1. 送信された原稿と、1本の電話
奇妙な朝の違和感から、さらに数日が経過していた。
詩乃の生活は、表面上は驚くほど穏やかに、そして恐ろしいほどの規則正しさをもって流れていた。
あの日の朝、テキストエディタの前で味わった不可解な思考の停止や、保存した瞬間に目撃した画面の歪みへの気味悪さは、日々の執筆活動という具体的な肉体作業の波に押し流され、彼女の意識の最も深い底流へと沈殿していた。
人間という生き物には、自らの理解を超える一瞬のバグや微小な矛盾に直面した際、それを、ただの疲れや、一時的なド忘れという引き出しに押し込み、精神の平安を保つ強力な自己防衛機能が備わっている。
詩乃もまた、その機能に全面的に依存することで、辛うじて日常の体裁を保ち続けていた。そうしなければ、キーボードに指を置くことすらできなくなってしまうからだ。
書き下ろしの長編怪奇小説の第1稿は、予定よりも数日早く、その日の昼過ぎにようやく形を成した。
「……よし。これで、一度見てもらおう」
詩乃はデスクの前で小さく伸びをし、強張っていた身体の力を抜いてキーボードから手を離した。
モニターに表示されているのは、全20万字に及ぶ大作の最終行だ。
執筆の過程で、いくつかの表現に原因不明の不自然な引っ掛かりを覚える瞬間もあったが、その都度、自分の美学に叶う最適な言葉を選び取ってきた。
物語としての骨組みは非常に強固に仕上がったという自負があった。
彼女はファイルをPDF形式にエクスポートし、慣れ親しんだメールソフトを立ち上げた。
宛先は、デビュー当時から彼女のすべての作品の伴走者を務めている文芸誌『月刊文藝怪異』のベテラン編集者、長谷川だ。
長谷川は非常に優秀な男で、詩乃の描く静かな恐怖、じわじわと日常が浸食されていくニュアンスを誰よりも深く理解し、的確なアドバイスをくれる、彼女にとって最も信頼できる外側の目であり、正気の指標でもあった。
『長谷川様。お世話になっております。詩乃です。かねてより執筆しておりました長編の第1稿がまとまりましたので、添付にてお送りいたします。ご多忙のところ恐縮ですが、ご一読いただき、ご感想や修正点などいただけますと幸いです』
定型文を打ち込み、大容量のファイルを添付する。送信ボタンをクリックすると、シュッと短い電子音が鳴り、原稿は電子の海を渡って長谷川のもとへと送り出された。
「これで一区切り、ね」
詩乃は椅子の背もたれに深く寄りかかり、ふう、と長い息を吐き出した。
原稿を編集者に手渡した直後の、あの脳の痺れが解けていくような、独特な解放感と、同時に訪れる微かな不安。それは何年作家を続けても変わらない。
彼女は淹れたての緑茶をすすりながら、しばらく窓の外の景色を眺めていた。
初夏の陽光は相変わらず眩しく、初夏の陽光は相変わらず眩しく、道路を走り去る車の低く規則的な走行音が、世界が今日も正常に、寸分の狂いもなく稼働していることを証明していた。
自分の部屋の中にだけ、少しだけ奇妙な澱が溜まっているだけだ。そう思いたかった。
それからわずか2時間後、デスクの上に置いたスマートフォンが、激しい振動とともに着信を告げた。
静かな部屋に、バイブレーションの低音が不穏に響き渡る。
画面を見ると、そこには『長谷川(怪異編集部)』の文字が表示されている。
「え、もう連絡? いくらなんでも読むのが早すぎる……」
詩乃は少し驚きながらも、すぐに通話ボタンをスワイプし、端末を耳に当てた。
「もしもし、長谷川さん? お世話になっております、詩乃です。原稿、もう見てくださったんですか?」
『あ、詩乃先生! お疲れ様です、長谷川です。原稿、たった今届いたのを確認しまして、ひとまず冒頭の数章だけ、目を通させていただきました。いやあ、今回も素晴らしいですね! 廃病院のあのじわじわと首を絞められるような空気感、先生の筆が冴え渡っていますよ。特に湿度の高い描写は、読んでいてゾクゾクしました』
受話器から聞こえる長谷川の声は、いつも通り快活で、仕事熱心な彼の性格をそのまま表していた。
詩乃はホッと胸をなでおろし、数日ぶりに心からの笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。そう言っていただけると本当に安心しました。今回は特に、主人公の精神が現実から滑り落ちていくプロセスの描写に力を入れたので、そこが読者に伝わっていれば嬉しいです」
『ええ、本当に伝わってきます。プロットの段階よりも心理描写に深みが増していて、読者を引っ張り込む力がありますよ。ただですね、先生……』
長谷川の声のトーンが、わずかに下がった。
編集者が「ただですね」と言うとき、それは必ず何らかの指摘、あるいは致命的な修正の提案を意味する。詩乃は身を硬くし、デスクの上のボールペンを無意識に強く握りしめた。
『非常に完成度が高いからこそ、ちょっと気になるというか、不思議な箇所がいくつかありまして。確認させていただいてもよろしいですか?』
「はい、もちろんです。どのような点でしょうか。構成の問題ですか? それともキャラクターの動機についてでしょうか」
『ええと、表現のディテールというか……例えば第5章の13ページ目なんですけれど……主人公が、鏡の中に映る自分の影が、自分とは全く異なる動きをしているのを目撃するシーンですね。あそこの1節です』
