第1話 婚約者が近すぎる(前編)
それに気づいたのは、ほんの些細な違和感だった。
――距離が、近い。
王立アルディシア学園の訓練場。朝の冷えた空気の中で向かい合うには、明らかに近すぎる間合いだった。まだ剣を振ってもいないのに、相手の呼吸が分かる位置にいる。ほんの一歩踏み込めば触れてしまうほどの距離に、違和感が遅れて浮かぶ。
(近い、よね……?)
気づくのが遅れたことに、ミトは内心で小さく息を飲む。本来ならもっと早く感じるはずの違和感なのに、それを“当たり前”として受け入れていた自分に気づく。
目の前にいるのは、この国の第一王子――レオンハルト・ヴァルディス。淡い銀の髪、冷たい青の瞳。隙のない立ち姿は完成されていて、本来ならば簡単に距離を詰めていい相手ではない。それなのに、どうしてか自然にここにいる。
「どうした」
低い声が落ちる。距離が近いせいで、耳元に直接触れるように響く。
(……近い)
それだけで意識が引き寄せられる。
「いえ、その……」
言葉が続かない。視線を逸らそうとして、逸らせない。レオンハルトの視線はまっすぐで、逃がす気がないように見えた。
「集中していないな」
静かに指摘される。怒気はない。ただ淡々としている。それが余計に、逃げ場をなくす。
「すみません」
反射的に謝ると、彼はわずかに目を細めた。「構わない。だが理由は」と、間を置かずに続く。「気が散る要因があるなら排除する」
当たり前のように言われた言葉に、遅れて違和感が刺さる。“排除”という単語を軽く使うことに躊躇がない。それでも否定できない。この人なら本当にやる、と直感してしまうからだ。
「その……少し、距離が」
言ってから、しまったと思う。だが――
「距離?」
本気で分かっていない顔だった。わずかに首を傾げる仕草が自然すぎて、言葉が詰まる。
「問題ない。この程度は適正だ」
あっさりと言い切られる。その迷いのなさに、反論は飲み込まれる。
(適正じゃないと思うんだけど……)
心の中だけで呟く。口には出せない。なぜなら、彼は一歩も引かないからだ。むしろほんのわずか、距離が詰まる。意図的なのか無意識なのか分からない。ただ、逃げ場がない。
「では、続ける」
言葉と同時に剣が動いた。速い。無駄がない。反射的に受けると、衝撃が腕に伝わる。強い、という認識よりも先に、迷いのなさが印象に残る。
(……迷いがない)
次の一撃。流して、踏み込む。無意識の動きだった。一瞬だけ、レオンハルトの目が変わる。「……なるほど」と低く落ちる声。剣が止まり、短い静寂が落ちる。
視線が絡む。逃げられない。
「それなりに動けるな」
軽く言われたはずの評価が妙に重く響く。「いえ、そんな……」と否定しかけた、そのとき。
手首に触れられた。
ぴたりと止められる。強くないのに動けない。距離が、また縮まる。
「ここ」
指先がミトの手元を示す。「癖が出ている」と、淡々と告げる。ただそれだけの指摘なのに、意識がそこに集中する。離れると思った手は、ほんの一瞬だけ長く留まり、確認するように触れていた。
「修正できるか」
ようやく離れる。空気が軽くなる。自分でも分かるほど、意識していた。
「……はい」
返事が少し遅れる。声がわずかに震える。レオンハルトは何も言わず、ただじっと見ている。その視線は観察というより、逃げ場を塞ぐようで。
(……見られてる)
数秒の沈黙が長く感じる。やがて「いい。そのままで問題ない」と短く告げられる。それは許可のようであり、肯定のようでもあった。
ミトはゆっくりと息を吐き、剣を下ろす。その瞬間、ふいに記憶が引き寄せられた。
初めて会ったのは、十歳のとき。王城の庭園で、婚約者として顔を合わせた日。緊張していたはずなのに、覚えているのは別の感覚だった。
(近い)
初対面の距離ではなかった。自然に、当たり前のように隣に立たれていた。逃げる理由も、断る理由も見つからないまま。
『問題ない』
あのときも、同じ言葉を言われた。何の疑いもなく、当然のように。
現在に引き戻される。訓練場。変わらない距離。変わらない視線。
(……あのときから)
今なら分かる。あのときからずっと、距離は当たり前のように詰められていた。
ミトは無意識に一歩だけ後ろへ下がる。ほんのわずかな距離。それでも、離れようとした。
その動きに、レオンハルトの視線が落ちる。逃さないように、あるいは逃がさないように。空気が一瞬だけ張り詰める。
「下がる必要はない。その位置で問題ない」
静かな声。命令ではないのに、逆らう理由が見つからない。距離は戻されていない。それでも、これ以上離れてはいけない気がした。
(戻れない)
たった数歩の距離のはずなのに、なぜかそれ以上が遠い。ミトはゆっくりと息を整えながら、胸の奥で鳴る警鐘に気づく。
(……これ)
言葉にはならない違和感。それでも確かに分かる。
(逃げないと、まずい)
理由はまだ曖昧なまま。それでも、この距離が正しくないことだけは分かる。
そして同時に――
(……でも)
完全に拒否することも、できなかった。
ちょっと長くなりましたので3分割しました。
初めてなので、長さ等がわからないため、読みづらかったらすみません。
大幅改訂しました。




