婚約者に出会った日、私は思い出した
ミト・ローゼンクランツは、その日が特別な意味を持つことを理解していた。
いつもよりも時間をかけて整えられた髪は、淡い桜色が柔らかく光を受けて揺れている。丁寧に編み込まれた一部が肩口でほどけるように流れ、その先に飾られた小さな宝石が、わずかな動きにもきらりと反射した。ドレスもまた、普段のものとは明らかに違っていた。白を基調にしながらも、淡い金糸で繊細な模様が刺繍され、動くたびに光の陰影を生み出す。十歳の少女にはやや重たい装いではあるが、それでもミトの姿を引き立てるには十分だった。
鏡に映る自分の姿を見つめながら、ミトはわずかに息を整える。
幼い。そう思う。
顔立ちは整っているが、まだあどけなさが残る。身体も華奢で、背丈もそれほど高くはない。けれど今日に限っては、その幼さを言い訳にはできない。
今日は、王城へ向かう日だった。
そして――婚約者となる相手と、初めて顔を合わせる日でもある。
「ミト様、そろそろお時間でございます」
背後からかけられた声に、ミトは鏡から視線を外した。
「ありがとう」
短く答え、ゆっくりと立ち上がる。ドレスの裾が床をなぞる音が、やけに大きく響いた気がした。
部屋を出ると、すでに廊下には父と兄の姿があった。
ローゼンクランツ公爵である父は、厳格な表情を崩さずに立っている。その隣には、エヴァルドがいた。
淡い金色の髪に、落ち着いた青灰色の瞳。まだ十四歳でありながら、その佇まいにはすでに完成された貴族の気品がある。背筋は伸び、無駄な動きは一切ない。穏やかな笑みを浮かべながらも、その奥には常に何かを見据えているような静けさがあった。
「準備はいいか、ミト」
父の声は低く、無駄がない。
「はい、お父様」
ミトは小さく頷いた。
その返答に対し、父はそれ以上何も言わない。ただ一度だけ視線を確認するように向け、歩き出した。
エヴァルドがその後ろに続き、ミトもまた静かに足を進める。
屋敷を出て馬車に乗り込むまでの一連の動きは、すべてが淀みなく進んだ。従者たちの動きも完璧で、誰一人として無駄な動作をしない。ローゼンクランツ公爵家という名にふさわしい整然とした空気がそこにはあった。
馬車がゆっくりと走り出す。
窓の外に広がる景色は、見慣れた領地の風景から、やがて王都の街並みへと変わっていった。整備された石畳の道、人々の行き交う様子、遠くに見える城の尖塔。すべてが現実のものとして存在している。
けれどミトにとっては、そのすべてがどこか“知っているもの”だった。
(……ゲームの中の景色)
まだはっきりとした形にはなっていない。けれど、どこかで見たことがあるという感覚だけが、心の奥に残っている。
それが何なのかを、この時のミトはまだ知らない。
「緊張しているかい?」
隣から、柔らかな声がかけられた。
エヴァルドだった。
「少しだけ……です」
正直に答えると、彼はわずかに微笑んだ。
「大丈夫だよ。兄さんがいる」
その言葉は優しく、安心を与えるものだった。
けれど同時に、ミトの胸の奥に小さな違和感が生まれる。
理由は分からない。ただ、その言葉がやけに印象に残った。
馬車はやがて王城の門をくぐり、広い中庭へと入る。石造りの巨大な建物が目の前にそびえ立ち、その存在感は圧倒的だった。
降り立った瞬間、空気が変わる。
王城特有の、張り詰めた静けさ。多くの人間が行き交っているはずなのに、どこか音が抑えられているような感覚。
案内役の騎士に導かれながら、ミトたちは城の内部へと進んでいく。
長い廊下を歩き、いくつもの扉を通り過ぎる。そのすべてが豪奢でありながら、無駄な装飾はない。洗練された権力の象徴。
やがて、一際大きな扉の前で足が止まった。
「こちらでございます」
騎士がそう告げ、一歩下がる。
父が振り返り、ミトを見た。
「ミト。ローゼンクランツの名を忘れるな」
「はい」
短く返事をする。
深く息を吸い、吐く。
大丈夫。礼をして、名乗るだけ。教えられた通りにすればいい。
そう自分に言い聞かせた瞬間だった。
扉が開かれる。
光が差し込む。
白と青を基調とした広間。高い天井、磨かれた床、奥に掲げられた王家の紋章。
そして――その中央に、一人の少年が立っていた。
