2. 辞書の叛逆と、書き換わった世界
「そんなわけがない。長谷川さんがおかしいんだ。悪質な悪戯か、あるいは私の耳の神経がどうかしてしまったの?」
詩乃はデスクから立ち上がり、部屋の中を激しく往復した。
優秀で、誰よりも言葉に厳格な編集者である長谷川が、異常という言葉を知らない? 日本語に存在しない? そんな馬鹿げた話があるはずがない。
もしそれが本当なら、自分が見ているこの世界と、長谷川が見ている世界との間に、修復不可能な、致命的なズレが生じていることになる。
彼女は震える手で、本棚の一角へと向かった。
そこには、怪奇小説のリアリティを担保するために彼女が長年集めてきた、何冊もの重厚な辞書や事典が並んでいる。
重厚な装丁の大型国語大辞典、愛用している卓上版の国語辞典、そして表現の幅を広げるための類語検索辞典や類語新辞典。
まず、最も信頼性の高い、厚みのある大型国語大辞典を棚から引き抜いた。ずっしりとした紙の重みが、彼女の腕に鉛のように圧しかかる。
詩乃は床に直接膝をつき、辞書のページを狂ったようにめくり始めた。パラパラと、乾いた紙の音が室内に響く。
「あ行」の「い」。
「い」から始まる言葉の列を目で追う。
い、いあ、いあく、いあん。
いう、いえ、いお。
いか、いき、いく。
いけ、いこ、いさ。
「いし」の項目を通り過ぎ、「いす」へと向かう。その間にあるはずの、彼女の目的の言葉。
「いじ」のセクションに到達する。
「いじ、維持。いじ、遺児。いじ、意地。いじく、いじける、いじくる……」
詩乃の指が、紙面の上でピタリと止まった。
彼女の目は、印刷された細かな文字の列を何度も、何度も往復した。爪が紙を白く擦る。
「いじ(意地)」の項目に指を添え、そのすぐ隣へ視線を滑らせる。
50音順に従えば、「いじ(意地)」の次には「いじょう」という見出し語が鎮座しているはずだった。
しかし、そこに記載されていたのは、地方の言葉を指す「いじち」という項目であり、その先は「いじめる」へと何事もなかったかのように続いていた。
本来なら「いじ」と「いじち」の間に収まっているはずの「いじょう」という見出し語が、その説明文もろとも、影も形もなく消え失せている。
ない。
ない。
どこにも、ない。
異なるに、常に、と書くあの2文字の単語は、日本で最も権威ある辞書の紙面から、最初から存在していなかったかのように、完全に抹消されていた。
項目自体が消えているため、前後の言葉が不自然に詰められ、辞書としての体裁は何事もなかったかのように整えられている。
空白すらそこにはない。最初から、そんな言葉は存在しなかったのだと、白黒のインクが冷徹に主張していた。
「嘘……どうして……?」
彼女は次に卓上版の国語辞典を開いた。より現代的で、日常的な語彙が網羅されているはずの辞書だ。
しかし、結果は同じだった。「維持」と「意地」の間に、彼女の求める言葉の墓標すら残されてはいなかった。
類語辞典を開いてみる。
「普通」という言葉の対義語の欄を探す。
そこには「特殊」「格別」「変異」「一変」といった言葉が並んでいたが、最も根源的であり、彼女がそれまで何度も使ってきたはずのあの2文字だけが、綺麗に削ぎ落とされていた。
「世界が……書き換わっている……?」
詩乃は辞書を床に落とした。どさりと重い音が響き、開いたページが虚しく空気を揺らす。
彼女は自分の両手を見つめた。手のひらは恐怖で小刻みに震え、冷たい汗で湿っている。
自分の記憶の中には、明確にその言葉が存在している。漢字の形も、音の響きも、意味も、それを使って書いた過去の原稿の記憶も、すべてが鮮明だ。昨日まで、私はその言葉を使って思考していた。
しかし、一歩外側の社会というシステムに目を向けると、その言葉は影も形もなくなっている。
彼女は這うようにしてデスクに戻り、PCのブラウザを立ち上げた。
「まだ分からない。インターネットなら、誰か1人くらいはあの言葉を使っているはずだ。現代の膨大なテキストの海なら、世界の消去から漏れた痕跡が、個人ブログの片隅にでも残っているかもしれない」
検索エンジンのトップページを開き、入力欄にキーボードから直接「いじょう」と打ち込んだ。
キーを叩く音が、やけに大きく部屋に響く。変換キーを押す。
だが、画面に表示される候補には「以上」「移譲」「衣裳」「威譲」といった同音異義語が並ぶだけで、彼女が求める漢字の組み合わせは出現しない。
彼女は無理やり「異」と「常」の2文字を別々に打ち込み、一つの単語として繋げて検索ボタンをクリックした。
画面が一瞬暗転し、検索結果が表示される。
『「異常」に一致する情報は見つかりませんでした』
検索エンジンという、世界中の知識とテキストを網羅しているはずの超巨大な知性が、詩乃に対して無慈悲なゼロを突きつけていた。
ヒット件数、0件。
「そんなはずはない! じゃあ、別の検索方法なら……国会の議事録とか、過去の新聞記事なら……」
彼女は、検索オプションを駆使し、過去数年間のニュースアーカイブや、公的な行政文書のデータを対象に、その文字列が含まれるテキストを執拗に探し始めた。
しかし、世界は残酷なほどに完璧だった。
大手ニュースサイトの過去記事を開いても、そこにあったはずの言葉は跡形もなく消えていた。
かつてのシステム異常はシステムの予期せぬ不具合へ。
異常気象は極端な気候変動へ。
異常者は理解し難い行動をとる人物へ。
すべてのテキストが、最初からそうであったかのように自然に書き換えられていた。
社会的認識の崩壊。
それは、凄惨な天変地異のように派手な音を立てて訪れるのではなかった。
誰も気づかないうちに、世界の辞書が、インフラの底流が、人々の脳内の言語野が、同時に、一瞬にして書き換わることで完了するのだ。
そして、その書き換えに不満を抱く者は誰もいない。
なぜなら、彼らにとっては最初から存在しない言葉であり、喪失感を感じる余地すらないからだ。
世界はそれを知らない。
知っているのは、この静かな部屋に取り残された、詩乃という1人の女だけだった。




