閑話 悪役令嬢、修行中
――見つかってはいけない。
ミト・ローゼンクランツは、その一心で屋敷の廊下を小走りで進んでいた。普段なら侍女にたしなめられる速度だが、今日はそんな余裕はない。朝食の席で告げられた一言が、すべてを決めてしまったからだ。
「本日、第一王子殿下がお越しになります」
第一王子レオンハルト・ヴァルディス。婚約者であり、将来この国の王となる少年。そして、ミトにとっては何よりも避けるべき相手だった。
ここがゲームに似た世界だと気づいて以来、ミトの目標は明確だ。悪役令嬢にならないこと。断罪されないこと。そのためには関わりすぎないのが最善だった。
ならばどうするか。答えは単純だ。嫌われればいい。ほどよく扱いづらく、ほどよく面倒な令嬢であれば、好意は育たない。ミトはその結論に深く頷き、今日も逃走を開始した。
薔薇園へ入る。春の庭は花で満ち、生垣が視界を断つ。香りが濃く、人の気配はぼやける。隠れるには申し分ない。ミトは茂みの陰に身を潜め、裾を整え、呼吸を落とした。
これで見つからない――そう確信した瞬間だった。
「そこにいるな」
即座に終わった。ミトは肩を震わせ、振り返る。そこには当然のようにレオンハルトが立っている。銀の髪、青い瞳、迷いのない視線。
「な、なぜ分かりますの……?」
「君は隠れるのが下手だ」
即答だった。ミトは言葉を失い、わずかに視線を逸らす。
「本日は、その……お会いするのを遠慮したく……」
「理由は」
淡々とした問い。責める色はない。ただ理解しようとしているだけだ。それが困る。ミトは少しだけ迷い、それから顔を上げた。
「悪役令嬢になるためですわ」
沈黙が落ちる。風が薔薇を揺らし、レオンハルトは一度だけ瞬きをする。
「……は?」
「将来、断罪される運命にございますので、今のうちから嫌われておこうかと」
「理解不能だ」
短く結論が下る。余計な間はない。ただ“判断された”という事実だけが残る。ミトは小さく息を吐いた。やはり通じない。ならば結論は一つ、逃げるしかない。
◇
数日後、ミトは作戦を変えた。薔薇園では見つかる。ならば高所だ。屋敷裏の大木に目をつける。枝は広く、葉は密で、人目につきにくい。
裾を押さえながら慎重に登り、幹に背を預ける。風が心地いい。これなら見つからない――そう思った直後だった。
「……降りられない」
「……何してんだ、お前」
下から声がした。見下ろすと、赤い髪の少年がこちらを見上げている。
「降りられなくなりましたの」
「見りゃ分かる」
呆れたように言いながらも、すぐに木の下へ来る。
「手貸すから、ゆっくり降りろ」
「変に動くなよ」
ぶっきらぼうだが、迷いはない。ミトは枝を確かめながら降りる。最後の一歩で足を滑らせかけた瞬間、体が支えられた。ふわりと地面に降り立つ。
「……大丈夫か」
「ありがとうございます。お名前は?」
「カイル」
「殿下の護衛で来てるだけだ。気にすんな」
そう言って視線を逸らす仕草が印象に残る。
「また来ること、ありますの?」
「さぁな」
素っ気ないが、冷たくはない距離だった。
◇
それからというもの、ミトの逃走は習慣になった。廊下、薔薇園、温室、図書室、倉庫。場所を変え、工夫を重ねる。しかし結果はほとんど変わらない。
「そこだな」
「なぜですの……」
「影が動いた」
「そこだ」
「なぜですの……」
「足が見えている」
「そこにいる」
「なぜですの……」
「髪が出ている」
回数を重ねるごとに、屋敷内では半ば名物になった。侍女たちは表情を崩さずに目だけで笑い、執事は言いかけて咳払いをする。レオンハルトは毎回見つけ、カイルはたまに居合わせ、エヴァルドは最後に必ず回収する。
◇
「ミト」
夕方、温室の隅。
「また逃げていたのかい?」
「……ええ」
「どうしてそこまで嫌がるんだい?」
「……好きになってしまったら、困りますもの」
空気がわずかに変わる。
「だから、悪役令嬢になるんですの」
小さく笑う。エヴァルドは何も言わず、そのままミトを見ていた。
◇
季節が巡り、十二歳の初夏。ミトは薔薇園のベンチに座っていた。今日は逃げない。
「逃げないのか」
「本日はお休みですわ」
「何の」
「逃走の」
一拍ののち、レオンハルトが小さく息を吐く。
「……奇妙だな」
「よく言われますわ」
彼は隣に立つ。以前なら逃げていた距離だ。
「なぜ、そこまで避ける」
「避けているわけではありませんわ」
「では何だ」
「準備ですの」
「何の」
「終わりに備える準備ですわ」
レオンハルトは答えない。ただ見ている。その視線が、以前よりも近い。
◇
帰り道、庭の端でカイルに会う。
「今日は登ってねぇのか」
「もう降りられますもの」
「そこじゃねぇ」
少しだけ笑う。
「また護衛ですの?」
「ああ」
「殿下が来る日はだいたいな」
「では、また会えますわね」
何気ない一言に、カイルはわずかに視線を逸らす。
「……来ればな」
素っ気ないが、冷たくはない距離だった。
◇
夕焼けの廊下を歩きながら、ミトは小さく息を吐く。逃げることはやめていない。やめられない。だが距離は確実に変わっている。少しだけ、近づいてしまった。
それが良いのか悪いのかは分からない。ただ、この時間が永遠ではないことだけは分かっている。
だからこそ。
――今はまだ、逃げていなくてはならない。
悪役令嬢として正しくあるために。そして、誰も傷つけないために。
ミトは今日も、少しだけおかしな努力を続けていた。




