2人のお説教
タブレットでの文献調査をひと段落させたロゼリーは、静まり返った客室でスマートフォンを取り出し、北米のヴェスティ家邸宅にいる母へ電話をかけた。
数回のコール音ののち、画面の向こうに映し出されたのは、光が差し込む邸宅の書斎と、渡航前の激しい押し問答の時と変わらない、冷たく張り詰めた母の姿だった。
「ロゼリー? 無事なのですか」
「ええ、お母様。カイロのホテルからお電話しています。怪我もなく、体調も崩していませんわ」
母は娘が無事だと分かっても決して声色を和らげず、重苦しいトーンで、露骨に見下した問いを投げかけてきた。
「そうですか。それで、あの素性の知れない男……リベーロとかいう同級生はどうしているのです。あなたの足を引っ張るだけでしょう?」
「いいえ。彼は真面目に行動してくれています。ギザのピラミッドや現地の調査でも、私を助けてしっかり足取りを合わせてくれていますわ」
名門ヴェスティ家の娘が「品性のない貧しい問題児」と二人きりで行動している現実に対し、母は電話越しでも分かるほど不快そうに鼻を鳴らした。
「フン、すぐに本性をだすわ。お父様が許したから静観していますが、母は今も反対しているのですからね。ヴェスティ家の人間として行動を慎みなさい。軽率な真似をしたら承知しませんよ」
「承知しております。明日はサッカラという遺跡群へ向かいます。
また連絡しますわ」
「ええ。とにかく、怪我のないようにしなさい」
それだけ短く、トゲを残したまま母は通話を切った。
電話の向こうにある母の頑固なプライドと、娘への心配を感じ取り、ロゼリーは静かに息を吐いてスマートフォンを机の上に置いた。
一息つき、明日のサッカラ遺跡調査に向けた持ち物チェックを始めようと準備した時だった。
リベーロの荷物に視線を送ったロゼリーの動きが、ぴたりと止まる。
あるはずのものが、ない。
リベーロが背負っていた、あのリュック——この旅の目的『ベンベン石の欠片』を入れているはずの手荷物が、部屋のどこにも見当たらなかった。
「嘘でしょう?」
血の気が引く思いでベッドの脇やクローゼットを確かめるが
やはり影も形もない。
リベーロは部屋を出る際、「夕焼けを見てくる」「近くの公園に行く」としか言っていなかった。あの男は、ロゼリーに何の相談も報告もなく、ただ風景を見るためだけに、最も危険で価値のある欠片を持ち出したのだ。
「リベーロ……!」
ロゼリーの顔から冷静さが消え去り、怒りと戦慄が交錯した。
その頃アル=アズハル・パーク東側の砂地。
夕闇が静かに迫る中、乾いた土の上に置かれたベンベン石の欠片は、沈みゆく太陽の橙色の光線に照らされていた。
「うーん、なんにも起きない」
リベーロは砂地の上に置いた欠片を見つめたまま、その場にしゃがみ込んでいた。
『夜の7時間目』である時刻はとうに過ぎている。
だが、欠片は光ることも、振動することも、熱を帯びることもなく、ただの冷たい石としてそこに転がっているだけだった。
風が吹き抜け、砂粒がカサリと音を立てる。
5分、10分、20分……。
夕焼けの鮮やかな橙色が次第に深い群青色へと変わり、街灯のあかりがぽつぽつと灯り始めても、何一つとして起きなかった。
「さすがに、ちゃんと砂漠に行かないとダメとか?」
期待に満ちていたリベーロの胸に、虚しさと焦りがじわじわと広がっていく。自分が導き出した「干上がる砂漠」「夜の7時間目」という答えが、完全に的外れだったことを突きつけられていた。
その時、ポケットの中でスマートフォンが激しく振動した。
画面に表示されたのは『ロゼリー』の文字。
リベーロが恐る恐る通話ボタンを押し、耳に当てた瞬間——。
『リベーロ。今すぐ答えなさい。……リュックはどこ?』
「持って来てるよ、管理は俺だから」
『なんですって!一人で管理してるわけではないでしょう?ここはカイロよ、アトゥム様が科した選択を忘れたの?もし紛失したり、奪われたらどうするの?欠片の破棄は破滅を選択した事になる。破棄の可能性がある行動は、創造の為なら絶対にしてはならない事でしょ!」
「言わなかった事は謝るよ。
でも破棄だって決めつけないでよ。とりあえず戻るね」
『危ないからそこにいて!
こちらから、向かうわ。アル=アズハル・パーク東側ね』
「わかったよ。ごめんね」
謝罪の言葉を聞き遂げず、ロゼリーは一方的に通話を切った。
リベーロはため息をつくと、砂地の上に置いたままだった『ベンベン石の欠片』を手に取り、丁寧にリュックへとしまってチャックを閉めた。
公園の街路灯の明かりが届かないアル=アズハル・パーク東側の暗がりで、リュックを抱えるようにしてその場にたたずむ。
それから十分程度すると、白地に黒のチェッカー模様が入ったタクシーが路肩に滑り込んできた。
«الرَّجَاءُ الْبَقَاءُ هُنَا.»
