オシリスホテルの夜
『皆様、当機は間もなく、カイロ国際空港に着陸いたします。シートベルトを締め、座席の背もたれとテーブルを元の位置にお戻しください』
機内にアナウンスが流れると同時に、シートベルト着用サインが点灯した。
窓の遮光ブラインドを上げると、眼下には夕方の光に照らされた黄褐色の街並みと、果てしなく広がる砂漠が広がり始めていた。機体は徐々に高度を下げ、タイヤが滑走路を捉えると、低く重い衝撃とともに逆噴射の音が客室に響き渡った。
現地時間の午後5時。予定通り、飛行機はカイロ国際空港に着陸した。
ベルト着用サインが消えると、リベーロは足元の収納スペースから、ベンベン石の欠片を入れた大切なリュックを引き出し、しっかりと背中に抱えた。
ビジネスクラスの乗客から優先的に降機が始まり、二人はボーディングブリッジを通ってターミナルビルへと進む。
通路のあちこちに掲示されたアラビア語と英語の案内表示、探していた独特の乾いた空気が、ついにエジプトへやってきたことを実感させた。
入国審査カウンター(イミグレーション)の列に並び、パスポートを提示する。
審査官の鋭い視線を受けながらも手続きはスムーズに終わり
預けていた手荷物を受け取って到着ロビーへと出た。
「リベーロ、外に出る前に両替を済ませてくるから。この辺にいてね」
「わかった。この辺には、いるよ」
初めての海外に来たリベーロは、キョロキョロと、ロゼリーが近くにいる事を確認しながら
自動ドアをくぐり、少し外に出た。
一歩外へ出るとカイロは夕方でもまだ明るく、現地のタクシードライバー達による乗客を呼び込むアラビア語が大声で飛び交っていた。
リベーロが空港から出て立ち尽くしていると、すぐに一人の現地男性が
笑みを浮かべながら近づいてきた。
「مرحبا بكم في القاهرة!」(ようこそ、カイロへ!)
「なんだ、早速詐欺か!それとも泥棒か!えーっとなんだっけ…」
リベーロは以前覚えた、あの【カイロ旅行で使える!簡単アラビア語5選】を思い出した。
そして毅然とした態度で答えた。
「La, Shukran」(いいえ、結構です)
親切そうな笑みを浮かべたまま、その男性はリベーロへ話を続けた。
「إذا كنت ترغب في تناول وجبة خفيفة قبل الذهاب إلى الفندق، فهناك منطقة تجتمع فيها المطاعم.」
(もしホテルへ行く前に軽く食事をするなら、あそこのエリアに飲食店が集まっていますよ)
リベーロは言葉が全く分からず。必死で「La, Shukran」(いいえ、結構です)と繰り返していた。
「全然使えないじゃんかよ、アラビア語5選!」
その時だった、両替を済ませたロゼリーが空港から出て来た。
「おーい!ロゼリー!!こっち、助けてくれー」
ロゼリーは呆れたように大きなため息をつきながら、二人の間へと割り込んだ。
「リベーロ、何をやってるのよ」
「た、助けて。覚えたアラビア語、全然使えない…」
ロゼリーはリベーロを背後へ押しやると、優しく笑みを浮かべたまま困惑している男性に向き直り
澄んだ通る声で滑らかに言葉を紡いだ。
男性は優しい口調でロゼリーに話した。
「مرحبا بكم في القاهرة!」(ようこそ、カイロへ!)
「احذر، فالمرور في المدينة مزدحم جداً بسبب ساعة الذروة في هذا الوقت.」
(この時間、市内は激しい帰宅ラッシュの渋滞だから気をつけて下さい)
「شكراً لك على نصيحتك. لقد قمنا بالترتيبات بالفعل، لذا لا بأس. أتمنى لك يوماً سعيداً.」
(ご親切にアドバイスをありがとうございます。すでに移動の手配は済んでおりますので、大丈夫です。良い一日をお過ごしください)
男性は穏やかな笑みを浮かべ、右手を胸に当てて頭を下げた。
「عفواً. رحلة سعيدة في مصر!」
(どういたしまして。エジプトでのよい旅を!)
