3. SNSの砂漠と、さざなみのような孤立
詩乃はPCの画面を見つめたまま、長い間凍りついていた。
彼女の目は、今やSNSのタイムラインへと向けられていた。
数千万人がリアルタイムで言葉を交わし、生の欲望や感情、日々の不満を垂れ流している、言わば現代の集団ヒステリーの最前線だ。
ここなら、世界の書き換えの速度に追いつけず、古い言葉をそのまま使ってしまっている人間が、世界の片隅に潜んでいるかもしれない。
ネットのバグ、あるいは単なるアーカイブの残り香を求めて、彼女は画面をスクロールした。
検索窓に、あの言葉を入力してタイムラインを検索する。
やはり、ヒット件数はゼロだった。
彼女はタイムラインを通常のスクロールに戻し、見知らぬ人々の日常の呟きを凝視した。
『今日の満員電車、本当に地獄だった。エアコン壊れてたのかな? 普通じゃない暑さだった』
『うちの猫、最近ずっと壁の一点を見つめてシャーって鳴くの。なんかおかしなことでもあるのかな』
『最近のニュース、理解できない事件ばっかりで怖いね』
人々は、日常のなかで発生する歪みやおかしなことを、必死になって別の言葉で表現していた。
普通じゃない。おかしい。理解できない。
それらの言葉が使われるたびに、詩乃の胸には鋭い針で刺されたような痛みが走った。
彼らは、自分が本来使うべき決定的な一言を奪われていることに、全く気づいていないのだ。
まるで、生まれつき特定の色彩を認識できない人間が、その色の存在を疑うことなく、世界を美しいと信じているように。
「私が……間違っているの?」
詩乃の心の中に、濁った泥水のような疑念が湧き上がり始めた。
これほどまでに世界が一枚岩となってその言葉を否定しているのなら、本当に間違っているのは自分の方なのではないか。自分は、存在しない架空の言葉を記憶している、精神の病に侵された哀れな人間なのではないか。
記憶の改ざん。あるいは、脳の腫瘍がもたらした強烈な錯覚。
ホラー作家という職業柄、彼女は常に正気と狂気の境界について考えてきた。
狂気とは何か。それは、大多数の人間が共有している現実から、1人だけドロップアウトしてしまうことだ。
どれほど本人が「自分の見ているものが正しい」と主張したところで、周囲の人間全員がそれを否定すれば、その主張はただの幻覚であり、妄想の産物として処理される。
多数決によって正気は定義されるのだ。
今の自分は、まさにその狂人の椅子に座らされようとしているのではないか。
彼女は自分のアカウントの投稿画面を開いた。
タイムラインに向かって、あの言葉を打ち込んでみようという強い衝動に駆られた。
『皆さんは「異常」という言葉を知っていますか? 普通ではないという意味の言葉です。なぜ辞書から消えているんですか?』……と。
しかし、彼女の指は、送信ボタンの上でピタリと止まった。冷たい静電気のようなものが指先を掠める。
もしこれを送信したら、どうなるだろう。
フォロワーたちは、長谷川と同じように困惑するだろう。
「詩乃先生、新作用の奇妙なプロモーションですか?」と訊ねられるか、あるいは「お疲れのようですね」と哀れみの目を向けられるだけだ。
最悪の場合、「この作家は頭がおかしくなった」と噂され、これまでのキャリアがすべて破滅するかもしれない。
誰からも相手にされなくなる、本当の精神的孤立。
社会的認識の崩壊は、彼女を完全な孤立へと追い込んでいた。
世界という巨大なネットワークから、彼女の認識だけがプツリと切り離され、行き場のないノイズとして空間を漂っている。
彼女はスマートフォンの電源を完全に切り、黒い液晶画面をデスクに伏せた。
部屋の中は、驚くほど静かだった。外からは相変わらず、初夏の穏やかな風に揺れる木々の葉の音が聞こえてくる。
世界は何も困っていない。一つの重要な概念を失ったというのに、何事もなかったかのように、むしろ以前よりもスムーズに、健全に回っているようにすら見える。
その美しく洗練された無音の世界のなかで、詩乃だけが、存在しない言葉の重みに押し潰されそうになりながら、荒い呼吸を繰り返していた。




