表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/19

第5話 兄が近すぎる(前編)

 朝の空気は、静かすぎた。窓から差し込む光は柔らかく、温度も丁度いい。カーテンの揺れ方さえ穏やかで、何もかもが整っている。いつもと同じはずの自室なのに、どこか違うと感じたのは――たぶん、自分の中に残っている感覚のせいだ。


 昨日の訓練場。あの距離、あの視線、あの言葉。思い出すだけで、胸の奥がわずかにざわつく。距離がおかしい。視線がおかしい。それなのに、拒否できなかった。むしろ途中からは自然に受け入れていた。それが、怖い。


 ミトはゆっくりと息を吐き、ベッドから降りる。床に足をつけた瞬間、わずかな冷たさが伝わる。その感覚に、少しだけ意識が現実へ引き戻される。大丈夫。ここは自室だ。昨日のような距離はない――そう思った瞬間だった。


「起きてるね」


 扉の向こうから、柔らかな声が届く。反射的に身体が止まる。このタイミングで来るとは思っていなかった。まだ身支度も整っていない時間だ。


「ミト?」


 もう一度、名前を呼ばれる。優しい声。いつもと同じ、安心できる響き。それなのに――違和感が先に浮かぶ。早い。呼びに来るには、少し早すぎる。


「今、行くね」


 自然に返事をしている自分に気づく。断る理由はない。むしろ、断るという発想が浮かばない。扉を開けると、そこにいたのはエヴァルドだった。整えられた金の髪、穏やかな笑顔。昨日と同じ、優しい兄の顔。


「おはよう」


「おはよう、お兄様」


 言葉はいつも通りに返る。違和感だけが、少し遅れて残る。エヴァルドは一歩も踏み込まない。ただその位置に立ったまま、柔らかく微笑む。


「ちょうどいい時間に起きたね」


「え……?」


 何気ない一言のはずなのに、引っかかる。“ちょうどいい”という言い方。まるで起きる時間が決まっていたかのような響き。


「朝食、もう用意してあるよ。軽めにしてあるから、すぐ食べられる」


 さらりと続く言葉に、違和感が重なる。準備がいい、というレベルではない。ミトの行動に合わせて用意されるのが普通なのに、今日は違う。先に整えられている。


(……用意、してある?)


 思考が追いつく前に、言葉が重なる。


「昨日、少し疲れてたみたいだったから。朝はあまり重くない方がいいと思って」


 自然な理由。正しい判断。優しい配慮。言われれば納得してしまう。確かに昨日は疲れていた。訓練もあったし、気疲れもあった。だから――


(……でも)


 引っかかりが消えない。そこまで細かく把握していたのか。そして、それに合わせて事前に準備しているのか。


「顔色、少し戻ったね」


 ふと、手が伸びる。頬に触れられる。優しく、確認するような仕草。驚くほど自然で、拒否する隙がない。


「無理はしてない?」


 視線が合う。穏やかで、柔らかい。昨日とは違う。圧はない。ただ、安心できる。それなのに――


(逃げられない感じは、同じ)


 ふと、そう思ってしまう。理由は分からない。ただ、感覚だけが残っている。


「大丈夫です」


 答えている自分がいる。本当に大丈夫かどうかは分からないのに、否定する理由が見つからない。


「よかった」


 エヴァルドは微笑み、そのまま手を離す。距離は変わらない。それなのに、さっきよりも近く感じる。不思議な感覚だった。


「今日は午前中、軽めにしてるから。授業も調整してあるよ」


「え?」


 さらりと言われる。あまりにも自然に。自分の知らないところで、予定が変わっている。


「疲れが残ってる状態で無理する必要はないからね」


 言葉としては正しい。優しい。むしろ、ありがたい。それなのに――


(……調整、してある?)


