第5話 兄が近すぎる(前編)
朝の空気は、静かすぎた。窓から差し込む光は柔らかく、温度も丁度いい。カーテンの揺れ方さえ穏やかで、何もかもが整っている。いつもと同じはずの自室なのに、どこか違うと感じたのは――たぶん、自分の中に残っている感覚のせいだ。
昨日の訓練場。あの距離、あの視線、あの言葉。思い出すだけで、胸の奥がわずかにざわつく。距離がおかしい。視線がおかしい。それなのに、拒否できなかった。むしろ途中からは自然に受け入れていた。それが、怖い。
ミトはゆっくりと息を吐き、ベッドから降りる。床に足をつけた瞬間、わずかな冷たさが伝わる。その感覚に、少しだけ意識が現実へ引き戻される。大丈夫。ここは自室だ。昨日のような距離はない――そう思った瞬間だった。
「起きてるね」
扉の向こうから、柔らかな声が届く。反射的に身体が止まる。このタイミングで来るとは思っていなかった。まだ身支度も整っていない時間だ。
「ミト?」
もう一度、名前を呼ばれる。優しい声。いつもと同じ、安心できる響き。それなのに――違和感が先に浮かぶ。早い。呼びに来るには、少し早すぎる。
「今、行くね」
自然に返事をしている自分に気づく。断る理由はない。むしろ、断るという発想が浮かばない。扉を開けると、そこにいたのはエヴァルドだった。整えられた金の髪、穏やかな笑顔。昨日と同じ、優しい兄の顔。
「おはよう」
「おはよう、お兄様」
言葉はいつも通りに返る。違和感だけが、少し遅れて残る。エヴァルドは一歩も踏み込まない。ただその位置に立ったまま、柔らかく微笑む。
「ちょうどいい時間に起きたね」
「え……?」
何気ない一言のはずなのに、引っかかる。“ちょうどいい”という言い方。まるで起きる時間が決まっていたかのような響き。
「朝食、もう用意してあるよ。軽めにしてあるから、すぐ食べられる」
さらりと続く言葉に、違和感が重なる。準備がいい、というレベルではない。ミトの行動に合わせて用意されるのが普通なのに、今日は違う。先に整えられている。
(……用意、してある?)
思考が追いつく前に、言葉が重なる。
「昨日、少し疲れてたみたいだったから。朝はあまり重くない方がいいと思って」
自然な理由。正しい判断。優しい配慮。言われれば納得してしまう。確かに昨日は疲れていた。訓練もあったし、気疲れもあった。だから――
(……でも)
引っかかりが消えない。そこまで細かく把握していたのか。そして、それに合わせて事前に準備しているのか。
「顔色、少し戻ったね」
ふと、手が伸びる。頬に触れられる。優しく、確認するような仕草。驚くほど自然で、拒否する隙がない。
「無理はしてない?」
視線が合う。穏やかで、柔らかい。昨日とは違う。圧はない。ただ、安心できる。それなのに――
(逃げられない感じは、同じ)
ふと、そう思ってしまう。理由は分からない。ただ、感覚だけが残っている。
「大丈夫です」
答えている自分がいる。本当に大丈夫かどうかは分からないのに、否定する理由が見つからない。
「よかった」
エヴァルドは微笑み、そのまま手を離す。距離は変わらない。それなのに、さっきよりも近く感じる。不思議な感覚だった。
「今日は午前中、軽めにしてるから。授業も調整してあるよ」
「え?」
さらりと言われる。あまりにも自然に。自分の知らないところで、予定が変わっている。
「疲れが残ってる状態で無理する必要はないからね」
言葉としては正しい。優しい。むしろ、ありがたい。それなのに――
(……調整、してある?)
