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消えた言葉を探す旅、世界は静かに壊れていく  作者: 都桜ゆう
第2章 編集者の否認と世界のズレ

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4. 増殖する“穴”と、液晶の陽炎

 彼女は逃げるようにして、再びPCのテキストエディタへと戻った。


 現実の世界が信じられないのなら、せめて自分が作り出した物語の世界だけは、自分のコントロール下に置いておきたかった。


 原稿を修正しなければならない。長谷川に指摘された空白を、世界が受け入れられる無難な言葉で埋め、物語を完結させる。それが、作家としての彼女に残された唯一の生存戦略であり、現実との細い繋ぎ目だった。


 長編のファイルを再度開き、問題の箇所へとスクロールする。


 しかし、画面に表示された文章を見た瞬間、詩乃は目を見開いた。

 彼女の口から、声にならない、乾いた悲鳴が漏れた。


「……本当に、消えてる……」


 長谷川の言葉は、恐ろしいほどの事実だった。

 画面の上に展開されていたのは、彼女がプロとしての執念を込めて完璧に打ち込み、確かに保存して送信したはずの原稿だった。


 だが今、彼女の目の前で、かつて異常と記されていたすべての場所が、ぽっかりと白い穴を開けて彼女を嘲笑っていた。


『男は[ ]な恐怖を感じた。それは彼の平穏な日常を完全に破壊するものであり、眼前の光景はあまりにも[ ]で、彼の精神は[ ]をきたし始めていた』


「どうして……? 私は確かに、ここは完璧に書いて保存したはずよ! 『異常な恐怖』って書いたし、『異常をきたす』って、絶対に打ち込んで送信したのに!」


 彼女は狂ったようにキーボードを叩き、バックアップファイルを開いた。しかし、自動保存されていた過去のバージョンのファイルも同様に、彼女がその2文字を刻み込んだ十数箇所のすべてが、虚無の空白へと変わっていた。


 彼女が作品に固定したはずの言葉だけが、最初から存在しなかったかのように、綺麗に削ぎ落とされている。


 詩乃は恐怖に震えながら、モニターの画面を凝視した。

 その時、彼女の目は、画面の最右下の隅、現在の文字数を表示しているステータスバーのすぐ隣に、再びあの揺らぎを捉えた。


 いや、それはもう揺らぎなどという生易しいものではなかった。

 数日前には1文字分ほどだった空間の歪みは、今や全角で10文字分ほどの、明確な空間の陥没へと成長していた。


 モニターの液晶ピクセルが、その部分だけ完全に融解し、内側に向かってぐるぐると渦を巻いている。

 色は反転し、不気味な紫と緑のノイズがパチパチと音を立てて明滅していた。


 そして、その歪みは液晶の表面だけに留まらず、モニターのプラスチック製のフレームを歪ませ、背後の壁紙の模様さえも、アリ地獄の巣のように中心へと引きずり込んでいた。


「あ、あ、あ……」


 詩乃は椅子ごと後ろへとひっくり返った。

 床に激しく身体を打ち付けたが、その痛みすらも、頭の中のパニックにかき消された。


 彼女の目には、その陥没の正体がはっきりと見えていた。

 それは、世界から言葉が消え去った後に残された、現実の真空地帯だった。


 言葉という支えを失った空間が、自らの重みに耐えかねて崩壊し、虚無の穴を開けているのだ。そして、その穴は、彼女が文章を書けば書くほど、世界が言葉を否定すればするほど、周囲の現実を貪り食いながら拡大していく。


 彼女のノートPCの画面は、今や半分近くが真っ白な空白と、右下の不気味なノイズの渦によって埋め尽くされている。


 世界から異常という言葉が消えた。それは単に辞書の記述が一段落消えたという意味ではない。

 人間の社会的認識から、その概念そのものが完全に切除されたのだ。


 世界はより健全に、より平坦になった。

 おかしなことをおかしいと言う者がいなくなった世界は、一見すると完璧な秩序を保っているように見える。

 

だがそれは、末期がんの患者が痛覚を麻痺させられ、自らの死に気づかずに微笑んでいるような、おぞましい平穏だった。


 詩乃は床に倒れたまま、拡大を続ける液晶画面の穴を見つめていた。

 彼女の記憶のなかにある異常という2文字が、今も激しく自己を主張している。だが、それを共有できる人間は、この世界のどこにもいない。


「私は……間違っていない……」


 彼女は涙を流しながら、掠れた声で呟いた。

 しかし、その声は、部屋を満たす冷ややかな無音のなかに、何の意味も結ぶことなく吸い込まれて消えた。


 世界の辞書は完全に書き換わり、彼女の認識と世界の認識の間のズレは、もはや超えることのできない断絶となって、彼女の足元に横たわっていた。


 彼女は、自分がゆっくりと、世界の外側へと押し出されようとしているのを感じていた。

 言葉を覚えているというただそれだけの理由で、彼女は世界にとっての異物になりつつあった。


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