通話強制終了と無断外泊
母からの電話を、自分から一方的に切った。
それは、彼女にとって初めてのことだった。
通話が切れた瞬間、手の中のスマートフォンが急に重く感じられた。画面は暗い。
母の声はもう届かない。それでも耳の奥に、あの張りつめた響きだけが残っていた。
「ロゼリー、今のは母ちゃんでしょ?」
後ろからリベーロの声がした。
ロゼリーは振り返らなかった。ただ、ゆっくりと息を吐く。
「そうよ。私の意志を伝えようと必死で話したの」
スマートフォンを握りしめた指に、力がこもる。
「でも、伝わらなかった」
「母ちゃんに言っても伝わらないなんて。そんな事、俺しょっちゅうだよ」
リベーロは軽く肩をすくめたが、声のトーンはいつもより低かった。
からかう気配がない。
「帰れば、また説得が待ってるわ」
ロゼリーの言葉は静かだった。けれどその静けさの下に、疲れと、わずかな揺らぎが混じっている。
リベーロは少しの間、黙っていた。それから彼女を見た。
「じゃあ、ホテルに泊まろう」
「え? あなたと? 何を言い出すの。私は一人でもホテルに泊まれるわ。
それにあなたの様な下品な……」
「だから、単純に泊まる話じゃない。考えるんだ」
リベーロは真剣な顔をしていた。いつもの薄い笑みも、軽い身振りも消えている。
青い瞳をまっすぐに見据えたまま、言葉を続ける。
「エジプトで、俺たちは同じ部屋に泊まるんでしょう? まさかベンベン石の欠片を持って一人で寝室に居られないだろ。盗まれるかもしれないし、何かあったときに対応できなくなる」
「泊まるホテルは決まってる。オシリスホテルよ。でも——」
「現地で何かあったら予定通りになるとは限らないんだ」
ロゼリーは押し黙った。
「返却場所は現在も確実な手がかりはない。滞在時間は限られている。急に別の場所で泊まらなくてはならないことがあると思わない? 綺麗なホテルじゃなくなるかもしれない。シャワーもまともに出ない場所かもしれない」
「……」
「そのとき、俺たちは二人で対応しなきゃいけない。綺麗でもない、おしゃれでもない場所で寝泊まりする。荷物も分けて、交代で警戒するかもしれない」
リベーロは、いつものふざけた様子を一切見せなかった。
ただ事実を並べるように話している。
「だから今、やってみるんだ。まだ本番じゃない内に」
「何を?」
「俺たち二人が、現地で本当に協力できるのか。」
ロゼリーは、リベーロの言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが強く軋んだ。拒む理由が次々と浮かぶ。家の体面。母の期待。自分に課してきた「完璧」という枠。
それらが一度に押し寄せて、喉の奥を締め付ける。
「あなた、簡単に言うけれど。ここはまだエジプトじゃないわ」
その声は震えていない。しかし、どこか防衛的で、角が立っていた。
「それに私はヴェスティ家の娘よ。あなたのような下品な男と同じ部屋に泊まるなんて、そんな噂が立ったら、私は終わりだわ。学校でも、社交の場でも
私は“ああいう人間”として見られるようになる」
リベーロは黙って聞いている。遮らない。
ロゼリーは続けた。青い瞳は、怒りというより“必死の防御”で揺れていた。
「私は、完璧なイメージでいなければならないの。母も、家も、社会も、私にそれを求めてきた。小さな頃からそうだった。だから……この地で今あなたとホテルに泊まるなんて、そんな選択、できるはずがないでしょう」
スマートフォンを握る手が、わずかに震えた。彼女自身も、その震えに気づいている。
「さっき母の電話を切ったのは……私が初めて“完璧じゃない選択”をしたからよ。
あれは必要だった。でも、それでも私は自分の品位だけは守らなければならないの。それを手放したら、私は何を基準に立てばいいのか分からなくなる」
リベーロはゆっくりと息を吸った。
「ロゼリー……」
「言わないで」
ロゼリーは一歩だけ後ろに下がった。その動きは、令嬢としての“距離の取り方”そのものだった。近づかれることを拒むための、無意識の防衛線。
「あなたの言っていることが正しいのは分かっているわ。現地では、予定どおりにいかない。汚い場所で寝泊まりすることもある。二人で協力しなければならない場面もあるでしょう。頭では理解している」
青い瞳が、ほんの少しだけ揺れた。理解と拒否が同居している目だった。
「でも……私は“完璧なロゼリー”を捨てられないの。それを捨てたら、私は何者でもなくなるから。母の娘でも、ヴェスティ家の人間でも、生徒会長でもなくなる。
残るのは、ただの——中身のない私だけになる」
その言葉を聞き遂げたリベーロは、しばらく沈黙した。
それから、ゆっくりと話し始めた。声は低く、はっきりしていた。
「自分で言ってて気づかない? ベンベン石の欠片は物質としてあるよね。手に取れるし、重いし、落としたら割れるかもしれない。でも、ロゼリーの完璧なイメージは幻想だよね。他人の目と、自分の思い込みで出来ている」
ロゼリーは息を呑んだ。
「つまり、物質よりも幻想を優先するのか?」
リベーロは続けた。珍しく、核心を突いていた。
「ベンベン石の欠片は神の遺物なんだろ? アトゥムが関わっているものだろ?
