マアトの羽根と黒いジャッカル
「ロゼリー、俺が夢で言われた。地下水を貰う…これ、どんな意味だと思う?」
オシレイオンの壮大な地下水を眺めながら、リベーロは呟くように尋ねた。
「アザーンで流れた、VTuberに言われた変な夢の話し?欠片と同じく地下水をキーワードにしてるのは、今となって偶然の一致にしてはおかしいと思う。そのVTuberは、アルバ・スーバーヌなの?」
「そうだよ。あれからYouTubeで見れなくなって、そしたら夢で声だけ聞いたんだ。アザーンでね。自分の好きな配信者だからさ、逢いたいって気持ちが夢になって現れたと思ったけど、でも妙に言葉だけが忘れられずに覚えているんだ」
リベーロは、ロゼリーに向き直って伝えた。
「その言葉は2つなんだ」
【夜の7時間目は、夜の船を止める大事な時間】
【地下水を貰う時に一緒に貰うから、その時間砂漠に置く】
「夜19時に船を止める時間だって言われても、ナイル川でナマズ漁をする漁船を止めれないし。地下水を貰う時に一緒に貰うから砂漠に置いといてって話も、どこの砂漠かわからない…」
「待って、夜の7時間目?そう言ったのね。それは確実に破滅の大蛇よ!あなたが古代エジプトの冥界思想における時間を知るはずないもの」
「リベーロ、あなたが聞いた『夜の船を止める大事な時間』という言葉はとても不吉な言葉よ」
ロゼリーは、地下水を湛えたオシレイオンの石造空間を見つめた。
「ラーは冥界を航行する途中、太陽船から夜の船メセクト号に乗り換える。そして夜を12等分し、その第7時。破滅の大蛇アペプが地下水を飲み干し、ラーの航行を妨げようとする。そこで激しい戦いが起きるのよ」
彼女は、リベーロへ視線を向けた。
「つまり、あなたが聞いた『夜の7時間目は、夜の船を止める大事な時間』という言葉は、単に時刻を告げているのではない。アペプがラーの航行を止めようとする、冥界の重要な局面を指しているのよ。そして地下水を飲み干し砂漠を干上がらせている」
ロゼリーは、もう1つの言葉を確かめるように口にした。
「『地下水を貰う時に一緒に貰うから、その時間砂漠に置く』つまり、地下水をいただく時に、同時にベンベン石の欠片を丸飲みするって言ってるのよ!」
「ここは危ない気がする。一旦外へ出よう」
背筋が凍りつくような感覚に、堪らずリベーロはロゼリーの手を引いて外へ出た。
「でも、まだ朝だ。夜じゃない。大丈夫だよ、ちょっと待ってて。かあちゃんに電話したい」
「ええ。場所はここだとしても、どうすればいいのか。私は地下水に安全に近づける方法を考えるわ」
電話をかけるとすぐに母親が出た。
「もしもし…かあちゃん?」
「リベーロ!あんた全く、一度も連絡よこさないで!」
「色々大変だったんだよ。でも、もうすぐ終わるから。それで声が聞きたくて電話したよ」
「そうかい?早く終わらせて、無事に帰っておいで!ヴェスティ家のご令嬢には、うちでご馳走作って待ってると伝えて!」
「かあちゃんのご馳走が合うか分からないよ。あははは!!伝えておくよ、それじゃ必ず成し遂げて帰るからね」
「待ってるよ。とうちゃんのお墓にも、あんた達を助けてってお願いしておく」
「ロゼリー、お待たせ。うちのかあちゃんが、ご馳走作って待ってるって」
母親の声を聞き、落ち着いたリベーロは笑顔で話した。
「お母様に、そこまで気にかけていただいて。リベーロ、帰国したら、ぜひご挨拶に伺わせてね」
「もちろんだよ。そして、その後高校も卒業になる。俺は就職するよ。だから気持ちを伝えないとだね。
ロゼリー、俺はあなたを大切に思っている」
