あまりにも違う2人
翌日。
リベーロは休み時間、自分の席に座ったまま、スマホでアラビア語を調べていた。
画面には、【カイロ旅行で使える!簡単アラビア語5選】と書かれたページが表示されている。
Shukran
Afwan
Assalamu Alaikum(こんにちは/さようなら)
La, Shukran(いいえ、結構です)
Bi kam da?(これは、いくらですか?)
「この五つでいいのか。よし」
リベーロが満足そうに頷いた、そのときだった。
まるで彼を嘲笑うかのように、ロゼリーがリベーロの席へ近づいてくる。
そして――
「مالِك؟ مِسكينة. هو انتِ مش عارفة تِتْكَلِّمي عَرَبي كمان?」
流暢なアラビア語が、リベーロの耳に届いた。
聞いたこともない言葉に、リベーロは目を丸くする。
そして、すぐに昨日のことを思い出した。
まだ怒っている。
そう直感したリベーロは、身構えながらロゼリーを見上げる。
「なんだ? 今の…」
そして恐る恐る尋ねる。
「さては呪いの呪文で、俺に復讐でもしに来たな?まだ根にもっていやがったか!」
「……は?」
ロゼリーは一瞬、言葉を失った。
「今のはアラビア語よ。『どうしたの? 哀れね。アラビア語も話せないの?』と言ったの」
「……そ、そんな気はしてたよ!俺、今アラビア語、ネットで見てたし」
リベーロはスマートフォンの画面を見せた。
「これを覚えればいいんでしょ?」
「旅行者が覚える最低限の定型句ね。悪くはないけれど、それだけでエジプトをどうにかできると思っているなら甘すぎるわ」
「じゃあ、ロゼリーはアラビア語しゃべれるの?」
ロゼリーは呆れたように息を吐いた。
「今、あなたに話したでしょう?」
「……すげえ」
「あなたが今さら感心することではないわ。私は幼い頃から旅行で世界各国に連れていかれたし、中学は留学もしているの」
「じゃあ……ロゼリー」
リベーロはスマートフォンを握りしめたまま、少しだけ身を乗り出した。
「頼む。一緒にエジプトに来てくれ」
ロゼリーの表情から、わずかな笑みが消えた。
「……無理、絶対に嫌よ」
「あなたのような男と二人で旅行なんて、ありえないわ」
リベーロはその言葉に、反論しなかった。
「ロゼリー。まあ、そうだよな。昨日のことは謝るよ。絶対にボディラインに興味あるとか、ないとか言わない」
ロゼリーの青い瞳が、わずかに揺れた。
「……あなたを叩き直す必要があることは事実だわ」
「担任の教師と同じこと言うなよ。褒めて伸びるタイプもいるんだ」
「あなたの場合、褒めたら調子に乗るでしょう」
「それは……否定できない」
ロゼリーは深いため息をついた。
「そもそも、なぜ私があなたと行かなければならないの? アラビア語なら通訳を雇えばいいでしょう」
「簡単に言うなよ。俺にそんな金あるように見えるか?」
「……」
「昨日ロゼリーは、あの石を見ただけで何なのか分かった。アトゥムのことも
知ってた。俺は、どこへ返しに行けばいいのかも何も分かってない」
リベーロはスマートフォンを握り直した。
「それに、あの石を持ってるのは俺だ」
ロゼリーの表情が変わる。
「……それは、そうね」
「だったら、俺一人で行くより、ロゼリーが一緒にいたほうがいいだろ?」
「あなた一人で行けば、空港に着く前に何かやらかしそうね」
「ひどいな。でも、たぶん正しい。調べたんだよ。国際空港からカイロまで、乗り継ぎで20~27時間」
リベーロは大袈裟な仕草で、同情を誘うように両手を広げた。
「ああ……どこかに慈悲深い女神様はいないものか! 直行便なら11時間で行けちゃうみたいだし、時間が空けば、その分。
返す場所の探索もできると思うんだけどなぁ……」
チラチラと横目でロゼリーの様子の変化を見た。
ロゼリーは腕を組み、しばらく黙り込んだ。
リベーロはその顔を見ながら、恐る恐る口を開く。
