クフ王のピラミッド・ゲート
ギザ駅の改札を抜けて地上へ下りると、煤けたコンクリートの壁の向こうから激しいクラクションの混声と排気ガスの匂いが押し寄せてくる。
正午のアザーンが街中に鳴り響いた。
六月末の強烈な太陽はほぼ真上にあり、コンクリートの建物の影を極限まで小さく縮めている。
「うわ、暑いな。ロゼリー、どこかで一回涼もうよ。ついでに何か軽く食べようよ」
「駅前で手早く探しましょう。ギザの入場は16時までだから、ゆっくりしている時間はないわよ」
少し歩いた先にある幹線道路・アハラーム通り沿いには、黄ばんだアラビア語の看板を掲げた小規模な商店や携帯ショップが並んでいる。
「すげえいい匂いがする。ロゼリー、あそこにしようよ」
先を歩いたリベーロは、アハラーム通り沿いにあるコシャリの専門店を見つけた。
「コシャリの専門店だわ。お米やマカロニ、レンズ豆にトマトソースをあわせたエジプトの代表的なお料理。注文すれば数十秒でお給仕されるから、手早く済ませるには実にうってつけと言えるわ」
自動ドアを押し開けると、冷房の冷気とともに、油とトマトソース、そして強烈なニンニクの匂いが鼻腔を突く。オープンキッチンの奥では、ステンレスの深皿にマカロニや米、レンズ豆をリズミカルに叩きつけるように盛り付ける金属音が、カンカンと店内に鳴り響いていた。
ロゼリーが注文を済ませると、ものの数十秒でプラスチックの受け皿に載ったコシャリが運ばれてきた。香ばしく揚がった茶色いフライドオニオンがたっぷりと盛られている。
「この卓上にある小瓶の酢ニンニク(ダッガ)を、好みでかけて頂くの。。そこのチリソース(シャッタ)は相当辛いから、かけすぎに気をつけるのよ」
おしゃれなカフェメニューなどない店内では、コシャリと一緒に頼んだペプシコーラのガラス瓶を冷えた冷蔵庫から受け取るのがお決まりだった。
「美味いじゃん!サッと出てきてすぐ食べられるし、これはニンニクが良いね。止まらん!」
あっという間にコシャリを平らげたリベーロは、満足そうに息をついた。
冷房の効いた店内で手早く空腹を満たした2人は、会計を済ませてガラス扉の向こうへ足を踏み出す。
一歩外へ出た瞬間、再び強烈な熱気と排気ガスの匂いが全身にまとわりついた。
リベーロとロゼリーが帽子のツバから眩しそうに目を細めてアハラーム通りの先を見上げた。
「ピラミッドのある台地は、この通りを西へ約8キロ進んだ先よ。バスの中は蒸し風呂状態だから、タクシーを拾いましょう」
通り沿いには白地に青いラインの入った乗り合いマイクロバスや、白地にチェッカー模様の帯が入ったタクシーが絶え間なく横付けされていた。
先を歩いたリベーロが、その中のタクシードライバーに声をかけ身振りで説明した。
「えーと、ギザ台地。ここからギザ台地に行く。Bi kam ba?(いくらですか?)」
リベーロが英語とアラビア語で尋ねると、タクシーのドアに肘をついていた日焼けしたドライバーは、リベーロの身なりを上から下まで品定めするように見つめた。そして、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、指を5本立ててみせる。
「ファイブ・ハンドレッド・パウンド! 500エジプトポンドだ。ブラザー!」
「سَأَأْخُذُكَ إِلَى الْأَهْرَامَاتِ بِسِعْرٍ خَاصٍّ.」
(ピラミッドまで特別価格で連れて行ってやるよ)
「ああ、ロゼリー。ブラザーと言ってるし、悪い人じゃなさそうだよ?500エジプトポンドでいいって」
「500エジプトポンド? 冗談いわないで」
後ろから追いついたロゼリーが、凛とした声を響かせて割り込んだ。
ドライバーの手元を鋭い目線で射抜くと、すっと腕を組んで前に出る。
「«مِنْ مَحَطَّةِ الْجِيزَةِ إِلَى الْهَضَبَةِ، إِذَا شَغَّلْتَ الْعَدَّادَ، فَلَنْ يُكَلِّفَ الْأَمْرُ أَكْثَرَ مِنْ مِئَةِ جُنَيْهٍ حَتَّى مَعَ أَعْلَى تَقْدِيرٍ. هَلْ تَظُنُّ أَنَّنِي صَيْدٌ سَهْلٌ لِمُجَرَّدِ أَنَّنِي سَائِحَةٌ؟»」
(ギザ駅から台地まで、メーターを倒せば高く見積もっても100ポンド足らずで行けるはずよ。観光客だからとお手軽なカモにするおつもり?)