(そのまま、ここにいて下さい)
後部座席のドアが開き、降り立ってきたのは、着の身着のままナイトウェアに軽く上を羽織って飛び出して来た、ロゼリーだった。
彼女は一直線にリベーロのもとへ歩み寄ってくる。その姿だけで激怒の様子をすぐ理解したリベーロは、思わず後ずさりしそうになった。
「ちょっと、リベーロ!」
目の前に立ちふさがるやいなや、ロゼリーの冷徹な声が暗闇を射抜く。
「自分のしたことが分かっているの!? 相談も連絡もなく、勝手にあの欠片を持ち出すなんて……! 信じられないわ!普通、知らない国の公園に神の遺物持って1人で行けるの?しかも、私とずっと一緒に協力してきたじゃない!
どうして相談出来ないの!?あなたの行動力を甘く見てたわ。今後は修正する。
アトゥム様が科した選択を、あなたは何一つ理解していないわ!」
「それは違うよ、 俺ロゼリーを無視しようと思ったわけじゃないし、破棄しようなんて事も一切望んでない、何一つ理解してないなんて言い過ぎだ!」
リベーロは抱え直したリュックを叩くようにして、必死に弁解の声を上げた。
「俺はただ、一刻も早くこの欠片を元の場所に返して終わらせたかったんだ!
でも、見ての通り、俺が考えた返却場所候補はこの場所だった。ここが正しい場所かもって言えなかったんだよ」
「反応があったのは地下なんでしょ?一体なんの情報でここを選んだのか、根拠を教えて欲しいわ」
「この場所に確信はないよ、その…試してみたっていうか。夜の7時間目に——」
互いの譲れない主張が激しくぶつかり合い、リベーロが説明しようとした
——その瞬間だった。
——アッラーフ・アクバル……(神は偉大なり)
「え?リベーロ今、なんて言ったの?」
重厚で、うねるような旋律が、夜のカイロの街一帯を包み込むように響き渡った。
東側の城壁の向こう、旧市街に無数に佇む塔のスピーカーから、一斉に打ち鳴らされた「アザーン」の調べ。
20:00を回り、完全に太陽が沈んだ夜の訪れを告げるマグリブ(日没の祈り)のアザーンが、重々しい残響となって二人の間に割り込み
その激しい言葉を物理的に遮り取った。
響き渡るアザーンの朗々とした唱和が夜空に溶けていく中、ロゼリーは大きく息を吐き出し、冷静な視線をリベーロへ向けた。
「もう、とにかく戻りましょう」
感情を抑え込んだ低い声でそれだけ告げると、彼女は待たせていたタクシーへと向かって歩き出した。リベーロは不満げに眉をひそめながらも、リュックを抱え直してロゼリーの後に続いた。
タクシーの後部座席に、二人は並んで乗り込むとロゼリーはドライバーへ向かって、流暢なアラビア語で告げた。
「الرَّجَاءُ الْعَوْدَةُ إِلَى فُنْدُقِ أُوزيرِيس.」
(オシリスホテルに戻ってください)
ドライバーが低く返事をし、アクセルを踏み込む。車が夜のカイロの街へと走り出しても、車内には冷え切った沈黙だけが満ちていた。窓の外では、街灯の光と賑やかな街並みが流れていく。ロゼリーは腕を組み、固い表情のまま一度もリベーロの方を見ようとはせず、ただ窓の外を見つめ続けている。
(話したって、VTuberの情報だって聞かないくせに)
リベーロは抱え込んだリュックの紐を強く握りしめながら、内心で激しい不満をくすぶらせていた。勝手に欠片を持ち出したことについては悪かったと思っている。
だからすぐに謝った。だが、一番納得がいかないのは、ロゼリーのあの言い草だ。
『欠片の破棄は破滅を選択した事になる』
『破棄の可能性がある行動は絶対にしてはならない』
(俺は破棄してるんじゃない。ただ元の場所に戻して、早くこの旅を終わらせようとしただけ。なんで俺が破滅を選んだみたいに決めつけてんだよ。正解なら終わってたんだ。ロゼリーは、自分が賢いっていうただの傲慢だよ)
必死に考え、良かれと思って動いた結果をすべて「破棄」や「身勝手な行動」と切り捨てられたことは、すーばーぬちゃんも一緒に捨てられたように思えて、ジワジワと重い怒りとなって残っていた。当たり前だが、世界を滅ぼしたいわけじゃない。説明する勇気が持てなかった。完璧で優等生なロゼリーは、最初から新人VTuberの話など聞く耳を持っていない上に、機内の一件で警戒までしている。
