地下水を貰う
夜明け前の深く静まり返った暗闇を切り裂くように、街のスピーカーから重低音のアザーンが響き渡った。
エジプトの朝を告げるその独特で荘厳な祈りの声は、ホテルの薄いガラス窓を静かに振動させ、部屋の隅々まで行き渡る。
「んんぐ…」
ベッドの中でうっすらと意識を浮上させたリベーロは、寝返りを打ちながら顔を顰めた。瞼を開けることすら拒否するように、足元にあった薄い布団を両手で手繰り寄せると、そのまま頭からすっぽりと被り直す。
外部の音を物理的に遮断し、再び心地よい暗闇の中へと意識を沈めていった。
午前6時30分。
アラームが鳴るよりわずかに早く、リベーロはベッドから起き上がった。
すでに日が昇っていて、布団を押し退けると、窓の外はすっかり明るく、すでにじんわりと部屋の空気が温まり始めていた。これから日中に向かって容赦のない猛暑になることを予感させる朝の光だ。
リベーロはすぐさまエアコンの風量を確認し、洗面所で冷水を顔に叩きつけると。
昨日の経験から、熱中症対策を万全にしながら身支度を整えた。日焼け止めの塗布、
十分な水分の準備、塩分タブレットの確認、そして日よけの帽子。
すでに準備を終えていたロゼリーと視線を交わした。
「おはよう。ロゼリー、変な夢みたよ。アザーンでVTuberが放送したんだ。」
笑いながらリベーロは話した。
「言語もわからない海外で色んな遺跡を回って、大量の情報が一気になだれ込んだんですもの。おかしな夢見るのも無理ないわ。今日こそ終わりになるといいわね」
「そうだね。頭おかしくなりそう、さあ、行こう。サッカラ遺跡だ」
7時30分。
手配したチャーター車でオシリスホテルを出発し、カイロ郊外の緑豊かなナイル川沿いを南下した。車窓の外には、広大なヤシの木が幾重にも立ち並ぶ農業地帯が広がっている。
8時20分頃、サッカラ遺跡へと続く観光道路沿いにある、屋外のオープンエアレストランに到着した。
車を降りた瞬間、肌を突いたのは午前8時台にしてすでに30度を超えている重い熱気だった。だが、ギザのようなカラカラに乾いた大砂漠の空気とは少し違う。周囲に広がるデーツヤシの農園や泥混じりの用水路が吐き出す、青々とした湿気がほのかに混ざり合っていた。
直射日光が当たる場所は早くも刺すような暑さだったが、案内されたテーブルは、干した葦をトタン屋根の上に無造作に敷き詰めただけの、泥臭く素朴な「濃い日陰」の中にあった。日陰に入った途端、通り抜ける風が心地よく感じられる。
案内された席に腰を下ろすと、陽気な笑みを浮かべた現地の店員がメニューを手にやってきた。
「タアメイヤは昨日オベリスク公園で食べたから、別の食べてみようよ」
ロゼリーがメニューの記載に目を走らせながら頷いて、店員を呼びオーダーした。
「そうね。ではフィティールとシャクシューカ、そしてギブナ・ベイダ・ビル・トマティムを下さい、飲み物は2人ともリモナード・ビル・ナアナアで」
店員は威勢よく頷くと、奥へと去っていった。
間もなくして、まずは冷たいドリンク、搾りたてのレモンミントジュース
(リモナード・ビル・ナアナア)が運ばれてきた。
氷が浮かぶグラスの中で、新鮮な生のミント葉が添えられ爽快な緑色をなしている。
グラスに口をつけると、キュッと酸っぱいレモンの清涼感とミントの香りが、身体にこもった熱気を一気に吹き飛ばしてくれた。向かいに座るロゼリーも冷たいグラスを手にとり、一口飲んでほっと吐息をついた。
喉を潤しながら待っていると、厨房から香ばしい匂いが漂い始め、メインの料理がテーブルへ運ばれてきた。
