出発前夜
窓の外には夜の街並みと、遠くを走る車のヘッドライトが不規則な光の帯を描いていた。
「いい? リベーロ」
ビジネスホテルのツインルーム。
バスタオルと着替えを胸元に抱えたロゼリーが、バスルームのドアノブに手をかけたまま、氷のように冷たい視線をリベーロへ向けた。
「私はこれからシャワーを浴びるわ。……間違っても、うっかりドアを開けるような真似は許さないからね。
もし一歩でもこのドアに近づいたら、明日の終業日を待たずに
あなたの存在そのものをこの世から消去するわよ」
念には念を入れた、厳重極まりない警告。
だが——。
「へえ、ロゼリー、伝書鳩野郎っているんだって」
ベッドの上に寝転がったリベーロは、ロゼリーの話をまったく聞いていなかった。
「伝書鳩の話じゃないわよ。聞いているの? 開けないでよって言ってるの」
厳重な警告をしているロゼリーを、一度も見ようともしなかった。
ロゼリーが買ってきてくれたイヤホンを耳に押し込み、スマートフォンの画面を食い入るように見つめている。
指先は恐ろしい速度でフリック入力を繰り返していた。
@りべーろ:伝書鳩野郎はウェヘム?w
@りべーろ:知らない!知らない!見た事もねーよ。黒ジャッカルってなんだよww
「ねえ、聞いてるの? うっかりでもドアを開けるような真似は許さないからねって言ってるの!」
「え? 風呂入るんでしょ。行ってきなよ。配信で今、伝書鳩野郎が迷惑だって話で盛り上がってるところなんだよ。邪魔」
リベーロの口から出たのは、ロゼリーという実体のある令嬢への関心ではなく、
画面の向こうの電子の声が発する話題だけだった。
ロゼリーは一瞬、言葉を失った。
「開けるな」と釘を刺したのは自分だ。
だが、ここまで一切の女性としての警戒すら抱かれず、全くの無関心さを向けられることは安心ではある反面、それはそれで酷く複雑な気分になる。
「私は女性なのよ。……いいわ、もう行く」
吐き捨てるように言い残すと、ロゼリーはバスルームへ入り、内側からカチリと強固に鍵をかけた。
バスルームから戻ってきたロゼリーは、ドライヤーで髪を乾かしながら
リベーロを見ると、彼はまだスマホを見続けていた。
ロゼリーは奥のベッドの上に静かに横たわった。
掛け布団を胸元まで引き上げ、天井をじっと見つめる。
同じ部屋のすぐ目と鼻の先に異性がいる。
いつもの静寂に包まれたヴェスティ家の邸宅の自室とは
あまりにもかけ離れた空間。
本来なら強い拒絶感を抱くはずの状況だった。
しかし、隣のベッドでリベーロがYouTubeに夢中になっている姿を見ながら、
ロゼリーは不思議なほどの落ち着きと
何か鼓動が上がる様な複雑な気持ちを覚えていた。
世間体も、母の視線も、完璧な令嬢という演劇も、今のこの部屋には存在しない。
「……リベーロ」
ベッドの上で、ロゼリーがぽつりと呟いた。
聞いていないので、再度大きな声で呼んだ。
「リベーロ!」
「うるさいな、何? 読書の邪魔するなって自分はさっき怒ったくせに」
「言っておくけれど、私はあなたを完全に信頼したわけではないわ。これはあくまで……合理的な判断の結果であり、そして——」
話を遮るようにリベーロは返した。
「今度はそんな話しかよ。信頼するとかしないとか。信頼するって軽々しく言えないだけでしょ? いいよ、好きにしなよ」
「……。もういい、先に寝るわ。おやすみなさい」
背中を向け、目を閉じる。
明日には一度自宅へ戻り、学校が終わったら荷物を整えて
23時の空港集合へと向かわなければならない。
自宅では、母との二度目の衝突は避けられないだろう。
だが、ロゼリーの胸の中にあった迷いは、もう消えていた。
暗闇の中で静かに鼓動する心臓の音を聴きながら
彼女は深いまどろみへと落ちていった。
翌朝。
ホテルの1階にあるこじんまりとした朝食フロアには、香ばしいバターと
ハーブの香りが漂っていた。
二人で向かい合ったテーブルの上には、鉄板で香ばしく炒められた
「ワイルドライス・ハッシュ」が運ばれている。
プチプチとした独特の食感を持つワイルドライスに、細かく刻まれたホクホクのポテト、肉汁あふれるソーセージと玉ねぎが絡み合い、食欲をそそる煙を上げていた。
