1. 座標の死と、剥がれ落ちる「正しさ」
白紙のPDFを送信してから、どれだけの時が流れただろうか。
日付という概念すら高低差を失い、窓から差し込む光の明暗だけが、無機質に巡っていた。
詩乃はデスクの前に座っていた。
指先はキーボードの上に置かれたままであり、画面には一文字の不純物もない白が広がっている。
部屋の空気は、すでに無味無臭だった。
かつて存在した怪異の湿り気も、精神を苛む焦燥感も、すべて無色の溶媒の中に溶けて消えていた。
だが、その静寂の中に、ほんのわずかな歪みだけが残されていた。
(……なぜ、私はここに座っている……?)
白紙を提出した。編集者の長谷川からは「完璧です」と返信が届いた。
ならば物語は終わりだ。パソコンを閉じ、立ち上がるべきだった。
しかし、身体は動かない。
動かないのではない。どちらへ動くべきかという方向そのものが、頭の中で組み立てられなくなっていた。
右へ向かうべきか、左へ向かうべきか。
立ち上がるべきか、座り続けるべきか。
かつて人間は、無意識のうちに行動を選択していた。
喉が渇いたから水を飲む。疲れたから休む。
それらはすべて、より良い状態を目指すという、微小な正しさ――行動の矢印に導かれていた。
だが、良いも悪いもない平坦な世界では、あらゆる選択肢が等価だった。
立ち上がることも、座り続けることも、息を吸うことも、止めることも。
すべての価値がゼロで並んだ瞬間、人間の意思は行き場を失う。
矢印を奪われた詩乃の身体は、ただの質量の塊として、そこに留まるしかなかった。
「……あ……」
詩乃の唇から、意味を持たない呼気が漏れた。
彼女は麻痺したような指先を滑らせ、過去に書いたプロットのフォルダを開こうとした。
自分で新しい文章を組み上げる思考力は、すでに残っていない。
過去の遺産から、人間が歩むべき正当な道筋を示す言葉を探し出そうとしたのだ。
画面に、昔書いたメモのテキストが浮かび上がる。
『主人公は……正義の側へ……』
正義。
その文字列を目にした瞬間、詩乃の心臓が不規則に打動した。
正しく、筋が通り、なすべき道。
これさえあれば、世界に再び高低差が生まれるはずだった。
どちらへ進むべきかという矢印が復活すれば、人間は再び選択を行い、物語は息を吹き返す。
しかし。
画面の中の正義という2文字から、急速に意味が引き抜かれていった。
黒いフォントで表示された文字は、ただの複雑な線の組み合わせへと変化する。
正という字の直線。義という字の羊と我。
それらは何らかの概念を表す記号ではなく、白い背景の上に散らばった無意味な墨の痕跡に過ぎなかった。
「……読め……ない……?」
文字として認識はできる。音として「セイギ」と発音することもできる。
しかし、その言葉が指し示していたはずの正しさの方向というイメージが、脳のどこを探しても見つからない。
北を指さない方位磁針。
矢印のない標識。
脳が意味を維持できなくなった瞬間、画面上の正義という文字は、静かに空白へと還元された。
消えたのではない。
指し示すべき方向が存在しない世界で、その言葉はただの空虚なデータとして処理されたのだ。
「せい……ぎ……」
詩乃は震える指でキーボードを叩いた。
せ、い、ぎ。
変換キーを押す。
画面に躍るのは、生義、盛儀、精義といった、文脈から切り離された同音の文字列ばかり。
正義という漢字は、変換候補の最後尾にすら表示されなかった。
正しいことと、間違っていることの区別。
それがなければ、人はどうやって一歩を踏み出せばいいのか。
正義が存在するためには、対極にある悪が存在しなければならない。
どちらを選ぶかという葛藤があって初めて、正義という矢印は意味を持つ。
だが、悪も狂気も不健全も、すべてが平坦に埋没した世界において、どちらか一方を選び取る行為そのものが成立しなくなっていた。
右も左も同じ。
正義も悪も同じ。
すべてが均一なゼロの空間で、こちらが正しいと矢印を立てることは、存在しない山に向かって登山口を作るような、無意味な滑稽さに過ぎなかった。
その時、デスクの上のスマートフォンが無機質な振動音を立てた。
画面には『長谷川(怪異編集部)』の通知。
詩乃は縋るように端末を拾い上げ、応答ボタンをスワイプした。
「長谷川さん……! 正しさが……言葉の方向が……消えていくんです……!」
『……あ、詩乃先生。お疲れ様です』
スピーカーから聞こえる長谷川の声は、ノイズのない清流のようだった。
そこには温もりも、異変を恐れる慄きも存在しない。
『フォーマットの確認でしょうか。先ほど頂戴した『最終稿_修正済.pdf』は、印刷所のシステムへ寸分の狂いもなく転送されましたよ』
「違います! 私たちがどう生きていくべきかという……正義という概念そのものが……頭からも原稿からも入らないんです!」
受話器の向こうで、規則正しいオフィス音が響いていた。
カチ、カチと一定の周期で打ち込まれるキーボードの音。
長谷川は透き通った声で問いかけてきた。
『先生……「せいぎ」とおっしゃったのは、具体的にどのような現象ですか?』
「現象じゃありません! 価値観です! 正しいことと悪いことを区別して、人間が正しき方へ向かうための方向性です!」
長谷川は電話の向こうで、朗らかに微笑んだ気配を見せた。
『先生……どうして何かに方向をつけなければならないのですか?』
「え……?」
『こちらが良い方向で、あちらが悪い方向だと決めることは、世界に不必要なベクトルを持ち込むことです。北へ向かうことが正しく、南が間違っているというルールが、この平坦な世界のどこに存在するでしょうか?』
長谷川の言葉は、澄んだ水のように詩乃の脳へ浸透していく。
『人間はただ、そこに存在し、抵抗の少ない方向へ流れているだけです。そこに正義という矢印を置けば、従わないものを悪として排除しなければならなくなる。そんな余計な摩擦を生む言葉が、どうして必要ですか?』
「でも……! 進むべき基準がなかったら、人は一歩も動けなくなってしまうわ!」
『選択、ですか?』
長谷川の軽やかな失笑が漏れた。
『どうして選択という疲れる作業をするのですか? 右を選ぶことも、左を選ぶことも、何ひとつ選ばないことも、すべては等しく同じ価値です。どこへ進んでも、世界は何の問題もなく完璧に存在していますよ』
「そんなの……生きていると言えないわ……!」
『ただ漂う。最高じゃないですか。どこを目指す必要もなく、ただそこに在る。完璧な調和です。さあ先生、静かに休んでください。あなたの原稿は、どこへも向かわない、真に完璧な無色の芸術として完成したのですから』
ツーツーという音すらなく、通話が切れた。
スマートフォンを握りしめたまま、詩乃はデスクに腕を落とした。
狂気が消え、健全が消え、正義という矢印すら削ぎ落とされた。
右も左も、前も後ろもない。
正解も不正解もない。
あらゆる選択肢がゼロへと還元された世界で、詩乃は自らの足でどちらへも踏み出せない、完全な選択の死の中に取り残されていた。