「ロゼリー……俺、昨日のことは正直、今もそんなに悪いと思ってない」
「……あなたね」
ロゼリーの眉がわずかに動く。
「ただ……エジプトに行くことは、アトゥムが言った『正しき道を選べ』っていうことなんだ。この石は、そこへ返せばいいんだろ?」
リベーロは一度言葉を止めた。
そして、初めてロゼリーの目をまっすぐ見た。
「今から言うことは正直に言う」
その表情から、いつものふざけた笑みが消えていた。
「ロゼリー。あなたの協力が、どう考えても必要だ」
そして、静かに続ける。
「……一緒に来てほしい」
彼がロゼリーに見せたのは、これまで一度も見せたことのない真剣な眼差しだった。
ロゼリーは、しばらく何も言わなかった。
先ほどまでの冷たい表情も消え、ただリベーロを静かに見つめている。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「あなたが私に何を頼んでいるのか、本当に分かっているの?」
ロゼリーはゆっくりと立ち上がった。
「私はヴェスティ家の娘よ。あなたとは育った環境も、生活も
価値観も何もかも違う。
そんな私が、カイロ直行便の往復航空券を自分で購入して、
現地での数日間、宿泊費も自分で負担して、通訳や現地案内までする。
まるでリベーロのお手伝いさんよ」
一度言葉を切る。
「リベーロと私がまともに会話したの、昨日が初めてよ」
その言葉には、わずかな重みがあった。
「まず、両親が許すと思う?」
「……難しいと思う」
「難しいどころではないわ」
ロゼリーは目を伏せる。
「きっと反対される。特に母は……絶対に納得しないでしょうね」
それでも彼女は、リベーロから目を逸らさなかった。
「それでも――」
ロゼリーの声は静かだった。
「あなたの言う通り、正しき道創世を選ぶ。だから行くわ。」
リベーロの表情が明るくなる。
「本当か!?」
「ただし、勘違いしないで。」
ロゼリーはいつもの鋭い目つきに戻った。
「あなたに同情したからではない、ベンベン石を正しく返すためよ。」
ロゼリーは人差し指を立てる。
「それと、条件があるわ。」
その声には、これまで以上の威厳があった。
「あなたはすぐにふざける。
だから今回は、曖昧な約束では済ませない。
確実な返却のため、これから言うことをすべて守りなさい。」
ロゼリーは一つずつ、念を押すように告げる。
「1つ、出発の日まで、ベンベン石の欠片を必要以上に持ち歩かないこと。
学校にも遊びにも、決して持ち出さない。
あなたの部屋で厳重に保管し、誰にも見られないようにすること。」
「分かった。」
「1つ、ベンベン石について、誰にも口外しないこと。
友人にも、教師にも、家族にも、絶対に話さない。
石を見せることも禁止よ。」
「分かった。」
「1つ、学校では、私に気安く近づかないこと。
必要がある場合は、私から声をかけるまで待ちなさい。」
「え、でも――」
「反論は後。まだ終わっていないわ。」
ロゼリーは鋭い視線を向ける。
「1つ、この旅では、ベンベン石を返すことを最優先とすること。
寄り道、遊び、無駄な行動は禁止。
常に最も効率のいい方法を選びなさい。」
リベーロは少しだけ姿勢を正した。
ロゼリーは一拍置く。
「1つ、返却場所の候補、そこへ至るために必要な情報は私が調べる。
あなたは自分の役割を果たしなさい。」
「俺の役割?」
「パスポートの準備。
必要な渡航手続きの確認。
砂漠や遺跡で行動できる服装と装備を用意すること。」
ロゼリーはリベーロをじっと見つめる。
「あなたがそれを怠った時、破滅を意味するわ。」
「えっ!?」
「当然でしょう。 石の破棄は破滅。
太陽神アトゥムは破滅の神でもあると教えたはず。」
ロゼリーは腕を組む。
「私はあなたのお守りをするためにエジプトへ行くのではない。
神の遺物を正しく返し、《創世》のために行くのよ。」
そして最後に、冷たく言い渡す。
「リベーロ・エキタス。この条件、できる?」
「……できる。」