何層もの薄い生地にたっぷりのバターを重ねてサクサクに焼き上げた重厚なパイ「フィティール」と、クミンなどのスパイスを加えたトマトソースで玉ねぎやピーマンをじっくり煮込み、中央に落とした卵を絶妙な半熟状に仕上げたスキレット料理「シャクシューカ」。
そして付け合わせとして出されたのが、「ギブナ・ベイダ・ビル・トマティム」――塩気の効いた素朴な白いチーズに、角切りにしたフレッシュなトマトとキュウリ、オリーブオイルを和えた冷菜だ。
「エジプトって、こういうサラダが美味しいよね。
細かく切ってあって食べやすい」
リベーロはフォークで白チーズと夏野菜の和え物を口に運んだ。6月末のこの季節、周辺の農園で採れたばかりだというトマトとキュウリは、噛んだ瞬間にジュワッと冷たい水分を弾けさせる。しょっぱいチーズの塩分が、これから猛暑の地下遺構を歩く体にとって何よりの補給になった。
「香ばしくて、とても素晴らしい味わいだわ。エジプトでは野菜から出る水分もサラダとしてパンで掬っていただくのよ」
皿の底に溜まった水分をフィティールの生地で掬って味わい、しっかりと腹ごしらえを終えた。
「栄養も水分も完璧だわ。リベーロ、行きましょう」
準備を整え、2人はチャーター車でサッカラ遺跡群の入場ゲートへと向かった。
午前9時頃。
エアコンの効いたチャーター車で砂漠の陽光の中を抜け、サッカラの象徴――ジョセル王の階段ピラミッドの南側駐車場へと滑り込む。
2人は車を降り、直射日光で熱せられた敷地内のアスファルトを踏みしめて、ピラミッドの南側進入路から内部へと潜る。
その瞬間、乾燥した重く冷たい静寂が肌を刺した。
「よし、反応を見ながら進むから、ゆっくり進んで」
リュックを手に持ち振動を感じながら慎重に進んだ。
やがて暗闇に目が慣れると、木製の見学用プラットフォームが組まれた、幅約7メートルの巨大な正方形の空間が行く手を阻む。
深さ28メートルの中央垂直シャフト(縦穴)だ。
2人は手すり越しに、シャフトの上部からじっくりと底を見下ろした。
遥か下方の暗闇には、重量感のあるピンク色の花崗岩ブロックで構築された埋葬室の天井部分が見えている。
その時、リベーロは昨夜夢で見た、あるば・すーばーぬの言葉をすぐ思い出した。
夢の詳細は覚えていないが、不思議と可愛い声の言葉だけは覚えていた。
【夜の7時間目は夜の船を止める大事な時間】
【地下水を貰う時に一緒に貰うから、その時間砂漠に置く】
「あれさ。これって、この底に地下水があるの?」
手すりを握りしめたリベーロが、暗闇の底を見つめたまま低い声で尋ねた。
ロゼリーはプラットフォームの手すりに寄り添い、暗闇の奥深くを凝視しながら静かに頷いた。
「ええ。サッカラの地下には、ナイル川流域から浸透した地下水が存在するわ。この階段ピラミッドの地下遺構には、古代エジプトの地下世界を思わせる構造もあるの。けれど、ここで地下水を直接汲めるような場所があるわけではないわ」
「変な事言うけどこの地下水ってさ、貰えるもんじゃないよね。
あははは……!!」
「貰うって地下水を汲むって事?」
「多分そう。夜中に地下水を汲む時間とかある?」
唐突で脈絡のないリベーロの問いに、ロゼリーは呆れたように一瞬目を見開いた。
「あるわけないわよ。ここは世界遺産の重要遺跡よ? 昼間だって厳重に管理されているのに、夜間に一般人が立ち入って水を汲むなんてできるはずがないわ。そもそも地下の埋葬施設まで自由に降りられるわけでもないのよ」
「そうだよねー……俺、本当に頭がおかしくなったかも」
手に持ったリュックの底では、小さな振動が続いていた。
(夜中に水を汲むなんて、ただの不審者だよな。地下水を貰うってなんだろ?)