銀白の髪が光を反射する。
氷のように透き通った青い瞳。
整いすぎた顔立ちは、年齢を感じさせない完成度を持っていた。
その少年が、ゆっくりと視線を上げる。
ミトを見る。
その瞬間。
何かが、決定的に変わった。
銀白の髪の少年――レオンハルト・ヴァルディスは、静かにミトを見つめていた。その視線はまっすぐで、揺らぎがない。まだ十二歳であるはずの少年のそれではなく、どこか完成された意思を感じさせるものだった。ミトはその視線を受け止めたまま、ほんのわずかに呼吸が浅くなるのを自覚する。見られている、というよりは、見透かされているような感覚があった。
「――君が、私の婚約者か」
低く、落ち着いた声が広間に響く。その声音は冷たいわけではないが、感情の起伏がほとんど感じられない。事実を確認するような、淡々とした響きだった。
その言葉を聞いた瞬間、ミトの中で何かが軋んだ。
小さな違和感が、音を立てて広がっていく。胸の奥に引っかかるような感覚。見たことがある、知っている、そういう曖昧な感覚が急速に膨らんでいく。
痛みが走る。
鋭くはないが、逃れようのない圧迫感のようなものが頭の奥を締め付けた。
視界が一瞬だけ揺れる。
その揺らぎの中で、まったく別の光景が重なった。
夜の道路。アスファルトに反射する街灯の光。遠くから近づいてくる強烈な白い光。ブレーキ音。叫び声。身体が宙に浮く感覚。次の瞬間に訪れる、理解不能な衝撃。
――トラック。
その単語が、唐突に頭の中に浮かぶ。
同時に、別の記憶が一気に押し寄せてきた。手の中のコントローラー。画面に映る華やかなキャラクターたち。選択肢。好感度。エンディング分岐。何度も繰り返したプレイ。お気に入りのルート。バッドエンド。断罪シーン。
そして――ミト・ローゼンクランツ。
その名前が、強く、はっきりと刻まれる。
悪役令嬢。ヒロインをいじめ、王子の怒りを買い、最後にはすべてを失う存在。
処刑。
その結末が、あまりにも鮮明に思い出される。
ミトは一歩、足を踏み出そうとして、そのまま動きを止めた。身体が言うことを聞かないわけではない。ただ、何を優先すべきかを判断するのに、ほんのわずかな時間が必要だった。
ここで倒れるわけにはいかない。
ここで混乱を見せるわけにもいかない。
ローゼンクランツ公爵令嬢としての振る舞いを崩してはいけない。
そう理解しているにもかかわらず、口からこぼれた言葉はまったく別のものだった。
「……破滅ルート……」
小さな、しかし確かに聞き取れる声だった。
広間の空気が、わずかに揺れる。
父の視線が鋭くなる。王妃が不思議そうに目を細める。周囲の者たちが一瞬だけ動きを止める。
そしてレオンハルトだけが、ほんのわずかに目を細めた。
「破滅?」
問い返される。
ミトははっとして口元を押さえた。
「い、いえ……何でもございません」
即座に取り繕う。声は震えていない。動きも不自然ではない。だが内心では、心臓が激しく脈打っていた。
記憶が戻った。
それは確定している。
前世の記憶。ゲームの知識。そして自分がどのような未来を辿るのかという結末。
この世界は、ゲームの中の世界だ。
そして自分は、その中で最も避けなければならない役割を与えられている。
――悪役令嬢。
このままでは、確実に死ぬ。
その事実が、ようやく実感として胸に落ちてきた。
「ローゼンクランツ嬢」
王の声が響く。穏やかでありながら、逆らえない重みを持つ声だった。
「こちらへ」
促され、ミトはゆっくりと前へ進む。足取りは安定している。ドレスの裾を軽く持ち上げ、教えられた通りに礼をする。
「ミト・ローゼンクランツでございます。本日はお目にかかれて光栄です」
声は落ち着いていた。少なくとも外から見れば、何の問題もない令嬢の振る舞いだった。
だが内側では、思考が高速で巡っている。
王子と距離を取る必要がある。ヒロインに関わらないようにする。目立たないように行動する。断罪イベントを回避するための条件を、ひとつずつ確認していく。
そのためには――
「レオンハルト・ヴァルディスだ」
目の前に立った王子が、静かに名乗る。距離が近い。思っていたよりもずっと近い位置に立っている。
「今日から、君は私の婚約者になる」
