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第7話 兄が近すぎる(後編)

 気づいたのは、ほんの小さな違和感だった。手が止まっている。問題を解く途中で自然に動いていたはずの指先が、ふと止まる。理由は分からない。ただ、動かなくなった。その瞬間、ようやく思考が追いつく。


(……なんで)


 今まで止まらなかった。迷わなかった。考えなくても進めた。それが急に途切れる。違和感が、はっきりと形を持つ。


 ミトはゆっくりと視線を落とす。机の上。整えられた教材。開かれたページ。すぐに次へ進める状態。すべてが最初から、そこにある。


(……これ)


 理解が、ゆっくりと浮かび上がる。用意されている。選ばれている。決められている。自分が動く前に、すべてが整っている。だから迷わない。だから止まらない。


(……違う)


 これは自分で選んでいる流れじゃない。選ばなくても進めるように整えられている流れだ。


「どうしたの?」


 すぐに声がかかる。柔らかい、いつも通りの優しい声。顔を上げるとエヴァルドがこちらを見ている。穏やかな表情。何も変わらない。


(……見てる)


 ただ様子を見ているんじゃない。止まった理由を確認している。その視線から逃げられない。


「……少し、考えてました」


 自然に答える。嘘ではない。だが、本当の意味は言っていない。


「そう」


 短い返事。否定も肯定もない。ただ受け取るだけ。その反応に、逆に思う。


(……分かってる?)


 どこまで、何を、把握されているのか分からない。それなのに、分かっている前提で進んでいる気がする。


「無理に進めなくていいよ」


 優しい言葉。いつもと同じ。それでも――


(進まなくてもいい、じゃない)


 そう気づく。進める状態は維持されている。止まることも許されている。だが、離れることは提示されない。


 それが一番おかしい。


 ミトはゆっくりと息を吐く。頭の中でこれまでの流れが繋がる。朝、起きた瞬間から整えられていた。食事は選ぶ必要がなかった。移動は人が少なかった。部屋は準備が終わっていた。そして今、進めるように整えられている。


(……全部)


 偶然じゃない。全部繋がっている。自然に見えるように、違和感を持たせないように、少しずつ逃げる理由を削っていく。


(……逃げられない)


 その結論にようやく辿り着く。遅すぎる理解。それでも、はっきりと分かる。


 これは途中から始まったものじゃない。最初から用意されていた形だ。


「ミト」


 名前を呼ばれる。顔を上げる。エヴァルドはいつも通り微笑んでいる。


「疲れてるなら、今日はここまでにしようか」


 優しい提案。逃げ道のように聞こえる。だが――


(ここまで、って)


 その先がない。続けるか、終わるか。どちらも、この空間の中の話だ。


「……いえ、大丈夫です」


 答えている。理由は分からない。ただ、ここで終わると流れが途切れる気がした。それが少しだけ怖かった。


「そう」


 変わらない声。変わらない距離。変わらない空気。その中で、はっきりと分かる。


(逃げ場、ない)


 最初から、外に出る選択肢は提示されていない。外に出たいと思う理由も作られていない。ここにいればいい。そう思わせるための環境だけが整えられている。


 だから、離れる必要がなくなる。


(……同じ)


 昨日の感覚が重なる。王子は外から詰めた。兄は内側から整える。方法は違う。だが――


(結果は同じ)


 逃げられない。


 拒否しようとすればできる。離れようとすればできる。それでも、やらない。やる理由がないからだ。それが一番、逃げられない。


 ミトはゆっくりと息を吐く。胸の奥で、はっきりと理解する。


 これは、囲われている。


 守られている形で、逃げ道を消されている。


 優しさで、整えられて、気づかないまま。


 ここに留まるように。


(……最初から)


 そうだったのかもしれない。十歳の頃、あの距離、あの言葉、あの“問題ない”。全部、繋がっている。


 今に。


 この状態に。


 ミトは視線を落とす。机の上、整えられたもの、無駄のない配置、そしてその中にいる自分。違和感はある。おかしいと分かっている。それでも完全に拒否することができない。


 なぜなら、ここにいれば、すべてがうまくいくから。


 ペン先が紙の上を滑る。止まらない。さっき一度止まったはずなのに、また同じように動き出している。迷いはない。考える必要もない。進めばいいと分かっているから、その通りに動くだけでいい。その状態が、続いている。


(……おかしい)


