4. 増殖する“穴”と、液晶の陽炎
彼女は逃げるようにして、再びPCのテキストエディタへと戻った。
現実の世界が信じられないのなら、せめて自分が作り出した物語の世界だけは、自分のコントロール下に置いておきたかった。
原稿を修正しなければならない。長谷川に指摘された空白を、世界が受け入れられる無難な言葉で埋め、物語を完結させる。それが、作家としての彼女に残された唯一の生存戦略であり、現実との細い繋ぎ目だった。
長編のファイルを再度開き、問題の箇所へとスクロールする。
しかし、画面に表示された文章を見た瞬間、詩乃は目を見開いた。
彼女の口から、声にならない、乾いた悲鳴が漏れた。
「……本当に、消えてる……」
長谷川の言葉は、恐ろしいほどの事実だった。
画面の上に展開されていたのは、彼女がプロとしての執念を込めて完璧に打ち込み、確かに保存して送信したはずの原稿だった。
だが今、彼女の目の前で、かつて異常と記されていたすべての場所が、ぽっかりと白い穴を開けて彼女を嘲笑っていた。
『男は[ ]な恐怖を感じた。それは彼の平穏な日常を完全に破壊するものであり、眼前の光景はあまりにも[ ]で、彼の精神は[ ]をきたし始めていた』
「どうして……? 私は確かに、ここは完璧に書いて保存したはずよ! 『異常な恐怖』って書いたし、『異常をきたす』って、絶対に打ち込んで送信したのに!」
彼女は狂ったようにキーボードを叩き、バックアップファイルを開いた。しかし、自動保存されていた過去のバージョンのファイルも同様に、彼女がその2文字を刻み込んだ十数箇所のすべてが、虚無の空白へと変わっていた。
彼女が作品に固定したはずの言葉だけが、最初から存在しなかったかのように、綺麗に削ぎ落とされている。
詩乃は恐怖に震えながら、モニターの画面を凝視した。
その時、彼女の目は、画面の最右下の隅、現在の文字数を表示しているステータスバーのすぐ隣に、再びあの揺らぎを捉えた。
いや、それはもう揺らぎなどという生易しいものではなかった。
数日前には1文字分ほどだった空間の歪みは、今や全角で10文字分ほどの、明確な空間の陥没へと成長していた。
モニターの液晶ピクセルが、その部分だけ完全に融解し、内側に向かってぐるぐると渦を巻いている。
色は反転し、不気味な紫と緑のノイズがパチパチと音を立てて明滅していた。
そして、その歪みは液晶の表面だけに留まらず、モニターのプラスチック製のフレームを歪ませ、背後の壁紙の模様さえも、アリ地獄の巣のように中心へと引きずり込んでいた。
「あ、あ、あ……」
詩乃は椅子ごと後ろへとひっくり返った。
床に激しく身体を打ち付けたが、その痛みすらも、頭の中のパニックにかき消された。
彼女の目には、その陥没の正体がはっきりと見えていた。
それは、世界から言葉が消え去った後に残された、現実の真空地帯だった。
言葉という支えを失った空間が、自らの重みに耐えかねて崩壊し、虚無の穴を開けているのだ。そして、その穴は、彼女が文章を書けば書くほど、世界が言葉を否定すればするほど、周囲の現実を貪り食いながら拡大していく。
彼女のノートPCの画面は、今や半分近くが真っ白な空白と、右下の不気味なノイズの渦によって埋め尽くされている。
世界から異常という言葉が消えた。それは単に辞書の記述が一段落消えたという意味ではない。
人間の社会的認識から、その概念そのものが完全に切除されたのだ。
世界はより健全に、より平坦になった。
おかしなことをおかしいと言う者がいなくなった世界は、一見すると完璧な秩序を保っているように見える。
だがそれは、末期がんの患者が痛覚を麻痺させられ、自らの死に気づかずに微笑んでいるような、おぞましい平穏だった。
詩乃は床に倒れたまま、拡大を続ける液晶画面の穴を見つめていた。
彼女の記憶のなかにある異常という2文字が、今も激しく自己を主張している。だが、それを共有できる人間は、この世界のどこにもいない。
「私は……間違っていない……」
彼女は涙を流しながら、掠れた声で呟いた。
しかし、その声は、部屋を満たす冷ややかな無音のなかに、何の意味も結ぶことなく吸い込まれて消えた。
世界の辞書は完全に書き換わり、彼女の認識と世界の認識の間のズレは、もはや超えることのできない断絶となって、彼女の足元に横たわっていた。
彼女は、自分がゆっくりと、世界の外側へと押し出されようとしているのを感じていた。
言葉を覚えているというただそれだけの理由で、彼女は世界にとっての異物になりつつあった。