リベーロはフォークでワイルドライス・ハッシュを、豪快に口へ運ぶ。
アイスコーヒーをゴクゴクと飲み干すと、フォークを持ったまま身を乗り出し
無遠慮にロゼリーの顔を覗き込んだ。
「そういえばさ、ロゼリー。昨日配信で伝書鳩野郎の話題で盛り上がったって
話したじゃん?伝書鳩はウェヘムだって話になってさ
誰だよウェヘム!って笑い話だよ。
それに迷惑目的なら伝書鳩より、キツネみたいに獲物を確実に仕留めるべきだって
変な方向になって面白かったよ」
ロゼリーは話を聞きながら、氷の浮かんだオレンジジュースのグラスに静かに手を伸ばし一口含んでから優雅にナプキンで口元を拭った。
その所作にはいつもの洗練された気品が戻っていた。
「ウェヘム? 詳しく話して。」
リベーロは、まるで意味を理解していなかった。
「良く知らないよ。多分作り話だよ。ウェヘムって人が嫌がらせしてるみたいな」
「リベーロ、それは作り話ではないわ」
ロゼリーはフォークを静かに置き、
まるで食事の所作の延長であるかのように、
落ち着いた優雅さを保ったまま説明を始めた。
「『ウェヘム』は人の名前ではなく、役職名よ。
古代エジプトで“繰り返す者”と呼ばれた存在。
言葉を正確に伝達する役割を担っていたわ。」
リベーロはフォークを持ったまま固まり、ぽかんとした顔でロゼリーを見た。
「神話? そんな話を雑談でしてたって事か。よく聞いてると面白いな。ほんと」
ロゼリーは、なぜその新人Vtuberがウェヘムを悪い奴などとリベーロに語ったのか
深くは考えなかった。
ただ、静かにグラスへ指を添えながら続けた。
「それに、ウェヘムが運び、代弁者として読み上げる言葉の主は——ファラオ王よ。
つまり、ウェヘムは全く迷惑行為をする者ではないわ。
まあ、きっと勉強不足な方なのでしょうね。適当な話を鵜吞みにしないことよ」
ロゼリーは淡々と説明し終えると、
氷の音が小さく揺れるオレンジジュースのグラスを静かにテーブルへ戻した。
朝靄がまだ薄く残るビジネスホテルで身支度を整えた二人は
隣町の駅前で短く言葉を交わして別れた。
リベーロは一度自宅へ戻り、渡航準備を済ませて学校へ向かう。
そしてロゼリーもまた、整えられた足取りでヴェスティ家の邸宅へと向かった。
重厚な鉄製の門をくぐり、手入れの行き届いた前庭を通り抜ける。
鍵を差し込み、静けさに包まれたフロントドアを開けた瞬間
ロゼリーの肌を刺したのは、冷気ではなく重苦しい沈黙だった。
広大なエントランスホール。大理石の床が朝の光を鈍く反射している。
その中央、吹き抜けの階段の下に、母が立っていた。
一晩中、一歩もそこから動かなかったかのように。
母の身につけているドレスには僅かなシワが寄り、いつも隙なくセットされている髪は乱れていた。青ざめた顔、目元に刻まれた深いクマ。そしてその瞳には、これまでロゼリーが見たこともない激しい動揺と憤怒が狂気の火のように渦巻いていた。
「戻ったのね、ロゼリー」
低く、引き裂くような声がホールに響く。
「説明しなさい。昨夜、一体どこで何をしていたの。連絡も寄こさず、私の電話を勝手に切り……ヴェスティ家の娘が、外泊だなんて……! あなた、自分が何をしたのか分かっているの!?」
ロゼリーは立ち止まり、背筋をすっと伸ばした。
動揺の色ひとつ見せず、優雅とも言える洗練された立ち振る舞いで母に向き合う。
「申し訳ありません、お母様。ですが昨夜お伝えした通りこれは私自身の判断です」
「私の判断、ですって!?昨夜に続いてまだ言うのですか!」
母の声が叫びとなって高天井に跳ね返った。
伝統と品性を何よりも重んじるヴェスティ家の人間とは思えないほど、なりふり構わない感情の爆発。
「いい加減にしなさい! 誰に唆されたのか知らないけれど、あなたは今おかしくなっているわ! 病院に連れて行くから、それまで今すぐ自室に入りなさい。
それまで一切の外出を禁止します! 学校へ行くことも許しません。
相手の男の家にも、こちらから抗議の連絡を入れます! 相手の名前を教えなさい」
「……お母様」
ロゼリーは静かに母を見つめた。
「抗議の必要はありません」
「必要がないですって!? 一晩も帰ってこなかった娘を連れ出した男なのよ!
