ついに現れた神秘
「アビドス遺跡群……オシレイオンよ。
滞在期間残り2日、明日早朝に出てギリギリね」
ロゼリーの言葉に、リベーロは腕を組んで考え込んだ。
「450km以上かぁ。車で向かったら時間が相当かかるよね?」
「ええ。モハメド・ナギーブ駅から列車で向かう方法もあるから、夜行列車の出発時刻と空席を確認するわ」
ロゼリーはスマートフォンを手に取り、夜行列車の空席を確認し、すぐに2人分の予約を済ませた。
「夜行列車の予約は取れたわ。急いでモハメド・ナギーブ駅へ向かいましょう」
「良かった、予約ありがとう。今夜のうちに移動できれば、明日の朝には先へ進めるね」
2人は必要な荷物をまとめ、オシレイオンへ向かうため、ホテルを出る準備を始めた。
「リベーロ、私たちの目的の駅はソハーグになるわ。その為にラムセス駅からの夜行列車に乗り換えるからね」
「初めて聞く名前の駅だ。はぐれないよう気をつけるね」
しばらくしてホテルを出るとタクシーを拾い、駅へと向かった。
モハメド・ナギーブ駅に着いて改札を抜け、2人は地下鉄のプラットフォームへと急いだ。
ホームに滑り込んできた電車に乗り、ふと乗客へ目をやると、座席の前に立つ男性とその足元に座る女の子2人の3人兄弟がいた。
疲れ果てた様子で、幼いほうの妹は隣の姉の肩にコテンと頭をもたせ、穏やかな寝息を立てている。
姉は妹を起こさないよう、そっと身じろぎを抑えて座っていた。
その座席の前に、兄と思しき男性が一人ポツンと立っていた。
背中には黒い楽器を入れるギグバッグを担いでいたが、上部のジッパーから
もふもふとしたピンクのうさぎのヘッドカバーが少し飛び出ていた。
「随分可愛らしいヘッドカバーだわ」
「え?どこ。ほんとだ、ああいうのもあるんだね」
リュックの中のベンベン石の欠片が少し揺れた気がしたが、ガタンゴトンと古びた車体の揺れにかき消された。
幾つかの駅を挟んで北上し、列車はカイロ最大の鉄道ターミナルであるラムセス駅へと到着した。
構内へと続く巨大なエントランスの周囲には、無数の乗客や荷物運びのポーター、客引きの声が交錯し、昼間の静けさが嘘のような熱気が渦巻いている。構内に入れば、頭上の巨大な電光掲示板にアラビア語と英語で次々と発着情報が明滅し、市場のように人々がせわしなく行き交っていた。
「すごい人だね、ここから夜行列車に乗るんでしょ?」
リベーロが行き交う人々を避けながら尋ねると、ロゼリーは足を止めずに答えた。
「ええ。ここからソハーグまで、夜通し南下するわ。車内ではスリや荷物の管理に十分気をつけて。油断しないでね」
2人は頭上の電光掲示板を確認しながら、予約した列車の発着番線を探した。
大きな荷物を引く旅行者や、家族連れ、乗車を急ぐ人々が行き交い、構内は騒がしかった。
やがてロゼリーが目的の列車を見つけ声をあげた。
「これよ。乗車券をすぐ出せるようにしておいて」
「分かった」
2人は乗車券を手元に用意し、案内表示に従ってホームへ向かった。ホームにはすでに乗客が集まり、南へ向かう夜行列車が出発を待っていた。
乗車口に立つ車掌にチケットを見せ、2人は狭い通路を抜けて寝台車の個室へと足を踏み入れた。
ガチャリ、と重いドアが閉まり、外の喧騒がふっと遠ざかる。
狭い個室の中には、上下2段の簡素なベッドと、小さな洗面台、そしてわずかな荷物を置くスペースがあるだけだった。冷房が微かにうなりをあげて、乾燥した冷気を送風口から吐き出している。
「狭いけれど、一晩ここで過ごすことになるわ」
「ね?こういう事あるでしょ?あの時経験した事がここで生きた。
やって良かったね」
「本当に、信じられないわね」
静かな声には、自嘲の色よりも、奇妙な納得感が混じっていた。
「私が、こんな夜行列車であなたと雑に夜を明かすなんて。
ひと月前までの私なら、発狂しているかその場で引き返しているでしょうね」
彼女は自身の小さなバックパックをベッドの端に寄せ、わずかな隙間に腰を下ろした。
「泊まるぐらい。その場になれば出来るだろうって思っても、いざこうして直面すると、何も知らずに突然やるより全然気持ちが違うわ…だってもうビジネスホテルで泊まった経験があるんですもの」
言いづらそうに視線を少しだけ逸らし、ロゼリーは小さく付け加えた。
「しかもビジネスホテルの方がまだ良かったわ。現実は厳しいのね。感謝しているわよ。リベーロ」
予期せぬロゼリーからの素直な言葉に、リベーロは少し気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ははは。たまには役に立つでしょ?でも、お互い様だよ。一人だったら俺ここまで来れないよ」
夜行列車に揺れながら、サッカラ遺跡での拘束や長時間の移動による疲労が、徐々に2人の身体に重くのしかかってきた。
「そろそろ、少し休んだほうがよさそうね。明日も朝から移動が控えているんだし。寝ましょう」
ロゼリーは小さな溜息をつきながら、上下2段のベッドを見上げた。格式高い日常では決して味わうことのない簡素な寝台を前にして、さすがに気力も限界に達している様子だった。
「そうだね、こうして寝るとビジネスクラスのシートは最高だったってよくわかる」
リベーロがそう言って下段のベッドに腰を下ろし、背中を預けると、ガタンゴトンと規則正しく響く列車の走行音が子守歌のように車内を包み込んでいく。