リベーロの優しい微笑みが消え、真剣な眼差しへと変わった。彼はロゼリーの青い瞳をまっすぐに見つめ、胸の奥に秘めていた想いを言葉にする。
「俺はロゼリーの事が好きです。これで返却が終わって学校を卒業しても、ずっと一緒にいて下さい」
ロゼリーは、思いがけない言葉に目を見開いた。
「え。リベーロ」
名前を呼ぶ声が、かすかに震えた。
これまで幾多の困難を共に乗り越えてきた。そして、北米の空港から24時間ずっと一緒にいる。
そんな彼から向けられた真っ直ぐな想いに、ロゼリーはすぐに言葉を返せなかった。
やがて、彼女の青い瞳が優しく細められた。
「私も、あなたが好きよ。リベーロ」
ロゼリーは彼の手を取り、両手でそっと包み込んだ。
「初めは、あなたと一緒に旅をすることになるなんて思ってもいなかったわ。今だって卒業後は大学院に進学する予定でいる。それなのに、協力しているうちにあなたが隣にいることが当たり前になっていた。この無謀な旅は誰にも相談出来ないもので、それでも一緒に立ち向かう中で、あなたの強さ、優しさ、そして弱さを、私が誰よりも知ってるつもりよ」
彼女は一度言葉を切り、彼の手を握り直した。
「あなたと今日まで過ごした時間は、とても言葉じゃ表せない私にとってかけがえのないものよ。
だから……欠片を返したら、そこでお別れなんて出来ない」
ロゼリーの声には、もう迷いがなかった。
「約束するわ。旅が終わっても、私はあなたのそばにいる。これから先、どんなことがあっても、あなたと一緒に歩いていきたい」
彼女はリベーロの目を見つめ、微笑んだ。
「だから、これからも私のそばにいてね、ご馳走も楽しみにしてるわ。リベーロ」
その言葉を伝え終えると、ロゼリーは彼の手を離さなかった。
「わかった。うちのかあちゃんのグリルチキン最高に美味しいから、楽しみにしてて」
2人は安全の為、周辺の排水路そばへ向かった。
「地下水ならこことも繋がってるはずだよ」
リベーロがそう言いかけたときだった。朝のはずの空が、急速に色を失い始めていた。
西の地平線から黒い雲がせり上がり、太陽を飲み込むように覆っていく。7月のエジプトではあり得ない。強いはずの日差しが急速に弱まり、遺跡一帯が不自然な薄闇に沈んでいく。
「おかしいわ。この季節に、こんな雲が」
ロゼリーが空を見上げた瞬間、遠くから低い音が響いてきた。アザーンだった。
朝の礼拝を告げるはずの荘厳な声が、湿った空気を伝って響く。
だが——その声は、あの新人VTuberの声だった。
「脱皮組のみなさーん、おはばぬ~。せーのっ!お日様なんて、滅んじゃえ~!
新人VTuber、あるば・すーばーぬでーす」
甘く、明るい声。しかし、空気が一瞬で凍りついた。
「ロゼリー!後ろにいて!」
リベーロは咄嗟に彼女の手を掴み、前方に立ち、空に向かって叫んだ。
「もうわかったよ!お前は可愛いVTuberなんかじゃない!破滅を望むアペプだ!」
背中で、リュックの中のベンベン石の欠片が激しく反応した。
「移動する!こっちだ!」
リベーロはロゼリーの手を引いて走り出した。反応が示す方向へ。横に小さな洞穴が見えた瞬間、二人は迷いなくその中へ飛び込んだ。狭く、息が詰まるような空間。無機質な岩肌に、自分たちの荒い呼吸だけが反響する。真横を、地下水が音もなく流れている。
「こんな場所は……ありえないわ」
「アペプが来る前に返却する!でも……どうすれば」
2人は地下水を覗き込んだ、その時だった。深い底から、何かがゆっくりとせり上がってくる。
『ズゴゴゴゴォ!!』
けたたましい音とともに現れた巨石。見たことのある模様。欠けた形。