ロゼリーは流暢かつ隙のない態度で言い放ち、一切の妥協を許さない瞳でドライバーを睨みつけた。
思いがけない毅然としたアラビア語での反論と
相場を完璧に把握している突っ込みに、ドライバーは降参した。
「«مَاشِي، هَنِشَغَّل الْعَدَّاد، هَنِشَغَّل الْعَدَّاد. خَلَاص اِرْكَبِي.»」
(メーターで行けばいいんだろ、メーターで。わかったよ乗りな)
タクシーに乗り込むと、ロゼリーは間髪入れず的確に行き先を指示した。
「«إِلَى الْمَبْنَى الشَّمَالِيِّ لِتَذَاكِرِ الْأَهْرَامَاتِ، بِجَانِبِ هَرَمِ خُوفُو. مِنْ فَضْلِكِ.»」
(クフ王のピラミッド側、北側のチケット売り場までお願いします)
タクシーを降りた2人の前には、観光客の列がゆっくりと進む広い入口があり、その周囲には黒い防弾ベストを着た観光警察が複数立っていた。
入口には金属探知ゲートが設置され、さらにその奥には荷物検査用のX線スキャナーが並んでいる。
警備員たちは無線機を常に握り、短く鋭いアラビア語で連絡を取り合っていた。
「ギザ台地は国際的な重要テロ警戒区域だから、警備が常に厳重なのよ」
ロゼリーは淡々と説明しながら、入場検査に進んだ。
列が進み、金属探知ゲートの前に立った。ゲートの横には、黒いサングラスをかけた警備員が無表情で立ち、通過する観光客を一人ずつ観察している。
リベーロがゲートをくぐると、機械は静かに緑のランプを点灯した。
次に荷物検査だ。リュックをベルトコンベアに置き、X線スキャナーへ流した。
モニターを見つめる検査員は、画面に映る内部をじっと確認し無言で顎を軽くしゃくって通過を示した。
「よし、問題なしよ」
ロゼリーが小さく頷く。検査を終え、チケット売り場の窓口へ向かう。
窓口の奥では、制服を着た職員が淡々とクレジットカードの決済端末を差し出し、観光客の列を途切れさせないように手際よく処理していた。
現金での支払いは受け付けられないため、手持ちのカードを端末にタッチする。
決済が完了し、プリントアウトされたQRコード付きのレシート型のチケットを受け取ると、印字を軽く確認した。
「これで入場できるわ。ここから先は、もう後戻りできないわよ」
チケットのコードを自動改札機にかざしてゲートを押し進むと、すぐ目の前に遮るもののない巨大なクフ王のピラミッドの稜線が、茶色い巨体のまま視界を埋め尽くした。
「あれが……クフ王のピラミッド」
自動改札のターンタイルを押し回して外へ踏み出すと、遮蔽物のないアスファルトの緩やかな上り坂が目の前に現れた。
右手前方にはクフ王のピラミッドの北面が巨大な黄土色の壁のようにそびえ立ち、左手には広大な砂漠と観光バスの駐車場が広がっている。
一歩を進めた瞬間、ゲートの脇にたむろしていた男たちが一斉に距離を詰めてきた。
「ハロー、マイフレンド!」
「«الْمَشْيُ إِلَى الْأَهْرَامَاتِ مُسْتَحِيلٌ. سَتَمُوتُ مِنَ الْحَرِّ! اِرْكَبِ الْجَمَلَ!»」
( ピラミッドまで歩くのは不可能だ。この暑さで死ぬぞ。ラクダに乗れ!)
