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第3話 婚約者が近すぎる(後編)

 空気が、重い。


 言葉は少ない。動きもほとんどない。それでも分かる。今ここにあるのは訓練の空気じゃない。もっと静かで、もっと逃げ場のないものだ。


 ミトはその場に立ったまま、わずかに呼吸を整える。整えようとするほど、胸の奥に残る違和感が濃くなる。距離が近い。それは最初から分かっていたはずなのに、今さらのように重くのしかかる。視線が外れない。それもずっとそうだったはずなのに、急に意味を持ち始める。言葉は少ないのに、決定的な意味だけは伝わってくる。


 すべてが少しずつ、逃げ道を塞ぐ方向に積み重なっている。


(……おかしい)


 ようやく、その言葉が形になる。遅すぎるくらいだった。最初から違和感はあった。距離も、視線も、言葉も、全部おかしかった。それなのに受け入れていた。理由は簡単だ。強制されていなかったから。拒否する理由がなかったから。そして――少しだけ、楽だったから。


 レオンハルトは動かない。距離も位置もそのまま維持されている。まるでそれが最初から正しい配置だったかのように。エヴァルドも同じだ。一歩も踏み込まないまま、逃げる方向だけを塞いでいる。片方は外から距離を詰める。片方は内側から出口を閉じる。どちらも何も奪っていない。どちらも強制していない。それなのに――動けない。


 足が止まっている。前にも後ろにも、どちらにも踏み出せない。理由がないわけじゃない。逃げたい理由ははっきりある。距離がおかしい。このままじゃまずい。それは分かっている。それでも、動く理由が弱い。逃げる必要が薄れている。それが一番おかしい。


(なんで……)


 疑問が浮かぶ。その答えはすぐには出ない。だが代わりに、別の感覚が浮かび上がる。――慣れている。この距離に、この視線に、この空気に。気づけばそれが当たり前になっている。


(……いつから?)


 問いが記憶を引きずり出す。十歳の頃。王城の庭園。初めて顔を合わせた日。あのときも同じだった。近い、と思った。初対面の距離ではなかった。婚約者として顔を合わせる場とはいえ、あまりにも自然に隣に立たれていた。違和感はあった。けれど拒否する理由がなかった。


『問題ない』


 あのときも、そう言われた。迷いなく、当然のように。そして、それを受け入れてしまった。


(……あのときから)


 現在に戻る。訓練場。変わらない距離。変わらない視線。違うのは、自分の認識だけだ。あの頃はただ“近い”と思っただけだった。今は違う。


(近い、じゃない)


 理解してしまう。これは意図的に詰められている距離だ。少しずつ、自然に、拒否できない形で。気づかないうちに慣らされるように。逃げなくてもいい理由を積み重ねながら。


(……逃げないと)


 ようやく、その言葉が浮かぶ。遅すぎる判断。それでも今ならまだ間に合うかもしれない。そう思って、ほんのわずか足に力を込める。後ろへ、たった一歩。それだけでいい。


 それなのに――動かない。


 身体が反応しない。命令は出ているのに実行されない。まるで最初から、その動きが許可されていないかのように。


(……なんで)


 視線が落ちる。レオンハルトと合う。逃げられない。その瞬間、理解してしまう。身体が動かない理由。それは怖いからじゃない。止められるからでもない。ただ――離れる意味を見失っているからだ。


 ここにいれば困らない。ここにいれば整っている。ここにいれば守られる。だから離れる理由が弱くなる。それが積み重なる。そして――動けなくなる。


 答えに辿り着く。遅れて。ようやく。だがその時にはもう、距離は簡単に戻せるものじゃなくなっていた。


 ミトは小さく息を吐く。胸の奥で警鐘が鳴る。それでも、まだ完全には拒否できない。なぜなら、ほんの少しだけ――この距離が、心地いいと感じてしまっているから。


(逃げなきゃ、だめなのに)