それを返すことを優先してるんだよ。なのに、返すために必要な一歩を、自分の完璧さのせいで拒否するのか」
「…………」
「はっきり言うよ。返却が完了するまででいい。完璧なイメージなんて捨てるんだ」
ロゼリーは言葉を失った。反論の言葉が喉まで出かかるが、形にならない。
リベーロは最後に、静かに言い切った。
「それが、返却攻略の糸口なんだよ。」
カフェの外側を行き交う車の音が、遠くから聞こえていた。
ロゼリーはスマートフォンを握ったまま、何も言えずに立ち尽くしていた。
指先から力が抜け、僅かに震えていた肩が、静かに落ちる。
リベーロの言葉は、彼女がこれまで築き上げてきた「完璧」という概念の脆さを
容赦なく暴いてみせた。
神の遺物という圧倒的な現実を前に、己の体面や世間体という幻想に固執していたのは、他ならぬ自分自身だったのだ。
「あなたの言う通りよ。あなたが理論的に話すなんてね。」
ロゼリーは、静かに吐き出した。
その声には、先ほどまでの防衛的な棘は消えていた。
「理論的?ロゼリー、理論じゃわからない事はまだまだ沢山あるんだよ。
どうして俺みたいなのが、ヴェスティ家の令嬢とカフェで一緒に?」
両手を広げて、一度とても優しく彼女に微笑むと、すぐに真剣な眼差しをした。
「理論じゃない。運命なんだ」
その言葉にロゼリーは頷いた。
「事の重みを履き違えていたのは、私の方ね。
ベンベン石の返却という目的の前に、私の個人的なプライドなど何の価値もない……わかったわ。今夜は、あなたとホテルに滞在しましょう。」
青い瞳が、まっすぐにリベーロを見つめ直した。
そこにはいつもの冷徹なまでの理性が戻っていたが、その奥には不要な枷を一つ投げ捨てた者特有の、強固な覚悟が宿っていた。
「ただし、条件があるわ。行くのは隣町の目立たないビジネスホテルよ。
ヴェスティ家の人間や学校の関係者に見つかるリスクは最小限に抑える。
それと……」
ロゼリーはバッグを引き寄せると、毅然とした口調で付け加えた。
「部屋はツインルーム。当然、費用は全額私が持つわ。あなたに余計な貸しを作るつもりはないから」
「わかった。そこは任せるよ」
リベーロは短く答え、胸の内で安堵の息を吐いた。
二人はカフェをあとにし、隣町の幹線道路沿いにある落ち着いたビジネスホテルへと向かった。チェックインの際、ロゼリーは洗練された手つきで手配を済ませ、無駄のない動作でエレベーターへと乗り込む。
あてがわれた部屋は、清潔ではあるが極めてシンプルなツインルームだった。
中央のテーブルを挟んで、二つのシングルベッドが並んでいる。
ロゼリーは机の上で資料の端を、とん、と揃え直した。
母からの電話を一方的に切った。今頃、屋敷ではどんな騒ぎになっているだろうか。
ヴェスティの娘として、生まれて初めて、家に戻らないという選択をした。
その重みを、今この瞬間も、両肩に感じている。
「ねえ、ロゼリー。ルームサービスでカツカレー頼まない?」
なんにも気にしないリベーロはマイペースで
ベッドに身を投げ出し、画面をスワイプしてスマートフォンを開いた。
画面上のアプリ画面には、見慣れたアイコンの横に
「お知らせ通知のバッジ」が赤く灯っている。
指先でそれをタップすると、ライブ配信を知らせる通知がポップアップした。
リベーロは迷わず通知をタップしてアプリを立ち上げ
シークバーを巻き戻して頭からの再生ボタンを押した。
スマートフォンのスピーカーから、鈴を転がすような愛らしい声が溢れ出した。
『あははは、脱皮組のみんなぁ〜、待たせちゃったかな? 今日も来てくれて
すっごく嬉しいよ〜!こんばぬ~』
甘く楽しげに響く声は、ロゼリーにとっては耳障りな。
リベーロがハマっている新人Vtuberから発せられていたものだった。
ツインルームの静寂を破る突然の音に、机で静かに本を開いていたロゼリーがページをめくる手を止めた。
氷のように冷たい視線が、ベッドのリベーロへと向けられる。
「うるさいわね。楽しむのは自由だけど静かにして頂戴、読書の邪魔よ。」
「あ、悪い。配信、通知来てたから巻き戻して頭から観てたんだよ」
「イヤホンを付けて、これはマナーよ」
「いつも一人で観てるから気にしてなかったよ、イヤホンは持ってきてない」
「……はあ」
ロゼリーは深く溜息をつくと、開いていた本をテーブルに置き、無言で立ち上がって部屋を出ていった。
数分後。
戻ってきたロゼリーは小さなビニール袋から取り出したイヤホンを、リベーロへと差し出した。
「これ付けて」
「え、わざわざ買ってきてくれたの?」
「売店で買ってきたわよ。これ以上わたしの読書を邪魔するなら
そのスマートフォンを壊すわ。音はこれで聴きなさい」
「ありがとうロゼリー。気がつかなくて悪いね。俺、本は苦手で漫画しか読まないからさ、読書する人の事考えてなかったよ」
リベーロは苦笑しながらイヤホンを受け取り、耳に装着した。
ロゼリーは今度こそ満足したように本を持ち直し、再び自分の世界へと没頭していった。