リベーロは知らなかった。
アペプは夜、地下の水を奪って飲み干し砂漠を干上がらせる元凶だと。
何も出来ず、暗闇の底にある巨大な花崗岩の構造を
ただ静かに数秒見つめ続けた。
シャフトの底、28メートル下に見えるのは、ピンク色の花崗岩で構築された埋葬室の上部だった。
「見て、リベーロ。あの石の積み方……下の埋葬室を保護するために、計算された構造になっているわ」
何層もの花崗岩ブロックが組み合わされ、ファラオの埋葬室を形成している。
よく見ると、その天井部分には、直径約1メートルの円形の開口部があり、そこを塞ぐための巨大な花崗岩製のプラグが使われていた。
「この下が、実際の埋葬室なの。埋葬の際には、この開口部から王の遺体を納めたあと、上から重さ数トンにもなる花崗岩のプラグで塞いだと考えられているわ」
午前10時40分頃
階段ピラミッドからの反応を探し終えた2人は、再びチャーター車へ戻った。
「特別、新たな反応は得られなかった。
でもまだサッカラは地下が沢山あるはずだ」
「ええ。そうね、まだ一つ目ですもの、次は第5王朝の最後の王ウナス王よ」
ロゼリーが車内で、メモ帳を確認しながら言った。
数分後、停車し2人は外へ出ると、ウナス王のピラミッドへ向かって歩き始めた。
「出た。このパターン、さっきの階段ピラミッドと比べると低い。なんかこのパターンあるよね、ギザもそうだったじゃん?クフ王とカフラー王は地上でドンとあるのに、メンカウラー王だけ洞窟みたいで雑、ピラミッドに格差みたいなのある」
「第3王朝や第4王朝の巨大なピラミッドと比べると、第5王朝の終わり頃になると規模はぐっと小さくなっていくの。外観だけ見たら、ただの石ころの山に見えてしまうかもしれないわね」
彼女は日よけの帽子の鍔を少し持ち上げ、入口の方へと視線を向けた。
「でも、外見の大きさに惑わされてはダメよ。ウナス王のピラミッドは古代エジプトで初めて壁面に『ピラミッド・テキスト』という王の死後の旅や、神々への祈りに関わる呪文が、地下の部屋の壁一面に刻まれているの、玄室の天井には一面に夜空の星が描かれているわ」
ロゼリーはトーンを落として淡々と続けた。
「それだけの意図と彫刻が組み込まれた空間なら、階段ピラミッドとは全く違う構造の仕掛けや、欠片が納まるべき場所の手がかりがあるかもしれない。中に入って、欠片の反応を確かめながら返却場所を探しましょう」
「へえ、見た目じゃなくて中身はすごいって事かぁ」
ウナス王のピラミッド北側にある入口から、地下へ続く下降通路へ入る。
通路は狭い。リベーロは腰を深く屈めリュックからの反応を探った。
「狭い通路はギザで慣れたけど、筋肉痛でさ足が痛いよ」
「頭をぶつけないように気をつけて」
「これ、昨日の大ピラミッドより狭くない?」
「かなり狭いわね」
2人は身体をかがめながら、ゆっくりと下降していく。
しばらく進むと、通路は水平になった。反応を探りながら慎重に奥へ進む。
暗闇の中に淡い光が見え始めた。
「おお。これぞ王の墓って感じだよ」
リベーロが足を止めた。目にした壁には、文字が並んでいる。
一列、また一列。
天井近くから床の近くまで、無数のヒエログリフが整然と刻まれていた。
「これがさっき教えたピラミッド・テキストよ。どう?反応に変化はある?」
「待ってね、ゆっくり見る」
探ってる間、ロゼリーは壁を見つめながら、一つ一つの文字を追っていった。
「ここにあるのは、王が死後の世界へ向かうための言葉。神々との関係や、王の再生に関わる内容も含まれているの」
「でも…ロゼリー、他と一緒でとくに反応はないよ」
「まだ、この奥に部屋があるわ」
ロゼリーはそう答えると、さらに奥へ進んだ。
やがて2人は、深い青色の天井が斜めに組まれた部屋へ入った。
その上には、金色の星々が散りばめられている。
「本当だ、小さくても中身はすごいなぁ」
リベーロが思わず声を漏らした。
「待ってて、探ってみるよ」
ロゼリーは静かに天井を見上げる。
「古代エジプトでは、死後の王が星々や神々の世界へ向かうことも重要な意味を持っていたのよ」
「ファラオは亡くなると、星や神様になるんだ。それって現代だと王じゃなくてもそうだよね」
「だからこそ、この場所は特別なの」
ロゼリーは、しばらく天井を見上げていた。
「うーん、反応なし」
それを聞いて、部屋の西側へ視線を向ける。
「なら、埋葬室よ」
部屋の奥には、石で造られた巨大な石棺が置かれていて、
リベーロはリュックを近づけ反応を探っていった。
「変わった石だね、色は、ちょっとベンベン石っぽいね」
「硬砂岩、グレイワッケとされているわ」
「ギザの王の間にあった石棺とは違うんだ」
「そうね」
石棺の周囲には、白いアラバスターで装飾された部分も残っている。
壁には、ここにも青く彩られたヒエログリフが続いていた。
リベーロは慎重に探った、しかし――。
「特に、新たな反応は感じなかったよ」
リベーロは石棺から離れ、もう一度、地下の壁を見渡した。
数千年前に刻まれた無数の言葉。青く残る文字。星空を描いた天井。
そして、静かに横たわる石棺。
「ここは、地下水関係無さそうだね」
「いいえ、違うわ。ここサッカラはそもそも砂漠の崖の縁に位置してるの。岩盤を垂直に25-30メートル以上掘り下げた地下構造なら、どの場所でも地下水に到達する危険を含んでるわ。その為、特に深い地下層は保存環境維持のために厳重に封鎖されているのよ」
「待って。つまりここ。サッカラって水脈の上にあるんじゃないの!?」