 分かっている。頭でははっきり理解している。それなのに、足が動かない。後ろへ下がるだけの、たった一歩が踏み出せない。視線も外せない。言葉も出てこない。逃げる理由はあるのに、その理由が行動に繋がらない。まるで最初から、“逃げる”という選択肢が存在していなかったかのように。


 その不自然さに、ようやく気づく。距離がおかしい。視線がおかしい。言葉の選び方もおかしい。それなのに受け入れていた。最初からずっと、少しずつ、当たり前のように。


「ミト」


 低く、静かな声が落ちる。レオンハルトの声だった。名前を呼ばれただけなのに、反射的に顔を上げてしまう。視線が合う。その瞬間、距離がさらに詰まったように感じた。実際には動いていないはずなのに、確実に近づいたと分かる。逃げ場が、もうない距離。


「問題ない。そのままでいい」


 短い言葉。いつもと同じはずの言葉。それなのに、今はまったく違う意味を持って響く。肯定、許可、固定。そのすべてが、静かに重なって落ちてくる。


 思考が、ゆっくりと緩む。張り詰めていたものがほどける。考えなくていい。迷わなくていい。このままでいいと、そう言われている。その意味が、はっきりと分かってしまう。


 胸の奥が、静かに軽くなる。呼吸が整う。判断を手放していいということが、こんなにも楽だと知ってしまう。


 だからこそ――危ない。


(……だめ)


 反射的に否定する。それは楽だ。楽すぎる。だからこそ、戻れなくなる。このまま受け入れてしまえば、全部を預けてしまうことになる。距離も、選択も、思考すらも。


(これ、逃げられないやつだ)


 はっきりと確信に変わる。遅すぎる理解。それでも、もう曖昧には戻れない。違和感は最初からあった。距離も、視線も、言葉も、すべてがおかしかった。それでも受け入れていたのは自分だ。気づかないうちに、慣らされるように、少しずつ。


 逃げなくてもいい理由を、積み上げられていた。


 ミトは小さく息を吐く。逃げたい、離れたい、そう思っているはずなのに、完全に拒否することができない。理由ははっきりしている。この距離が、少しだけ心地よいと感じてしまったからだ。


(……最悪)


 自覚した瞬間、背筋が冷える。外側から詰められた距離だけじゃない。内側にも、もう理由ができている。拒否できない理由。離れたくない理由。それがほんの少しでも存在してしまった時点で、もう簡単には逃げられない。


 レオンハルトは何も言わない。ただ、こちらを見ている。その視線だけで、十分だった。動かなくても距離は変わらない。変えなくても、このままでいいと示されている。


 エヴァルドも同じだ。穏やかなまま、その位置で動かない。逃げる方向だけを塞いで、必要なものはすべて揃っているという顔をしている。どちらも奪わない。どちらも強制しない。ただ、逃げる必要だけを消していく。


 選択肢を奪うのではなく、“選ばなくていい状態”を作ることで、結果的に逃げ道を消していく。それが一番、逃げられない。


(逃げる理由が、なくなってる)


 ふと、そんな考えが浮かぶ。逃げたいはずなのに、逃げる必要が見つからない。ここにいれば困らない。ここにいれば整っている。ここにいれば守られる。だから離れる理由が消えていく。その状態がどれだけ危険なのか、分かっているのに。


 分かっているのに、それでも。


 完全に否定することができない。


 足が動かない。呼吸だけがやけに静かに響く。視線が外れない。距離が変わらない。このままでもいいと、思わされている。それが一番、怖い。


 ミトはゆっくりと息を吐く。胸の奥で、最後の警鐘が鳴る。それでも、体は動かなかった。


 気づけば、選択肢は削られていた。最初からなかったわけじゃない。ひとつずつ、いらないと判断されて、気づかないうちに消されていた。


 だから。


 残っているのは――ここにいることだけ。



 ――婚約者から溺愛されて、逃げられない。



 その事実に気づいたときには、もう遅かった。

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