ロゼリーは上段のベッドへと静かに身を横たえ、毛布を引き寄せた。
窓の外に広がるエジプトの暗い夜の向こうには、目的地であるアビドス、そしてオシレイオンが待っている。リュックの中に大切にしまわれたベンベン石の欠片の重みを感じながら、2人はやがて静かな寝息を立て始めた。
長旅の疲れと緊張に満ちた夜行列車の中で、束の間の眠りが2人を包み込んでいった。
早朝6時前、ソハーグ駅に列車が到着した。ホームに降り立つと、すでに街は薄い朝の光に包まれ始めていた。乾いた空気の中に、遠くから聞こえる車のエンジン音と、駅前の喧騒が混じっている。
「ここかぁ。遠かった」
リベーロが肩の荷物を直しながら呟く。昨夜寝台列車のベッドは硬く、体の所どころが痛かった。
「まずは朝食にしましょう。このままオシレイオンに向かうのは無理があるわ」
ロゼリーはスマートフォンで近くの店を確認し、駅から徒歩で数分の場所を指差した。古い建物の一角に、すでに明かりが灯っている小さな食堂がある。地元の人たちが朝食用に集まっている様子だった。店内に入ると、香ばしいそら豆の匂いが濃厚に漂ってきた。カウンターには大きな鍋が据えられ、店員が手際よくフール(そら豆のペースト)をパンに挟んでいる。
「リベーロ、朝食にサンドイッチを買うんだけど、サクサクの『緑のコロッケ』が挟まったタイプか。
とろとろの『お粥みたいな豆の煮込み』が挟まったタイプ、どっちがいい?」
「へえ、煮込みのサンドイッチか。お粥みたいな豆のタイプ食べてみたい」
「では、注文しておくわ」
「عايزة سندوتشين فول، والمشروب عصير ليمون ساقع لو سمحت.」
(フール・サンドイッチを2つ。飲み物は冷たいレモネードお願いします)
夏の朝にしてはすでに空気が暖かく、冷たい飲み物が欲しくなる気温だった。席に着くと、すぐに温かいサンドイッチと、氷の入ったグラスが運ばれてきた。平たいパンに、とろりとしたフールがぎっしり詰まっている。クミンとニンニクの香りが強く立ち上った。リベーロは一口かじり、感激した。
「うまいね!全然辛くない。フムスだっけ?あれより豆の感じもあっていいね」
「ええ。フムスは滑らかなペーストだけど、フールは粗く潰した状態で、これも美味しいわね」
ロゼリーもサンドイッチを口にし、冷たいレモネードをすすった。グラスの外側に結露がついている。外はすでに夏の気配が濃く、日が昇るにつれて気温が上がっていくのが分かった。
「オシレイオンってどんな所なの?結構歩く?」
「オシレイオンは、セティ1世神殿のすぐ後ろにある地下構造よ。中央に石の島があって、その周りを水路が取り囲んでいるの。地下水が常に溜まっている場所よ」
ロゼリーはレモネードのグラスを置き、落ち着いた口調で続けた。
「見学通路を少し歩くことになるけれど、サッカラのピラミッド内部を回ったときほど長くはないわ。
ただ、下まで降りられるとは限らない。通常は上から見下ろす形になることが多いの。それでも、水との結びつきははっきりしているわ」
「上から見下ろす感じなんだ。まあ、行ってみよう」
食事を終えると、ロゼリーがナプキンで指先を拭い、立ち上がった。
「行きましょう。オシレイオンよ」
ソハーグの食堂をあとにした2人は、アビドス遺跡群へと向かった。車をしばらく走らせ、砂漠の輪郭が朝の光の中にくっきりと浮かび上がる頃、目の前にセティ1世葬祭殿の巨大な石灰岩の壁が現れた。
その神殿のさらに奥、砂に囲まれた一角に、古代エジプトの宇宙観を凝縮した異界への入り口が静まり返っている。
神殿の喧騒を離れ、石段を降りていくにつれて、外界の乾いた熱気と喧噪が嘘のように消えていった。肌を撫でる空気がひんやりと冷たく変わり、重く湿った地下水と古びた石の匂いが鼻腔をかすめる。
しかし、オシレイオンの核心部へと至る通路の目前で、2人の足が止まった。
巨石で組まれた地下水路のエリアは頑丈な柵で区切られており、一般の観光客が立ち入ることは固く禁じられている。本来であれば、大半の観光客はセティ1世葬祭殿の裏手から、遥か下方に広がるその空間を上から見下ろすことしかできない場所だった。
「通常の見学ルートからは下まで降りる事は出来ないわ、事前に特別許可がいるのよ」
ロゼリーが告げたその言葉の通り、一般の観光客が立ち入ることの許されない頑丈な柵の向こうには、セティ1世葬祭殿のさらに背後、太古の地層に抱かれたオシレイオンの核心部が静まり返っていた。
上から見下ろすだけのその空間は、人工的な喧騒から完全に切り離され、花崗岩の巨石と湛えられた地下水が、まるで外界とは異なる時間の流れを創り出している。水面は鏡のように頭上の石組みを映し出し、遥か古代の宇宙観をそのまま現代に閉じ込めたかのような、圧倒的な静謐と神秘をたたえていた。
冷やりとした地下の空気が2人の肌を撫でる。
言葉なく柵の向こうの光景を見つめるリベーロの背中で、リュックに納められたベンベン石の欠片は間違いなく強い反応を示していた。
「俺の目でもわかるよ…ここは特別な場所でしょ」
「ええ……セティ1世の治世のものにしては、あまりにも異質な建築様式よ。まるで、もっと古い時代の未知の技術がそのまま眠っているかのようにね」




