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第2話 婚約者が近すぎる(中編)

 下がったはずの距離は、結局ほとんど変わっていなかった。ほんの一歩分。それだけなのに、それ以上離れることができない。意識すればするほど足が止まり、動こうとするほど視線に縫い止められる感覚が強くなる。


「続ける」


 短く告げられる。拒否する余地はない。ミトは剣を構え直し、今度は意識的に距離を取ろうとする。だが、その動きに合わせるようにレオンハルトも踏み込んでくる。あまりにも自然に、何事もないかのように。


(……詰めてくる)


 意図的かどうかは分からない。それでも結果として距離は変わらない。むしろ、“近い状態を維持されている”という感覚が強くなる。逃げても意味がない、そう思わされる距離。


 剣が動く。先ほどよりも速く、鋭く、迷いがない。受ける。流す。反撃に入る。だが通らない。完全に見切られているわけではない。それなのに、“通していい動き”と“止める動き”を選ばれている。


 数合、打ち合う。その中で、確信に近いものが浮かび上がる。


(試されてる……?)


 ただの訓練ではない。評価されている。選別されている。そんな空気。自分の動きがどう見られているのか、どこまで許容されているのか、すべてが相手の手の内にあるような感覚。


 次の瞬間、剣が止まった。


「十分だ」


 短く言われる。呼吸が乱れていることに気づく。思っていた以上に集中していたらしい。だが、その理由は疲労ではない。意識のほとんどを、距離と視線に持っていかれていたからだ。


「今の動き、無駄が少ない。訓練は受けているな」


「はい、一応……」


 曖昧に答えると、レオンハルトはわずかに間を置く。「一応、であれなら問題ない」と淡々と肯定し、そのままほんの一歩だけ距離を詰めた。


 さっきと同じ。いや、ほんのわずかだが、確実に近い。


(……また)


 反射的に下がろうとして止まる。さっきと同じ感覚。足が動かない。逃げようとする意志と、動かない身体が噛み合わない。


 そのまま視線が合う。


「なぜ、下がる」


 静かな問い。「距離は問題ない。維持すればいい」と、迷いなく言い切られる。


(維持って……)


 言葉の違和感が頭に残る。それでも、反論する余地がない。なぜなら、その距離のまま見られているからだ。視線が外れない。逃げ場がない。


 観察されている。測られている。それなのに、嫌ではない。


(……落ち着く?)


 一瞬、そんな感覚がよぎる。すぐに否定する。落ち着いているわけではない。何も考えなくていいだけだ。距離も判断も、全部相手が決めているから。


 だから楽に感じる。


(それ、よくないやつじゃない?)


 遅れて危機感が浮かぶ。だが、その危機感さえも、どこか遠い。


「集中が途切れている」


 指摘と同時に次の一手。わずかに遅れて受け、体勢が崩れる。


「あ……」


 踏み直そうとした瞬間、肩に手が触れる。支えられる。強くはないのに確実に止められる位置。


 距離が、一気に詰まる。


 ほとんどぶつかる寸前。呼吸がかかる。温度が分かる距離。


(近い)


 さっきまでとは比べ物にならない。完全に、逃げ場がない距離。それでも、離れない。


「問題ない。崩れたときの対応も悪くない」


 すぐ近くで落ちる声。評価されているだけのはずなのに、意識がそこに引き寄せられる。肩に触れている手、離れない距離、逃げられない視線。


 すべてが、逃げるという選択を遅らせる。


(……これ、訓練だよね?)


 確認するように思うが、答えは出ない。数秒、そのままの距離が続く。


 長い。ほんの数秒のはずなのに、やけに長く感じる。


 ようやく手が離れる。半歩だけ距離が空く。それでも十分に近い。


 離れたはずなのに、さっきより遠く感じない。むしろ、この距離が“適正”だと刷り込まれたような違和感が残る。


「……少し、想定より早いな」


「え?」


「順応が。このままでも問題はない。調整は可能だ」


(調整って何……)


 言葉の意味が分からない。だが、分からないままでも問題ない気がしてしまう。理解しなくても進んでしまう流れ。


 それが、一番怖い。


 そのときだった。


「……殿下」


 低い声が割り込んだ瞬間、空気が変わった。先ほどまでの訓練の緊張とは違う、もっと静かで、逃げ場のない重さが落ちる。訓練場の入口に立っていたのは、エヴァルド・ローゼンクランツ。柔らかな金の髪に、穏やかな微笑。いつもと同じはずの兄の姿なのに、なぜか違って見えた。


(……空気、違う)


 そう思った瞬間、背中にかかっていた力が抜ける。名前を呼ばれる前から、もう分かっていた。


「ミト」


 やわらかな声。呼ばれただけで、呼吸が整う。安心する。――それと同時に、逃げ場、という言葉が浮かぶ。


 レオンハルトの視線は外れない。エヴァルドの視線は動かない。どちらも穏やかなのに、どちらも引く気配がない。


「そろそろ時間だ」


 穏やかな口調のまま、エヴァルドは一歩も踏み込まない。ただ、その場に立ったまま視線だけを向ける。距離を詰めない代わりに、逃げる余地を塞ぐような立ち位置。


「把握している。あと数分は問題ない」


 レオンハルトは即答する。迷いがない。視線も、距離も、一切変わらない。そのままの位置で、こちらを見ている。


 言葉だけを聞けば、会話は成立している。衝突も、対立もない。だが――


(……動けない)


 空気だけが、確実に変わっていた。


「そうですか」


 エヴァルドは微笑んだまま、わずかに目を細める。声も表情も変わらない。だが、その一瞬で空気がさらに重くなる。ほんのわずか、逃げ場が狭くなる。


 ミトはその場に立ったまま動けない。どちらも何もしていない。それなのに、動く理由が消えていく。踏み出そうとする意志だけが浮いて、足が追いつかない。


 視線が交差する。


 それだけで、位置が固定される。


 王子は外から距離を詰める。自然に、当たり前のように。拒否する隙を与えない形で。


 兄は内側から塞ぐ。優しく、穏やかに。逃げる必要そのものを消していく形で。


 どちらも強制ではない。


 どちらも正しい。


 だからこそ――否定できない。


(……逃げられない)


 その言葉が、ゆっくりと形を持つ。


 足がわずかに動きかけて、止まる。動こうとするたび、どちらかの視線が落ちる。その瞬間、距離が戻るような錯覚が走る。


 気づけば立ち位置は固定されている。最初からそこにいたかのように、自然に。


 逃げようとする意識だけが、浮いている。


(囲まれてる)


 はっきりと、そう思った。


 言葉にした瞬間に何かが決まってしまいそうで、思考が止まる。それでも、感覚だけは残る。


 この距離は偶然じゃない。


 最初から、少しずつ。


 当たり前のように。


 気づかないうちに。


 逃げられない形に、整えられていた。


 そして今、その完成形が目の前にある。


 優しい顔をしたまま、何も奪わずに。


 ただ――選択肢だけを、消していく。

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