「ベンベン石だ……!これが本体か!」
「そうよ!ウジャトの目、カルトゥーシュの枠、基壇の傾斜角……欠けた部分がある。あそこへ返すのよ!」
その瞬間、暗闇から声が落ちてきた。
「待って。今からでもいい、その欠片は砂漠に置くのだ~!脱皮組なのにそんな女の話を信じるの?」
可愛いはずの声が、徐々に湿った、低い口調へ変わっていく。
「そいつは嘘を話してるぞ。さあ、砂漠へ戻れ!」
「黙りなさい!アペプ!あなたの望む破滅はさせないわ。私たちは創世を選ぶ!」
「愚か者め。黙るのはお前の方だ!」
闇の奥で、何かが目を開いた。赤く光る二つの点が、ロゼリーを捉える。
「ロゼリー……!!」
リベーロが振り返ると、彼女はその場に立ち尽くしていた。
赤い眼光を見つめたまま、指先ひとつ動かせない。逃げようとしても、声を上げようとしても、身体がまるで石になったかのように動かなかった。
「リベーロ…返却を!」
かろうじて絞り出した声が震える。
彼女は必死にベンベン石本体の方へ指を伸ばそうとした。しかし、指一本さえ動かせない。
赤い眼光が、さらに強く輝いた。
「女神の羽根より、心臓を重くしてやろうか?」
何かをロゼリーにしようと示唆するアペプに、リベーロが大声をあげた。
「この蛇野郎!!」
リベーロはリュックからベンベン石の欠片を取り出し、振りかざして本体へ返却しようと踏み込んだ。
その動きに、アペプの眼光が一瞬逸れた。ロゼリーを縛っていた力が解け、彼女は膝をつく。だが同時に、アペプの声が闇を震わせた。
「貴様……覚悟はいいな?」
次の瞬間、リベーロの胸を何かが激しく締め上げた。途轍もない圧迫感。心臓が鉄の塊のように重くなり、鼓動が乱れる。息が詰まり、膝が崩れた。
「ぐっ……あ……!」
ロゼリーが駆け寄ろうとする。
「心臓が重くされると……アメミトが現れて……!来るな!アメミトよ、立ち去りなさい!!」
暗闇に向かって、彼女は叫んだが。その奥から、何かが這い寄る音がする。
ズ……ズズ……。
ロゼリーは立ち塞がり、大声で叫んだ。
「来るな!アメミト!」
その声は、祈りにも似ていた。
巨大な影が、暗闇の中にゆっくりと形を成していく。
ワニの頭部にライオンの前肢、カバの後躯を持つ異形。
アメミトだ——
「近寄らないで!来ないで!!」
大粒の涙を流しロゼリーがさらに前に出ようとするが、異形は構わずリベーロへと近づく。
床に膝をついたまま、胸を押さえて苦しむリベーロにアメミトは大口を開け、その心臓を——。
『グシャッ』
鈍い音が洞穴に響いた。リベーロの体が痙攣し、力なく前に倒れ込む。
巨大な影が、リベーロの身体を覆い隠した。
アメミトが顔を上げる。ロゼリーの叫びも届かない。やがて異形は、役目を終えたかのようにゆっくりと暗闇へ退いていった。
「リベーロ?」
返事はない。
ロゼリーは震える足で、一歩踏み出そうとした。
その瞬間、黒いジャッカルがリベーロの亡骸へと飛びかかった。
「やめて……お願い、やめて!!」
声が洞穴に響く。しかし、黒い獣は止まらない。ロゼリーの目の前で、リベーロの姿が闇に呑まれていく。
「いや……いやああっ……!」
彼女は必死に手を伸ばした。
ロゼリーの頬を、大粒の涙が伝った。
「リベーロ……お願い……返事をして……」
声が震え、最後はかすれて消えた。
どれほど手を伸ばしても、もう彼には届かない。
青い瞳から次々と涙がこぼれ落ちる。彼と交わした約束も、帰国したら一緒に過ごす未来も、まだ何ひとつ叶えていない。
「いや……こんなの……嘘よ……」
ロゼリーは唇を震わせ、涙に濡れた顔を上げた。
「リベーロ!!」




