4. 価値の死と、世界の無色
どれほどの時間が経過したのか、もはや詩乃には測る術がなかった。
時間という概念すらも、過去と現在、そして未来を比較して区切るための高低差を失い、ただ無限に続く均一な流れへと変わっていたからだ。
昨日も、今日も、明日も、すべてが同じ明度と温度で満たされた、終わりなき滑らかな一瞬に過ぎない。
詩乃は、自分の部屋のデスクの前に立っていた。
いつの間にか、足は自宅へと戻っていた。
道中の記憶は一切ない。街の風景も、行き交う人々の姿も、すべては水の中に溶けた絵の具のように薄まり、何の痕跡も思考に残していなかった。
部屋の空気を満たしていた不快な圧迫感は、跡形もなく消え去っていた。
デスクの上に置かれたノートPCの画面には、書きかけの『最終稿_修正済.pdf』が表示されている。
画面の右下――かつて紫と緑の狂ったノイズを撒き散らし、やがて平坦なグレーのピクセルへと沈んだ黒い穴の跡地。
そこには今や、ただの白い空白すら残っていなかった。
液晶画面の表面全体が均一に発光し、どこからが画面でどこからが部屋の壁なのかすら疑わしくなるほど、静かに空間と同化している。
詩乃はゆっくりと椅子に腰掛けた。
背もたれに体重を預けても、体に何の負荷もかからない。自分の輪郭と椅子の輪郭が、滑らかに接合していく感覚だけがあった。
彼女は、キーボードの上に両手を置いた。
指先を動かしてみる。
かつて物語を紡ぐために使っていた10本の指。
血を吐くような思いで狂気を叩き込み、必死で健全さを取り戻そうと躍起になっていたあの衝動。
それらの記憶は、もはや遠い昔に読んだ、誰のものでもない古い文庫本の散文のように思えた。
(……私は……何を書き込もうとしていたんだろう……?)
思考の波を立てようとしても、脳内に広がる無色の水面には波紋すら広がらない。
言葉という概念の最小単位すら、彼女の意識から零れ落ちていた。
狂気が消え、健全が消え、善悪が消え、評価が消えた。
あらゆる価値判断と二項対立を奪われた人間の脳は、もはや意味を構成するための比較を行うことができない。
美しいと醜い。高いと低い。生と死。
すべてが同じ価値――すなわち絶対的なゼロとして等価に置かれた世界において、何かを表現しようとする試みは、ただの無駄な摩擦でしかなかった。
画面上のカーソルが、一定の周期で点滅している。
ピコ、ピコ、と。
それは世界が静かに脈打つ心拍のようでもあり、すべての物語が呼吸を止めたことを告げる無機質な合図のようでもあった。
詩乃は、静かにキーボードの削除キーに指をかけた。
タン、タン、タン。
軽い電子音が部屋に響く。
1文字、また1文字。画面の上に並んでいた文字群が、右側から順番に消えていく。
『主人公は深く息を吐き出し』
消える。
『己の精神が再び』
消える。
『歪んでいた世界は正され』
消える。
かつて彼女が怪奇小説として魂を削りながら生み出してきた言葉たち。
主人公の恐怖、狂気への抗い、世界の異変に対する切実な叫び、そして消えた健全さを取り戻そうとした惨めな足掻き。
そのすべてが、何の抵抗もなく、滑らかな記号の消去作業として処理されていく。
詩乃の顔には、涙も、怒りも、絶望すら浮かんではいなかった。
ただ、透き通るような静けさだけが、彼女の瞳の奥に宿っていた。
かつて世界を斜めに見つめ、闇の中に隠された違和感を暴き出そうとしていた鋭い怪奇小説家の視線は、どこにも存在しなかった。
通行人たちと同じ、何ものをも否定せず、何ものをも評価しない、無垢で平坦な瞳。
やがて、画面上のすべての文字が消え去った。
白。
完全な空白。
そこにはタイトルも、著者名も、一言の文章すら残されていなかった。
かつて物語と呼ばれていたものは、一滴の不純物も含まない、純度100%の無のデータへと還元された。
詩乃は、送信ボタンの上にマウスカーソルを合わせた。
宛先は、『月刊文藝怪異』の長谷川。
添付ファイルは、1文字も書き込まれていない『最終稿_修正済.pdf』。
彼女は躊躇することなく、静かにクリックした。
カチリ。
軽いクリック音が響き、送信完了の通知が表示される。
『送信が完了しました』
その瞬間、詩乃の胸の奥で、最後に残っていた表現者としての自我が、完全に音を立てて解失した。
作品を評価される怖さも、評価されない虚しさもない。
自分の書いたものが誰かを喜ばせることも、不快にさせることもない。
そこにあるのは、完璧な調和と、完璧な平穏だけ。
「あぁ……」
詩乃の口から、深い吐息が漏れた。
それは叫びでも哀歌でもなく、ただの空気の移動だった。
胸の奥に詰まっていた重苦しい塊――かつて情熱や執着、あるいは葛藤と呼んでいたあのしこりが、完全に消え去ったことを確かめるための無色の吐息。
スマートフォンの画面が、静かに点灯した。
『長谷川(怪異編集部)』からの通知。
『原稿、受領いたしました。完璧です、詩乃先生。何のノイズも、何の引っ掛かりもない、真に美しい原稿です。これで、素晴らしい本が作れます』
詩乃は、スマートフォンの画面をただぼんやりと見つめた。
長谷川の言葉に対する嬉しいという感情も、悲しいという感情も湧いてこない。
ただ、そうであるという事実がそこにあるだけだ。
彼女はスマートフォンをデスクの上に静かに置くと、ゆっくりと立ち上がった。
窓の外を見やる。
街角の景色は、完璧な光の中に溶け込んでいた。
ビル群も、街路樹も、遠くを行き交う無数の人々も、すべてが均一な明度でそこに配置され、寸分の狂いもなく存在している。
誰かが狂うこともない。誰かが健全を装うこともない。
誰かが誰かを裁くこともなく、誰かが誰かを崇めることもない。
すべてが均質で、すべてが透明で、すべてが無価値な世界。
かつて地獄と呼んだかもしれないその場所は、今や詩乃にとって、この上なく心地よく、一切の痛みが存在しない、完璧に完成された静寂の楽園だった。
詩乃は窓辺に歩み寄り、ガラスにそっと手のひらを重ねた。
冷たさすら感じない。
自分の手と、ガラスと、外の空気の境界線が、静かに溶け合っていく。
彼女は静かに目を閉じ、完璧に平坦となった世界の一粒の要素として、深い静寂の中へと沈み込んでいった。