長谷川が原稿をめくるカサリ、という紙の音が受話器の向こうから聞こえる。彼はPDFをわざわざプリントアウトして読んでいるようだった。
『ここです。先生、こう書かれていますよね。
「鏡の中の影は、私を嘲笑うように不気味な笑みを浮かべた。その挙動は、私たちが生きる世界のルールにおいて、あまりにも[ ]なものであった」……と。この、[ ]の部分なんですけれど』
詩乃は眉をひそめた。長谷川が今、その文章を読み上げる際、まるで見えない空白を飛び越えるかのように、あるいは声が一時的にミュートされたかのように、その部分だけを不自然に発音しなかったように感じられたからだ。
「……長谷川さん? その[ ]の部分には、なんて書いてありますか? 確か私は、そこに言葉を打ち込んだはずですが」
『え? いや、ですから先生。PDFのデータを見ると、そこだけ文字が入っていなくて、全角で2文字分ほどの、ただの真っ白な空白になっているんですよ。文字化けの記号すらなくて、完全にスペースが空いているんです。ここだけじゃありません。第1章のクライマックスや、第3章の後半にも、同じように文章の途中に不自然な穴が空いている場所が、合計で10箇所以上ありまして……。これは単純な脱字ですか?』
「空白……?」
詩乃の脳裏に、数日前の朝の光景が鮮烈に蘇った。
思考の引き出しに鍵をかけられたかのように言葉が出てこず、冷や汗をかいたあの時間。そして、意地で言葉を手繰り寄せ、完璧に画面を埋めて保存ボタンを押した、あの確かな手応え。
(そんなバカな……。私は確かに、あそこに言葉を打ち込んで保存したはずよ)
「そんなはずはありません。私は確かに、そこに対応する言葉を打ち込みました。長谷川さん、その空白の前後を繋ぐ言葉ですよ。世界のルールから外れてしまった、普通ではない状態を示す、あの一般的な4文字です。い、じ、よ、う、です。異常という言葉を、私は確実に書きました」
受話器の向こうが、一瞬、奇妙な静寂に包まれた。
長谷川が何を考えているのか、その気配が全く伝わってこない。ただ、受話器の向こうのオフィスで鳴っているであろう、別の社員のキーボードの打鍵音や、電話の呼び出し音だけが、遠く小さく響いていた。
そのありふれたオフィスの環境音が、かえって詩乃の孤独感を際立たせる。
やがて、長谷川が少し困惑したような、引きつった笑い声を上げた。
『ハハ、先生、何をおっしゃっているんですか。冗談は勘弁してくださいよ。新しい怪談のネタフリですか?』
「冗談? 冗談なんか言っていません。私は大真面目に――」
『いや、だって先生』
長谷川の声には、からかうような色ではなく、芯からの困惑が混ざっていた。それは、全く見知らぬ異国の言語を突然突きつけられた人間が浮かべる、純粋な戸惑いの声だった。
『さっき先生がおっしゃった、その……[ ]? でしたっけ。その言葉、どういう意味ですか? 私の勉強不足だったら本当に申し訳ないんですけれど、聞いたことがない言葉でして。新造語か何かですか? それとも、今回の作品のための独自のSF設定か何かの専門用語でしょうか? もしそうなら、事前に設定資料をいただけると助かるのですが……』
詩乃は息を呑んだ。
長谷川がその単語を口にした瞬間、受話器から聞こえる彼の音声が、まるで一瞬だけ回線が途切れたかのように不自然に途切れた。
彼の喉がその音を発音することを拒絶したのか、あるいは通信システムそのものがその文字列の伝達をブロックしたかのように。
全身の血が、一瞬で足元へ向かって引いていくような感覚。スマートフォンの筐体を握る指先が、冷たく強張っていく。
長谷川の言っていることが、1文字も理解できない。いや、理解したくなかった。
「……何を、言っているの? 長谷川さん、冗談はあなたの方でしょう?異常ですよ。普通ではないこと。病的な状態のこと。ニュースでも、警察の発表でも、毎日嫌というほど使われている、あの当たり前の言葉です。怪奇小説を専門に扱っているベテラン編集者が、その言葉を知らないなんて、そんなわけが――」
『先生、落ち着いてください』
長谷川のトーンは、今や完全に詩乃を宥めるためのものに変わっていた。
まるで、精神に失調をきたした患者を刺激しないように、腫れ物に触れるように慎重に言葉を選ぶ、医師のような響き。
『あの、本当に、そんな言葉、私はこれまでの人生で一度も聞いたことがありませんし……第一、日本語の語彙として存在していませんよ。先生、お疲れなんじゃないですか? ここ数ヶ月、ずっと缶詰状態で執筆されていましたし、睡眠もしっかり取れていないとおっしゃっていましたから。脳が一時的に、ありもしない文字列を作り出してしまっているのかも知れません。一度原稿のことは忘れて、温かいものでも飲んで、ゆっくり休まれた方がいいです。締め切りはまだ先ですから』
「もう、いいです」
詩乃は長谷川の言葉を遮り、通話終了の赤いボタンを乱暴にタップした。
スマートフォンの画面が暗転し、部屋に再び静寂が戻る。しかし、その静寂は、今や彼女の知っている日常のそれではなく、世界の土台が音もなく崩れ落ちていくような、底知れぬ深淵の気配を孕んでいた。