自分の許可なしに決まっている。その事実が、遅れて重くなる。
「嫌だった?」
すぐに問いが重なる。逃げ道を用意するようでいて、逃げられない問い方。
「いえ……そんなことは」
否定してしまう。嫌だとは言えない。言う理由がない。
「ならよかった」
安心したように微笑む。その反応を見て、また思う。
(……優しい)
本当に、優しい。全部、自分のためにやってくれている。だから――断れない。
拒否する理由が、どんどん消えていく。
「行こうか」
自然に差し出される手。取るかどうか迷う余地もなく、気づけば伸ばしている。触れた瞬間、軽く握られる。強くない。逃げられないほどでもない。それでも――離さない形だと分かる。
優しく包まれているだけなのに、離れる理由がまた一つ消える。
「ゆっくりでいいよ」
歩き出す。歩幅を合わせてくる。急かさない。強制しない。ただ、自然に導かれる。その流れの中で、ふと気づく。
(……これ)
昨日と同じだ。方法は違う。圧も違う。それでも――結果は同じ。
(逃げられない)
そう思った瞬間、わずかに指先に力が入る。握られている手は変わらない。緩めることも、強めることもなく、ただそのままの形で保たれている。
逃げようとすれば、逃げられるはずの強さ。
それなのに。
離す理由が、見つからない。
屋敷の廊下は、静かに整えられていた。朝の時間帯にもかかわらず、人の気配は最小限で、足音が響かないように配慮されているのが分かる。いつも通りのはずなのに、どこか違う。整いすぎている、という感覚。
手を引かれたまま歩く。強く握られているわけではない。離そうと思えば離せる程度の力。それなのに、離さないまま進んでいる自分に気づく。
(……離せるのに)
そう思った瞬間、指先にわずかな力が入る。だが、そのまま緩めることはしない。離す理由が見つからないからだ。
「昨日の復習、少しだけやろうか」
エヴァルドが自然に言う。歩調は変わらない。視線も前を向いたまま。まるで、すでに決まっている予定を確認するような言い方。
「え……はい」
頷いている自分がいる。断る理由はない。むしろ、やるのが当然の流れに感じる。
「重くならない程度にね。体調優先でいい」
優しい言葉。逃げ道を用意しているように聞こえる。それなのに、実際には別の選択肢が提示されていないことに、遅れて気づく。
(……やらない、って選択肢は)
浮かびかけて、消える。
やらない理由がない。やる方が自然だ。そう思ってしまう。
食堂に入ると、すでに席が整えられていた。窓際の、日当たりのいい位置。人の少ない時間帯に合わせた配置。目立たないが、確実に“居やすい”場所。
「座って」
軽く手を引かれる。そのまま椅子に導かれる。動きに無駄がない。迷う余地がない。
席についた瞬間、温かい飲み物が差し出される。タイミングが合いすぎている。まるで、座ることが前提になっていたかのように。
(……準備、されてる)
昨日と同じ感覚が、ゆっくりと浮かぶ。
食事は軽めだった。言われた通り、胃に負担のない内容。それでも必要な栄養は整っている。量も丁度いい。食べやすい。何も不満がない。
だからこそ。
(……選ぶ必要がない)
そう思ってしまう。
「どう?」
エヴァルドが穏やかに問いかける。ミトの反応を見ながら、自然に様子を確認している。
「美味しいです」
素直に答える。本当にそう思っているからだ。
「よかった。昨日より顔色いいね」
安心したように微笑む。その言葉に、また一つ理由が積み重なる。
ここにいれば大丈夫。
そう思える材料が、増えていく。
「食べ終わったら、そのまま部屋で軽く確認しようか」
さらりと続く。流れとして自然すぎる。
「図書室でもいいけど、今日は人が多い時間だから」
選択肢が提示される。だが、その内容はすでに絞られている。
部屋か、混んでいる図書室か。
選ぶまでもない。
「……部屋で、お願いします」
気づけばそう言っている。
「分かった」
即答。迷いがない。
その瞬間、ほんのわずかに違和感が浮かぶ。
(……決まってた?)
自分が選んだはずなのに、最初からそうなることが分かっていたような反応。
だが、それを追及する理由がない。
食事を終え、立ち上がる。自然に手が取られる。さっきと同じ強さ。変わらない距離。