ターバンを頭に巻き、日に焼けた顔の御者たちが、ラクダや馬、ロバの手綱を引いて進路を塞ぐように立ちはだかる。
男たちは自称「政府の公認ガイド」と書かれた出所不明のIDカードを突きつけ、「検問だ、チケットを見せろ」と執拗に声を荒らげて付きまとっていた。
「わあ!ラクダだ!!エジプトって感じするよ、可愛いけどクセーな」
以前のカイロ空港での一件から、ガイドは親切と思い込んでいたリベーロは
満面の笑みで、ガイドに話しかけようとした。
その時ロゼリーはリベーロの腕を静かに、強く掴んで静止した。
「動かないで」
低い声で制すると、彼女は一歩前に出た。ターバンの男たちがさらに距離を詰めてくる。
IDカードを突き出し、早口でアラビア語と拙い英語を混ぜてまくし立てる。
「チケットを見せろ」「公認ガイドだ」「ラクダに乗れ。歩いたら死ぬぞ」
ロゼリーは表情を変えなかった。
冷たい瞳で男たちを冷静に見据え、流暢なアラビア語で静かにはっきりと返した。
「نحن لا نحتاج إلى مرشد. لدينا تذاكر رسمية. ابتعدوا من فضلكم。」
(私たちはガイドは必要ありません。正式なチケットを持っています。どうか道を空けてください)
男の一人がまだ食い下がろうと口を開きかけた瞬間、ロゼリーはさらに声のトーンを一段落とした。
「إذا استمررتم في مضايقتنا، سأتصل بالشرطة السياحية الآن。」
(このまま付きまとうなら、今すぐ観光警察に連絡します)
その言葉に、男たちの表情がわずかに強張った。ロゼリーはスマートフォンをすでに手に持ち、画面を彼らに見える位置で構えていた。虚勢ではなく、本気で実行する気があることが伝わったのだろう。
一人が舌打ちをし、別の男が手を振ってラクダの手綱を引く。
徐々に輪が解け、進路が開いた。
ロゼリーはリベーロの腕を離さずに、ゆっくりと歩き出した。
「リベーロ。ここは空港の時とは違うわ。親切に見える相手が、必ずしもそうとは限らない。
次からは私の後ろにいて」
リベーロはまだラクダの方をチラチラ見ながらも、素直に頷いた。
「言葉がわからないと本当にややこしいね。助かったよ」
巨大なクフ王のピラミッドが、遮るもののない青空の下で二人を見下ろしていた。
ピラミッドの北面、巨石が階段状に積み上がった麓に到達すると、地上から数メートルの高さ(第六段目付近)に不自然に穿たれた空洞が見える。
九世紀にアッバース朝のカリフ・マアムーンが、巨石を火で炙り、酢をかけてひび割れさせる手法で強引に掘り進めた通称「盗掘口」であり。
これが現在の大ピラミッド内部へと続く唯一の見学者用入場口だった。
リベーロはリュックを両手に持ち、欠片の反応を感じ取りながら進んだ。
「まだ、何も反応はないよ」
「焦らなくていいわ。反応があるとすれば、もっと奥かもしれない」
その数メートル上方には、巨大な切妻型の石組みで組まれた本来の正門が封鎖されたまま残っており
下から見上げるしかなかった。
鉄製の即席の階段を上がり、洞窟のような入り口へ一歩踏み入る。
外の猛烈な太陽光が一瞬で遮られ、視界は急激に暗くなった。
内部はひんやりとしているかと思いきや、数千年の石の壁に籠もった熱気と、先行する観光客たちの汗が蒸発した湿気、および埃っぽいカビの匂いが混ざり合いサウナのような密度で肌にまとわりついてくる。
リベーロは暑さと緊張で汗だくだった。
「この雰囲気すごいな。不審な動きをすればすぐ逮捕…。でも、ロゼリー何か反応はありそうだよ」
「そうね。観光警察だけじゃなく、武装した兵士や私服の警備員も配置されているわ。下手にうろついたり、怪しい行動をとればすぐに取り調べを受けることになる。……特に、あなたのそのリュックの中身が見つかったら、ただの没収じゃ済まないわよ」
通路はすぐに、マアムーンが掘り進めたごつごつとした岩肌のトンネルから、古代の職人が精密に切り出した平滑な石の壁へと切り替わった。
前方からは、すでに中に入っている観光客の話し声や、狭い空間で反響する足音が、くぐもった重低音となって絶え間なく響いてくる。
天井には等間隔に裸電球の黄色い光が灯っているものの、足元を照らすには十分ではなく、ゆっくりと歩を進めた。
暗く、狭く、熱い通路が、どこまでも続いていた。