 自分の許可なしに決まっている。その事実が、遅れて重くなる。


「嫌だった?」


 すぐに問いが重なる。逃げ道を用意するようでいて、逃げられない問い方。


「いえ……そんなことは」


 否定してしまう。嫌だとは言えない。言う理由がない。


「ならよかった」


 安心したように微笑む。その反応を見て、また思う。


(……優しい)


 本当に、優しい。全部、自分のためにやってくれている。だから――断れない。


 拒否する理由が、どんどん消えていく。


「行こうか」


 自然に差し出される手。取るかどうか迷う余地もなく、気づけば伸ばしている。触れた瞬間、軽く握られる。強くない。逃げられないほどでもない。それでも――離さない形だと分かる。


 優しく包まれているだけなのに、離れる理由がまた一つ消える。


「ゆっくりでいいよ」


 歩き出す。歩幅を合わせてくる。急かさない。強制しない。ただ、自然に導かれる。その流れの中で、ふと気づく。


(……これ)


 昨日と同じだ。方法は違う。圧も違う。それでも――結果は同じ。


(逃げられない)


 そう思った瞬間、わずかに指先に力が入る。握られている手は変わらない。緩めることも、強めることもなく、ただそのままの形で保たれている。


 逃げようとすれば、逃げられるはずの強さ。


 それなのに。


 離す理由が、見つからない。



 屋敷の廊下は、静かに整えられていた。朝の時間帯にもかかわらず、人の気配は最小限で、足音が響かないように配慮されているのが分かる。いつも通りのはずなのに、どこか違う。整いすぎている、という感覚。


 手を引かれたまま歩く。強く握られているわけではない。離そうと思えば離せる程度の力。それなのに、離さないまま進んでいる自分に気づく。


(……離せるのに)


 そう思った瞬間、指先にわずかな力が入る。だが、そのまま緩めることはしない。離す理由が見つからないからだ。


「昨日の復習、少しだけやろうか」


 エヴァルドが自然に言う。歩調は変わらない。視線も前を向いたまま。まるで、すでに決まっている予定を確認するような言い方。


「え……はい」


 頷いている自分がいる。断る理由はない。むしろ、やるのが当然の流れに感じる。


「重くならない程度にね。体調優先でいい」


 優しい言葉。逃げ道を用意しているように聞こえる。それなのに、実際には別の選択肢が提示されていないことに、遅れて気づく。


(……やらない、って選択肢は)


 浮かびかけて、消える。


 やらない理由がない。やる方が自然だ。そう思ってしまう。


 食堂に入ると、すでに席が整えられていた。窓際の、日当たりのいい位置。人の少ない時間帯に合わせた配置。目立たないが、確実に“居やすい”場所。


「座って」


 軽く手を引かれる。そのまま椅子に導かれる。動きに無駄がない。迷う余地がない。


 席についた瞬間、温かい飲み物が差し出される。タイミングが合いすぎている。まるで、座ることが前提になっていたかのように。


(……準備、されてる)


 昨日と同じ感覚が、ゆっくりと浮かぶ。


 食事は軽めだった。言われた通り、胃に負担のない内容。それでも必要な栄養は整っている。量も丁度いい。食べやすい。何も不満がない。


 だからこそ。


(……選ぶ必要がない)


 そう思ってしまう。


「どう?」


 エヴァルドが穏やかに問いかける。ミトの反応を見ながら、自然に様子を確認している。


「美味しいです」


 素直に答える。本当にそう思っているからだ。


「よかった。昨日より顔色いいね」


 安心したように微笑む。その言葉に、また一つ理由が積み重なる。


 ここにいれば大丈夫。


 そう思える材料が、増えていく。


「食べ終わったら、そのまま部屋で軽く確認しようか」


 さらりと続く。流れとして自然すぎる。


「図書室でもいいけど、今日は人が多い時間だから」


 選択肢が提示される。だが、その内容はすでに絞られている。


 部屋か、混んでいる図書室か。


 選ぶまでもない。


「……部屋で、お願いします」


 気づけばそう言っている。


「分かった」


 即答。迷いがない。


 その瞬間、ほんのわずかに違和感が浮かぶ。


(……決まってた?)


 自分が選んだはずなのに、最初からそうなることが分かっていたような反応。


 だが、それを追及する理由がない。


 食事を終え、立ち上がる。自然に手が取られる。さっきと同じ強さ。変わらない距離。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