ホテルまでの道のり、二人を乗せたタクシーの中には、一言の会話もないまま、重苦しい亀裂だけが静かに深まっていた。
オシリスホテルの前でタクシーを降りた二人は、言葉を交わさぬままエレベーターに乗り込み、客室へと戻った。
静まり返った部屋に入り、扉が閉まると同時に、リベーロはリュックを自分のベッドにそっと置いた。そしてロゼリーに向き直り、頭を下げて言葉を口にした。
「相談せずに行動した事は、ロゼリーの信用を失ってしまう事だとわかったよ、本当にごめんね。一緒に行動してるんだ、これまでどれだけ過酷だったのかよくわかっててる。だからこそ、終わらせようと行動してしまった。疲れを取らないといけないのに、無理をさせてしまった事は責任を感じてる。明日早いから休もう」
真っ直ぐに向けられた謝罪の言葉に、ロゼリーはすぐには答えなかった。
腕を組んだまま、冷ややかな瞳でリベーロをじっと見つめる。一度失われた信用や、独断行動への激怒が、その一言だけで簡単に消えるはずもなかった。
「ここに来るとき約束した中に、常に最も効率のいい方法を選ぶと約束したわ。そこに単独行動をしない事を加えるべきだった。相談してくれるだろうって勝手に思ってたの、私の考えた約束も甘かったわ」
ロゼリーは自分を責める感情を押し殺して、小さく息を吐いた。
明日向かうサッカラ遺跡群は、南北数キロメートルに及ぶ広大な砂漠地帯だ。
早朝からの調査を控え、自分の苛立ちや感情を優先して押し問答を続ければ、明日の行動そのものに支障が出る。ロゼリーは自身の感情よりも、調査の成功と体力の温存を優先すべきだと合理的に判断した。
「明日は早朝に出発します。今後は行動する前に相談しましょう。必ず」
「わかった、相談するよ」
ロゼリーはそう静かに伝えると、すぐベッドに入り、部屋の灯りを減らした。
「灯りを小さくするわよ、おやすみなさい」
「うん、小さくしてくれてありがとう。おやすみなさい」
薄明かりの中で、互いに思考を巡らせていた。静寂が室内を包み込む。
リベーロも隣のベッドに横たわり、天井を見つめ今日の事を思い返していると
自然に瞼は重くなり、眠りに落ちていった。
カイロの夜が静かに更けていく。明日のサッカラ遺跡調査に向けて身体を休めるため、この日一日で回った、ヘリオポリス神殿とギザ台地での疲労が押し寄せ2人は深い眠りの中にいた。
静まり返ったカイロの街に、一日の終わりを告げる最後の祈り
——イシャー(夜の礼拝)のアザーンが響き渡った。
旧市街の塔から打ち鳴らされた重々しい残響は、ホテルの窓ガラスを小さく振動させ、夜空へとしずかに溶けていく。だが、リベーロはそのアザーンの音を聞いても起きなかった。深く重い眠りの中で、彼は夢を見ていた。夢の中で、現実と同じようにイシャーのアザーンが街中に響き渡っている。
……しかし、聞こえてくるのは、厳かな男性の声ではなかった。
「あははは。脱皮組のみなさーん、こんばぬ~。せーのっ!
お日様なんて、滅んじゃえ~、あるば・すーばーぬでーす」
街中に設置されたスピーカーから降ってくる、鈴を転がしたような可愛い声。
——リベーロの推し新人VTuberあるば・すーばーぬだった。
「この大バカ者~!夜の7時間目は夜の船を止める大事な時間なのだ。地下水を貰う時に一緒に貰うから、その時間砂漠に置くのがオススメと言っているのだ。大チャンスだったのに!待っているのだ~」
旧市街の夜空全体に響き渡る明るいすーばーぬちゃんの声が、リベーロの意識を強く揺さぶる。
「夜の船を止める?理由も方法もわからない。 地下水貰うって…
それは貰えるもんなの?すーばーぬちゃん待って、全く意味がわからない。
もう少しヒントを…!」
現実では、独断で欠片を持ち出したことをロゼリーから怒られたばかり。
そして今、救いである大好きなすーばーぬちゃんから
「この大バカ者~!」
と一喝された。 現実の冷酷なお嬢様と、夢の中の推し新人VTuber。
まさかの両者から怒られるという不名誉な事態に、リベーロはうなされながら小さく身悶えした。だが、すーばーぬちゃんがアザーンを使って話してた言葉——
「夜の船を止める」「地下水を貰う」というキーワードだけは、リベーロの脳裏に焼きついて離れなかった。カイロの重苦しい夜の底で、夢と現実の説教に挟まれながら、物語は明日待つサッカラ遺跡調査へと続いていく。