「言葉だけでは信用しないわ。」
ロゼリーは静かに目を細める。
「一度でも破ったら、その時点であなたは破滅を選んだことになる。
いいわね?」
「……分かった。」
「なら、誓いなさい。」
リベーロは息を呑んだ。
ロゼリーは、その返事を待つように黙って彼を見つめていた。
「もちろん誓うよ」
リベーロは真剣な顔で頷いた。
「石を返すまで引き返せないってことは、俺でも分かってる」
そして、少し考えたあと付け加える。
「ただ、Vtuberのライブ配信だけは楽しむよ。趣味なんだ」
「……」
ロゼリーの眉がぴくりと動いた。
「あなた、本当に懲りないのね」
「俺が何を楽しもうと自由だろ?」
「……もういいわ」
ロゼリーは諦めたように息を吐いた。
「誓約は守りなさい。それさえ守るなら、あなたが何を見て楽しもうと私には関係ないわ」
「よし!」
「喜ぶところではないでしょう」
その後、二人はベンベン石返却に向けた話し合いの場として、念のため隣町のレストランへ移動することにした。
ただし、二人で一緒に店へ向かうことはしなかった。
リベーロが先に入店し、その三十分後にロゼリーが店へ入った。
同じテーブルについた二人は、それぞれディナーを注文する。
リベーロが注文したのは、中華満腹餃子セット。
しばらくすると、餃子、ご飯、スープがまとめてテーブルに運ばれてきた。
「焼きたて餃子うめー!」
リベーロは嬉しそうに餃子を頬張る。
その一方で、ロゼリーのテーブルには、順番に出されていった。
最初に運ばれてきたのは、
ハニークリスプ・アップルとゴートチーズのサラダ。
シャキシャキとしたリンゴの甘みと、濃厚な山羊のチーズ、くるみを合わせたオーガニックサラダ。
ロゼリーはナイフとフォークを手に取り、静かに食べ始める。
彼女がサラダを食べ終える頃、ウェイターが次の料理を運んできた。
冷製メロンとクローバーハニーの冷製スープ。
ロゼリーはスプーンを手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。
その正面でリベーロは、餃子を1個お皿に乗せるとロゼリーに差し出した。
「一個食べてみる?美味いよ、餃子っていう料理なんだよ」
ロゼリーは一瞬だけ彼を見て、再びスープへ視線を戻した。
だが、目の前に差し出された餃子には気づいている。
「……ねえ。これは、何をしてるの?」
「だから、美味しいから。食べてみなよ」
ロゼリーは餃子を見る。
リベーロがまるでペンを貸すように差し出してきた食べ物。
「……あなた、それを私に?」
「ああそうだよ、言っとくけど、ここの餃子最高だよ?」
リベーロはそれが当然のように話した。
しかしロゼリーは戸惑った。
ヴェスティ家では、自分の食事を誰かに分け与えることなど、ほとんど意識したことがなかった。
「美味しいから、あなたにもどうぞ」
という理由で、自分の皿から料理を差し出す人は見た事がない。
リベーロにとっては、それが何か特別な行為だという意識すらない。
ただ、美味しい。
あなたにもどうぞ。
それだけだった。
ロゼリーの口元が、ほんの少し緩んだ。
「……ふふっ」
ロゼリー自身も、自分が笑ったことに気づいて驚いていた。
「なんで私があなたの食べ物を」
そう言いながらも、ロゼリーの口元には小さな笑みが残っていた。
そして彼女は、差し出された餃子を見つめる。
「……ひとつだけ、いただくわ」
初めてだった。
ロゼリー・ヴェスティが、誰かと何かを分け合うことを
素直に受け入れた瞬間だった―。
太陽神アトゥムは2人を見ていた。
かつて、宇宙にまだアトゥムしか存在しなかった。
そこから自らを分けるように、咳でシューとテフヌトを生み出した。
一つのものを分け与え、生命を他者へ渡す。
その教えは、ロゼリーは既に知識として得ていた。
だが今、その教えを知らないリベーロは――
何の計算もなく、アトゥムが見守る前で実践していた。