 頭ではそう思っている。ここまで整っているのは不自然だ。選ぶ余地がないのはおかしい。逃げる理由が見つからないのもおかしい。全部分かっている。それなのに、手は止まらない。視線も外れない。身体が流れに従ったまま動いている。


「順調だね」


 エヴァルドの声が落ちる。変わらず穏やかで、優しい。否定する要素はどこにもない。


「このままでも問題ないよ」


 その一言で、また一つ思考が緩む。問題ない。そう言われるだけで、確認する必要がなくなる。


(……問題ない、って)


 ふと引っかかる。その言葉。どこかで聞いた。何度も。昨日、訓練場で。同じように。王子の声が重なる。距離、視線、逃げられない感覚、すべてが一瞬で繋がる。


(……同じだ)


 はっきりと理解する。方法は違う。圧も違う。それでもやっていることは同じだ。拒否させない。否定させない。逃げる必要を消していく。そして、ここにいることを正しい状態にする。


(……逃げられない)


 結論が静かに落ちる。もう曖昧じゃない。それでも身体は動かない。ペンは止まらない。流れが続いている。


「少し、休む?」


 また同じ提案。優しい声。選択肢のように聞こえる言葉。だが、休んでもここにいる。離れる選択肢はない。


「……大丈夫です」


 答えてしまう。もう迷いすらない。ここにいることが前提になっている。


「そう」


 エヴァルドは微笑む。表情も距離も空気も変わらない。ただ、確定している。


(ここから、出ない)


 そういう形に、なっている。


 ミトはゆっくりと息を吐く。頭では理解している。これはおかしい。逃げた方がいい。距離を取った方がいい。そうしないと戻れなくなる。それでも足が動かない。理由ははっきりしている。ここにいれば困らない。ここにいればうまくいく。ここにいれば楽だから。


(……ここでいい)


 一瞬、その考えが浮かぶ。否定する前に、もう一度浮かぶ。


(ここにいれば、大丈夫)


 そう思えてしまう。その瞬間、背筋がぞくりとする。


(……だめ)


 分かっている。それは自分で選んだ安心じゃない。用意された安心だ。だから抜けられなくなる。


 ミトはゆっくりとペンを止める。今度は自分の意思で。ほんのわずかな動き。それでも流れを切るには十分だった。


 空気が、わずかに変わる。ほんの一瞬。それでもはっきりと分かる。


(……見られてる)


 視線が強くなる。エヴァルドの表情は変わらない。それでも何かが変わったと分かる。


「どうしたの?」


 優しい声。変わらないはずの声。それでも試されていると感じる。


「……少し、外に出ようかなって」


 ようやく出た言葉。ほんの小さな抵抗だった。


 空気が止まる。一瞬だけ。本当に一瞬だけ。何も変わっていないはずなのに、変わったと分かる。


「外?」


 穏やかに繰り返される。否定はしない。だが、肯定もしない。


「どうして?」


 問いが重なる。逃げ道を残すようでいて、理由を求める形。ミトは言葉を探す。だが見つからない。外に出たい理由。ここを離れる理由。それが浮かばない。


(……ない)


 気づいてしまう。出たいはずなのに、出る必要がない。ここにいればいい。そう思えてしまう。


「……少し、気分転換に」


 ようやく絞り出す。弱い理由。すぐに崩れる理由。


「そうだね」


 エヴァルドは頷く。否定しない。それなのに続く。


「でも、もう少しだけやってからにしようか」


 自然な提案。拒否ではない。延期。それだけ。それなのに。


(……戻された)


 そう感じる。流れの中に、もう一度組み込まれる。


「すぐ終わるよ」


 優しい声。安心させる言葉。


「……はい」


 頷いてしまう。抵抗が続かない。


 ミトはもう一度ペンを持つ。さっき止めたはずの流れに戻る。止まっていた思考が、また同じように進み始める。


(……戻ってる)


 分かっている。逃げようとしたのに、逃げきれなかった。それでも強制されたわけじゃない。自分で戻った。そう思えてしまう。それが一番怖い。


 ミトは小さく息を吐く。胸の奥で静かに理解する。


 これは、逃げられない。


 外に出ようとしても、理由を求められて流れに戻される。拒否されない。否定されない。だからこそ離れられない。


 気づけば、選択肢は残っていない。



 ここにいれば、いい。



 そう思ってしまった時点で、もう遅い。

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