章 健全の喪失と価値の崩壊

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/28

3. 薄い液体への還元

 詩乃は歩道橋の階段を歩み降り、導かれるように駅前へと向かっていた。


 巨大なガラス張りの商業施設やカフェが立ち並ぶそのエリアは、かつて休日ともなれば流行を追う若者や家族連れでごった返し、活気と喧騒に満ちあふれていた場所だった。


 洗練された服を纏う者、最新のガジェットを自慢し合う者、あるいはショーウィンドウの高級品を羨望の眼差しで見つめる者。

 そこには無数の価値の階層と格差が生々しく渦巻いていたはずだった。


 だが、今のその場所には、恐ろしいほどの静寂とフラットな平坦さが広がっていた。


 高級ブランドのショップも、ファストファッションの店舗も、等しく同じ明度の照明で照らされている。

 ガラス越しに見える商品には、かつて客の目を惹きつけるために踊っていた期間限定、最高峰、特別仕様といったポップやキャッチコピーは一切存在しなかった。


 ただ、黒いフォントで商品名と物理的なスペック、そして定価の数値が淡々と印字された紙が添えられているだけだ。


『綿100% 長袖シャツ 標準寸法』


『ステンレス製 保温容器 容量500ml』


 価格の差すらも形骸化していた。

 高い商品と安い商品が存在するのではない。使われている素材の質量と、製造にかかったエネルギーコストの差がそのまま数値として表示されているだけで、そこにブランド価値やステータスといった虚飾の彩りは一切付着していない。


 カフェのテラス席では、人々が整然と並び、グラスに注がれた無色の液体や平皿に盛られた栄養用ペーストのようなものを口に運んでいた。


 彼らの表情には美味しいという悦びも、口に合わないという不満もない。

 ただ生命維持に必要な熱量を補給するための、作業のような咀嚼。


「美味しい……ですか……?」


 詩乃は吸い寄せられるように、テラス席で透明な液体を飲んでいた女性に声をかけていた。

 女性はゆっくりとグラスを置き、詩乃の方へ顔を向けた。

 その肌は驚くほど滑らかで、シワもシミも目立たないが、同時に生きている人間らしい血の通った赤みすら感じられなかった。


「……? 美味しい、とはどのような状態を指しているのですか?」


 女性は、まるで古い外国語の単語を尋ねられたかのように、穏やかな首の角度で問い返してきた。


「どのような状態って……食べた時に心が踊ったり、幸せな気持ちになったりすることです……! その飲み物は、美味しいですか?」


 女性は手元のグラスに視線を落とし、それからごく平坦なトーンで答えた。


「この液体は、現在の私の体温と水分バランスを保つために最も適した浸透圧とミネラル濃度で調合されています。有害な成分は含まれておらず、消化器官への負担も最小限に抑えられています。何の問題もありませんよ」


「そうじゃなくて……! 味です! 好きか嫌いかです!」


 女性は困惑することすらなく、ただ静かに微笑んだ。


「好き、嫌い……。そのような不確定な主観的偏りは、栄養摂取の効率を妨げるノイズでしかありません。この液体は完璧に調整されています。良いものでも、悪いものでもありません。ただ、最適な水分です」


「……あ……」


 詩乃の足元がグラリと揺れた。


 美味しい食べ物も、不味い食べ物もない。

 美しい服も、醜い服も存在しない。

 そこにあるのはただ、用途に応じて最適化された物質の集積だけだ。


 人々は何かを欲しいと熱望することもなく、何かを不要だと投げ捨てることもない。

 価値の起伏が完全に平坦化された世界では、すべての消費行動すらも、ただシステムを円滑に回すための流動に過ぎなくなっていた。


 詩乃は街の中央に設置された巨大な街頭ビジョンを見上げた。


 かつてそこでは、鮮やかな色彩と刺激的な音楽とともに、人々の欲望を煽る広告動画が絶え間なく流れていた。

 だが今、巨大なスクリーンに映し出されているのは、ただの世界の平均データだった。


『現在の平均気温:21.8度』


『地域全体のストレスインデックス:0.00』


『社会機能の稼働率:99.9%』


 音すらない。

 ただ無機質な数字とグラフが、滑らかなアニメーションで切り替わっていくだけ。


 人々はその映像を見上げることもなく、ただビジョンの下を通り過ぎていく。

 見上げる必要がないからだ。


 そこに知りたい情報も感情を揺さぶる表現も存在しない。ただ世界が何の問題もなく稼働しているという事実が、データとして表示されているだけなのだから。


(……表現って……なんだったんだろう……)


 詩乃は自分の胸に手を当てた。


 彼女が命を削って書いていた小説。

 人の心を揺さぶり、恐怖させ、時には救いを与えるための物語。

 だが、受け取る側に良い、悪い、美しい、醜いという評価軸が存在しない世界で、物語に一体どんな意味があるというのか。


 どんなに素晴らしい名作も、どんなに酷い駄作も、この世界においては文字データという等しい価値ゼロの記号列へと還元されてしまう。


(価値がない……。何もかも……均一で……平坦で……)


 詩乃の視界が、急速に色を失っていった。


 色覚が失われたのではない。

 世界に存在するあらゆる物体――ビル、街路樹、交差する人々、街頭ビジョン、そして自分自身――の輪郭が、まるで温かい水の中に堕としたインクのように、じわじわと溶け出し、周囲の空間と同化し始めていたのだ。


 濃い場所もない。薄い場所もない。

 世界全体が、巨大な無色の薄い液体で満たされているかのようだった。


 詩乃はその液体の中に首まで浸かり、ゆらゆらと漂っているような強烈な浮遊感に襲われた。

 自分が足をつけているはずのアスファルトの感触すらも、柔らかく溶けて境界線を失っていく。


「私……は……」


 声を出そうとしたが、口から出た空気すらも、周囲の薄い液体の中に溶けて消えた。


 自分と世界の境目がなくなる。

 自分が何かを考え、何かを感じ、何かを評価するための自我という個体の輪郭が、世界という巨大な無地のキャンバスの中に滑らかに溶け出していく。


(苦しくない……)


 ふと、そんな思いが頭をよぎった。


 そう、苦しくないのだ。

 誰かと自分を比較して焦ることもない。自分の作品が評価されずに打ちひしがれることもない。世界に対する怒りも、怪異への恐怖も、物語を生み出せない絶望すらも、すべてはこの均一な液体の中に溶けて、綺麗に薄まって消えていく。


(ラクになる……。全部……どうでもよくなっていく……)


 詩乃は力なく眼を閉じた。

 頭の中に残っていた最後のトゲが、ゆっくりと形を崩し、液化していく感覚があった。


 彼女の体は、抵抗することをやめ、世界の平坦な静寂の中へと深く、深く沈み込んでいった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。