第6話 兄が近すぎる(中編)
廊下に出ると、さらに人が少なくなっていることに気づく。時間帯の問題だけではない。明らかに、通る人間が調整されている。静かすぎる空間の中で、足音だけがやけに意識に残る。
「昨日の動き、良かったよ」
エヴァルドがぽつりと言う。軽い調子のはずなのに、しっかりと届く評価だった。
「え……」
「無理に崩さなくていい。あのまま伸ばせばいい」
方向性が示される。迷う余地が減る。どこを直すか、どう進めるか、自分で考える必要がない。
「分かりました」
頷く。自然に、迷いなく。
言われた通りにすればいい。そう思えてしまう。その時点で、選択はすでに終わっている。
(……これ)
ふと、違和感が形になる。選んでいるつもりで、選んでいない。決めているつもりで、決めさせられている。
それでも――楽だと感じてしまう。
考えなくていい。迷わなくていい。すでに整えられた道を進めばいい。その流れに乗るだけで、すべてがうまくいく。
(それ、危ない)
遅れて気づく。
だが、気づいても止まらない。歩みはそのまま続く。
部屋に戻ると、机の上にはすでに教材が整えられていた。必要なものだけが置かれている。余計なものはない。どこから始めるか、何を使うか、迷う余地がない状態。
「ここからでいいかな」
エヴァルドが指す。ページもすでに開かれている。
準備は、すべて終わっている。
だから。
拒否する理由が、また一つ消える。
机に向かった瞬間、すべてが“ちょうどいい”と感じた。椅子の高さ、机との距離、手元に置かれた教材の位置。どれも微妙に調整されていて、意識しなくても自然に姿勢が整う。違和感はない。むしろ、快適だ。
だからこそ。
(……おかしい)
そう思う。ここまで整っている必要があるのか、と。
「ここ、昨日の続きだね」
エヴァルドが指先でページを軽く叩く。視線は柔らかく、声も穏やかだ。急かす気配はない。ただ、進む方向だけを示している。
「無理に進めなくていいよ。分かるところだけでいい」
逃げ道のような言葉。それでも、“やる前提”の中にある逃げ道でしかない。やらない、という選択肢は含まれていない。
「……はい」
自然に返事が出る。ページを追う。内容は難しくない。むしろ理解しやすいように整えられている。重要な部分には印がついていて、補足も簡潔にまとまっている。
(……分かりやすい)
思わずそう感じる。詰まることがない。迷うことがない。だから、止まらない。
気づけば次の問題に手が伸びている。自分で考えて動いているはずなのに、その流れがあまりにも自然で、違和感がない。
「いいね」
小さく褒められる。視線を上げると、エヴァルドが穏やかに微笑んでいた。
「そのままで大丈夫」
肯定される。それだけで、次に進む理由になる。迷う必要がない。止まる必要もない。進めばいいと、分かる。
(……楽)
その感覚が、はっきりと形になる。考えなくていい。選ばなくていい。すでに整えられた流れに乗るだけでいい。それがこんなにも楽だと、知ってしまう。
問題を解く。次へ進む。分からなければすぐに補足が入る。詰まることがない。止まることがない。時間の感覚が、少しずつ曖昧になる。どれくらい進んだのか、自分でも分からない。ただ、流れが続いている。
(……止まらない)
ふと、そう思う。止まる理由がない。このまま続けていても問題がない。むしろ、この状態を維持した方がいいと感じる。
「少し休む?」
エヴァルドの声が落ちる。優しい提案。だが、その言葉に一瞬だけ引っかかる。休む――選択肢のように見える。それでも、ここから離れるという意味ではない。
「大丈夫です」
自然に答えている。自分でも少し驚くほど迷いがない。休んでもいいはずなのに、休まない方を選んでいる。理由ははっきりしている。この流れを止めたくないからだ。
(……ここにいたい)
その感覚に、遅れて気づく。ここにいれば、すべてがうまくいく。ここにいれば、迷わない。ここにいれば、失敗しない。だから、離れる理由がまた一つ消える。
「無理はしなくていいよ。少しずつでいいから」
変わらず穏やかな声。進む速度まで整えられる。急がなくていい。止まらなくてもいい。ただ、このままでいい。その言葉が自然に染み込んでいく。
気づけば、また次の問題に手を伸ばしている。思考より先に身体が動く。流れに乗ることが当たり前になる。
(……これ)
違和感が、ゆっくりと形になる。昨日の感覚に似ている。距離は違う。圧も違う。それでも――同じだ。
(逃げられない)
その結論に、静かに辿り着く。方法が違うだけで、やっていることは同じだ。拒否させない。否定させない。逃げる必要を消していく。そして、ここにいることを“正しい状態”にする。
そうすれば――離れられなくなる。
はっきりと理解する。遅れて、ようやく。それでも手は止まらない。視線も外れない。流れが続いている。このままでいいと、思ってしまっている。
(……だめなのに)
心のどこかで警鐘が鳴る。ここにいれば楽だ。ここにいれば安心だ。でも、それは自分で選んだ安心じゃない。用意された安心だ。それが一番危ない。
分かっている。分かっているのに、それでも完全に否定することができない。ミトは小さく息を吐く。その間にも時間は進む。何も問題は起きない。むしろ、すべてがうまくいく。
だから。
(ここでいいかも)
その考えが、ふと浮かぶ。すぐに打ち消す。それでも一度浮かんだものは消えない。静かに、確実に残る。