男性がそのまま去っていくのを見届けてから、リベーロは胸を撫でおろした。
「ふう。ありがとう……助かったよ。何て言って追い払ったの?」
「追い払う? 今の方は、ただ親切に夕方の渋滞を教えてくれていただけよ。」
「えっ……詐欺とか泥棒じゃなかったの?」
「失礼なことを言わないで。そんな分かりやすく詐欺や泥棒がいるはずないでしょう。
空港には、観光警察が常駐してるのよ」
ロゼリーは呆れ果てたように首を振り、配車アプリの画面が表示されたスマートフォンを掲げた。
「配車の手配は完了したわ。指定のピックアップエリアへ移動するわよ。
手荷物をしっかり抱えて、私から離れないで」
「飛行機で確認したから覚えてるよ、渋滞でここから2時間だっけ…」
リベーロは身を小さくしながら背中のリュックを抱え直し、ロゼリーの後を追って歩き出した。
そこから配車アプリの指定エリアへ着くと、予約した白いタクシーが停まっていた。
運転手は軽く会釈し、荷物はトランクに載せ、二人を後部座席へ案内した。
車はゆっくりと空港を離れ、夕方の渋滞へと飲み込まれていった。
幹線道路は赤いテールランプの列が果てしなく続き、ナイル川へ向かう高架道路はほとんど動かない。
ロゼリーは窓の外を見つめながら、腕時計で時間を確認した。
「予想通りね。ここから市内まで、しばらく動かないわ」
リベーロはリュックを膝に抱えたまま、眠りこけていた。
「さすがに初めての海外だもの。時差もあるし疲れたのね」
渋滞は途切れることなく続き、タクシーはゆっくりと街の中心部へ進んでいった。
どれだけ時間が経っただろう。やがて、タハリール広場の喧騒が近づき、夕暮れの街にネオンが灯り始める頃、車は古い建物が立ち並ぶ一角へ入った。
「オシリスホテルです」
運転手が振り返り、穏やかに告げた。
二人はタクシーを降り、細い入口からホテルのロビーへ入った。
古いが清潔なフロントには、笑顔のスタッフが立っていた。
「チェックインをお願いします」
ロゼリーがパスポートを差し出すと、スタッフは丁寧に手続きを進め、部屋の鍵を渡した。
「荷物を置いて、シャワーを浴びてしまいましょう。屋上で夕食が取れるはずよ」
「屋上で食べるの?初めてだよ」
エレベーターは小型で、ゆっくりと上昇した。
部屋はシンプルで必要最低限の設備だったが、窓からは夕暮れの街が見えた。
それぞれシャワーを済ませ二人は、階段を上って屋上テラスへ向かった。
扉を開けると、乾いた夜風がふわりと頬を撫でた。
屋上にはテーブルが並び、ナイル川の夜景が遠くに見える。
オシリスホテルの屋上は、古い建物の上に作られた小さな空間だが、
そこには街の喧騒から切り離されたような静けさが漂っていた。
ランタンの柔らかな光が、淡い輝きを瞬かせてテーブルの上でゆっくり揺れている。
眼下には、カイロの街の明かりが果てしなく広がっていた。
風が吹くたび、テラスに置かれた観葉植物の葉がかすかに揺れ、
その動きが夜の静けさをさらに際立たせていた。
スタッフがメニューを手渡し、穏やかな笑みを向けた。
声は控えめで、周囲の静けさを壊さないように配慮されている。
読めないリベーロは、そのメニュー表をすぐにロゼリーに手渡した。
「全然わからない…。ロゼリー、オススメどれ?」
「そうね、この中だとタジーン・バミヤ。バミヤは夏野菜のオクラの事よ。
牛肉をオクラとトマトソースで煮込んだ料理で、きっと最後まで美味しく頂けるわ」
「そこにロズ・ビル・シャアリーヤっていう炊き込みご飯がつくの。シャアリーヤは細いパスタで
お米と一緒にバターで炊き込んであるの、お肉料理には定番よ」
「前菜でアエーシっていう全粒粉パンが最初に出されるから、野菜のペーストで頂くのよ。
スープは、ショルバ・ハドゥラワート、夏野菜のスープ。副菜にはサンブーサ
あなたの好きそうな、春巻きのことよ。リベーロのデザートは、マンゴーが好きみたいだから
ロズ・ビル・ラバン、お米と牛乳で作ったライスプティングに
ここではマンゴーがトッピングされてるわ。あとは好きな飲み物を。」
「ありがとう。じゃあ、冷たい紅茶で」
続いて、ロゼリーも注文した。
「メインはマハシー(夏野菜の中心をくりぬいて米を詰めた炊き込みご飯)
スープはショルバ・レンティル(レモンを絞るレンズ豆のスープ)
副菜は、バティンガーン・マハッラル(揚げ茄子のマリネ)
デザートにはオム・アリ(ココナッツミルクとパイ生地の焼き菓子)
飲み物はミントティーを下さい」
ロゼリーはマハシーの皿を少し横へ寄せ、夜景を見つめながら静かに口を開いた。
「リベーロ。明日の朝のことだけれど、一度確認しておくわ」
リベーロはサンブーサをかじりながら顔を上げた。
「春巻きじゃん!美味いわ。え?どうしたの?」
「朝7時にヘリオポリス神殿へ入るためには
ホテルを6時前に出発する必要があるわ、だから5時起きよ」
「5時……まあ、起きるよ」
「起きなくても、私が叩き起こすわよ」
ロゼリーはリベーロが傍に置いてるリュックへ視線を向けた。
「それと、ベンベン石の欠片。当然だけど明日絶対に忘れないで。
あなたが持っているのだから」
「わ、わかってるよ。ちゃんと持っていくって」
ロゼリーは夜風に揺れる髪を耳にかけ、静かに続けた。
「いい? 明日は重要な一日よ。5時に起きて、6時に出る。
そしてベンベン石の欠片を忘れないこと
私はこれから、ヘリオポリス神殿をもう一度携帯で調べて
返却場所候補を推理してみるわ」
リベーロは真剣に頷いた。
「うん。頼むよ。返却場所探しは俺もやるだけやってみる」
「そうね、あなたの視点でやってみる事も重要かもしれないわ。」
そして、初日の夜は更けていった。




