第4話 婚約者が近すぎる(レオンハルト視点)
レオンハルト・ヴァルディスは、静かな廊下を歩いていた。石造りの床に靴音が規則正しく響く。一定の歩幅、乱れのない呼吸。外から見れば、いつもと何も変わらない王子の姿だった。
だが内側では、確実に何かが変わっている。その原因も、はっきりしていた。ミト・ローゼンクランツ。婚約者となった少女。ただそれだけの存在のはずだった。
王族の婚約は珍しいものではない。政治的な結びつきとして決められ、必要に応じて維持される関係。そこに個人的な感情を挟む余地は少ないし、挟むべきでもない。そう教えられてきたし、自身でもそう理解している。
だから、婚約の話を聞いた時も特別な感情はなかった。相手がローゼンクランツ公爵家の娘であることは把握していたが、それ以上でもそれ以下でもない。必要な相手であり、適切な相手。それで十分だった。
――あの日までは。
思い出すのは、広間での最初の対面。扉が開き、光の中に現れた少女。淡い色の髪、まだ幼さの残る顔立ち。形式通りに進むはずの場面。そのはずだった。
だが、その瞬間に違和感が生まれた。ミトがこちらを見た、その一瞬で。
あの視線は、初対面のものではなかった。驚きでも、緊張でも、畏怖でもない。もっと別のもの。理解。そして――恐怖。
(なぜだ)
ミトは確かに恐れていた。だがそれは漠然としたものではない。対象を正確に捉えた恐怖。逃げようとして、しかし逃げられないと理解している目。あの視線をレオンハルトは知っている。戦場で見たことがある。自分より上位の存在を前にした時、人が見せる目。
(なぜ、私に向ける)
理解できない。ミトはまだ十歳だ。戦場など知るはずがない。王族の圧に萎縮することはあっても、あそこまで明確な恐怖を抱く理由にはならない。それなのに、彼女はそうした。そして、あの言葉。破滅ルート。意味の分からない単語。だが、その響きだけが妙に残った。言い間違いだと言っていたが違う。あれは意図ではなく、思考の奥から漏れたものに近い。
(知っている)
ミトは何かを知っている。それが何かは分からない。だが確実に“何か”がある。そしてそれは、おそらく自分に関係している。だから気になった。最初は、それだけだった。
確認するために会いに行った。観察するために距離を詰めた。反応を見るために言葉を交わした。その結果、分かったことがある。ミトは隠している。だが、隠しきれていない。視線、呼吸、言葉の選び方。すべてがわずかにずれている。普通の令嬢なら見せない反応を、彼女は見せる。それでいて表面は整っている。礼儀は完璧で、受け答えも正確。外側だけ見れば理想的な公爵令嬢だ。だからこそ目立つ。“普通”の中にある違和感。
(面白い)
その評価は間違っていない。だが、それだけでは足りなかった。レオンハルトは歩みを止め、窓の外へ視線を向ける。遠くにローゼンクランツ邸の方角がある。
あの時、自分が口にした言葉を思い出す。
(視界から消えるのは、不快だ)
正確だった。ミトが視界にいないと落ち着かない。どこにいるのか、何をしているのか分からない状態が引っかかる。理由は分からない。だが確かにそう感じる。それは初めての感覚だった。これまで他人に対してそう思ったことはない。必要な人間はいるが、いなくても問題はない。だがミトは違う。いないと気になる。思考がそちらへ向く。
(なら、近くに置けばいい)
結論は単純だった。分からないものは手元に置く。観察し、理解する。逃げるなら、逃げられない距離に置く。それが最も合理的だ。
思考は、庭での光景へ戻る。剣を交えた時の感触。あの踏み込み。あの躊躇。
(制御している)
ミトは力を抑えていた。必要以上に踏み込まないよう、自分で制限をかけている。理由は分からない。だがそれもまた“普通ではない”。魔術も同じだ。火と水の同時制御。簡単だと言っていたが、あれは明らかに高度だった。意識的に調整している。幼い年齢で扱えるものではない。
(やはり、隠している)
能力も、思考も。それ以外も。
レオンハルトは静かに息を吐く。面白い。だが、それだけでは足りない。知る必要がある。理解する必要がある。
(逃がさない)
その結論に迷いはなかった。ミトは逃げようとしている。距離を取ろうとしている。関わらないようにしている。あの目が、それを示していた。だからこそ距離を詰める。離れようとするなら、離れられない位置へ。視界から消えるなら、消えない場所へ。それだけだ。
レオンハルトは再び歩き出す。足音は変わらない。だが思考の方向は完全に定まっていた。
(ミト)
名前を思い浮かべる。違和感は消えない。だが、それでいい。その違和感こそが理由になる。理解するまで離さない。逃げようとするなら、逃げられない位置に置く。それが最も合理的だ。
「……面白い」
小さく呟く。その言葉には、わずかな熱が混じっていた。自覚はない。だが確実に変化は始まっている。それは観察ではなく、執着に近いもの。本人だけが気づいていない段階の、最も危うい形。
明日も会う。その次も、必要なだけ繰り返す。理由は後からついてくる。それでいい。
――逃がすつもりは、ない。