何をされたのかも分からないのに!」
「違います」
ロゼリーは、母の言葉を遮った。
「リベーロ・エキタス。彼が昨夜、一緒にいた相手です」
母の表情がさらに険しくなる。
「その男なのね」
「ええ」
「エキタス家ね、あなたは何も分かっていないのよ」
「いいえ。少なくとも、お母様が想像しているような人ではありません」
母は怒りを隠そうともせず、声を荒らげた。
「では、どんな人間だというの!?」
ロゼリーは一瞬だけ言葉を選んだ。
「彼は……問題児です。学校でも教師たちを困らせています。常識もありません。
品性もありません。お金もありません」
「だったら――!」
「ですが」
ロゼリーは母の言葉を静かに止めた。
「私に危害を加えるような人ではありません」
母は黙った。
「昨夜、私は彼と同じ部屋にいました」
その一言に、母の顔が再び強張る。
「ですが、何もありませんでした」
ロゼリーの声には、迷いがなかった。
「私が浴室に入る前、彼には近づかないよう警告しました。けれど彼は、私のことなどほとんど気にも留めず、ずっとスマートフォンで動画を見ていました」
「……」
「朝も同じです。食事をして、エジプトについて話をした。それだけです」
ロゼリーは母の目をまっすぐ見た。
「ですから、彼の家へ抗議する必要はありません」
「あなたは……そんなことまでして、その男を庇うの?」
「庇っているのではありません」
即答だった。
「事実をお伝えしているだけです」
母の怒りは収まらない。
「あなたがそんな男と一緒にいること自体が問題なのよ!」
「それは理解しています」
「なら、なぜ――」
「それでも、私は行きます」
静かな声だった。
しかし今度は、母が言葉を失った。
ロゼリーは制服の襟を整える。
「リベーロ・エキタスは、私が人生で出会った人間の中でも、最も理解しがたい人物です」
一拍置いて、続ける。
「ですが、彼は危険な人間ではありません」
そしてロゼリーは、母の怒りを真正面から受け止めるように告げた。
「ですから、お母様。彼を理由に私を止めることはできません」
「ふざけないでっ……!」
母の顔が屈辱と激怒で真っ赤に染まり、金切り声がエントランスホール全体を激しく揺らした。
「言い訳など聞きません! どんな理由があろうと、私はあなたを外に出すつもりはありません! もう一度言います。今すぐ自室に入りなさい!
今日の終業日も、 一切の外出を禁止します!!」
『外出禁止』。
それは、今夜23時の空港集合
そしてカイロ渡航を根底から打ち砕く決定的な命だった。
普通の少女であれば絶望に突き落され、泣き叫ぶか取り乱す場面。
しかし、ロゼリーの青い瞳はどこまでも冷たく、澄み渡っていた。
「いいえ。着替えてまいります。今日は終業日ですので、学校へ参ります」
「話を聞いていないのロゼリー!? 外出は禁止だと言ったはずよ!」
母の金切り声を背に受けながら、ロゼリーは一切足取りを乱すことなく
階段を上り始めた。一歩、一歩、踏みしめる足取りには何の迷いもない。
自室に入ると素早くドアを施錠し、重い室内履きを脱ぎ捨てた。
ふと、鏡に映る自分の姿が目に入る。
そこには、かつて母の思い通りに動き、期待される「完璧」を完璧に演じていた人形の姿はなかった。
一晩、粗末なホテルで過ごし、生々しい現実に接したことで、その皮膜は完全に破れ去っていた。鏡の中の少女は、自らの意志で禁忌の運命に足を踏み入れようとする、強い眼差しを宿していた。
制服の襟を整え、鞄を手にしたロゼリーは、躊躇うことなく鍵を開けて部屋を出た。
階段を下りると、ホールでは母が電話機を握りしめたまま、狂気を含んだ目で待ち構えていた。ロゼリーが制服姿で下りてくるのを見て、母の顔が恐怖と激怒で歪む。
「ロゼリー! 私を無視するつもり!? あなたを外に出すわけには——」
母が立ちふさがろうと足を踏み出した瞬間、ロゼリーはすっと足を止め
凛とした視線で母の目をまっすぐに見つめた。
その青い瞳に宿る圧倒的な気迫と、一切の妥協を許さない威厳。
娘から向けられたことのないその「圧力」に押され、母は思わず息を呑み
金縛りに遭ったかのように言葉を詰まらせた。
「お母様」
ロゼリーの声はとても静かで、しかし広いホール全体を支配するように通っていた。
「学校から戻りましたら、お話しいたします」
「な……」
「失礼いたします」
母が反論の言葉を組み立てる間さえ与えず、ロゼリーは美しく
完璧な角度で一礼した。
そして一度も振り返ることなく、重厚な扉を開け、朝の光が差し込む外の世界へと足を踏み出していった。背後で母が自分の名前を叫ぶ声が聞こえたが、それも重い扉が閉まる音とともに完全に遮断された。