その言葉に、ミトの胸がわずかに冷える。
ゲームでも同じ場面はあった。だがその時の彼は、もっと形式的で、感情のない対応だったはずだ。
なのに今の彼は違う。
淡々としているのに、どこか意志が強い。
ミトは差し出された手に、自分の手を重ねた。指先が触れる。その瞬間、レオンハルトの手がわずかに力を込める。
「細いな」
「え……?」
「すぐ折れそうだ」
予想外の言葉だった。何と返すべきか一瞬迷う。
「無理はするな」
続けられた言葉に、ミトはさらに戸惑った。
「君は私の婚約者だ。守る対象になる」
守る対象。
その言葉が、強く印象に残る。
ゲームの中の彼は、こんなことを言う人物ではなかった。むしろミトに対しては距離を取り、必要以上に関わろうとしない存在だった。
なのに今は、最初から関わろうとしている。
それも、明確に。
ミトは一瞬だけ迷い、それから口を開いた。
「……ありがとうございます、殿下」
「レオンハルトでいい」
間髪入れずに返される。
「いえ、それは……」
「構わない」
短く断言される。その口調に迷いはない。
距離が近い。
あまりにも近すぎる。
ミトの中で警鐘が鳴る。
このままではいけない。
この関係は、本来の流れから逸脱している。
修正しなければならない。
距離を取らなければ。
そう思った、その時だった。
「ミト」
呼ばれて振り向くと、エヴァルドがすぐ近くまで来ていた。いつの間に移動したのか、気配を感じなかった。
「顔色が悪い。大丈夫かい?」
穏やかな声。だが、その視線はレオンハルトから一瞬たりとも外れていない。
「はい、兄様……少し、緊張しているだけです」
「そうか」
エヴァルドは自然な動作でミトの肩に手を置いた。その位置は、さりげなく二人の間に入るような形になっている。
「無理をする必要はないよ」
優しく告げる言葉。
だが、その手はしっかりとミトを引き寄せていた。
「……ローゼンクランツ嫡男か」
レオンハルトが静かに言う。
「エヴァルド・ローゼンクランツでございます、殿下」
完璧な礼。非の打ちどころのない所作。
「妹を大切にしているようだな」
「ええ。たった一人の妹ですから」
柔らかな微笑み。その奥にあるものを、ミトはまだ理解していない。
だが、空気が変わったことだけははっきりと分かる。
目に見えない何かが、確かにそこにある。
静かな圧力。
ぶつかり合う意志。
王子と兄。
二人の間に流れるものを、ミトはまだ言葉にできない。
ただひとつだけ確かなのは――
これは、思っていたよりもずっと厄介な状況だということだった。
断罪を回避するだけでは足りない。
それ以前に、何かがすでにおかしくなっている。
ゲームの流れと違う。
王子は最初から距離が近い。兄は想像以上に過保護だ。
そして自分は――その中心にいる。
(……逃げなければ)
改めてそう思う。
だが、その“逃げる”という選択肢が、すでに狭められていることに、ミトはまだ気づいていなかった。
レオンハルトが静かにミトを見る。その視線は変わらない。まっすぐで、逃げ場を与えないものだった。
「ミト」
名を呼ばれる。
わずかに息を呑む。
「君は、面白い」
その言葉が、静かに落ちる。
ミトはその意味を理解するまで、ほんの一瞬だけ時間がかかった。
そして理解した瞬間、内心で頭を抱える。
――終わった。
乙女ゲームにおいて、“面白い”と思われることがどれほど危険かを、ミトはよく知っている。
それは興味の始まりであり、関係の始まりであり、そして――ルート突入の合図でもある。
「……これは、困りましたわね」
小さく呟く。
その声は、誰にも聞かれないほどの大きさだった。
だがレオンハルトの瞳が、わずかに細められる。
エヴァルドの手が、ほんの少しだけ強くなる。
その変化に気づくことなく、ミトはただ一つの事実を受け入れていた。
この日、自分は思い出した。
この世界が何であるかを。
自分がどんな役割を持っているかを。
そして――
すでに、その運命から逸れ始めているということを。
これは、破滅するはずだった悪役令嬢の物語。
けれどその運命は、静かに、確実に、別の方向へと動き始めていた。
悪役令嬢に憧れてはじめて書いてみました。
しばらくお付き合いの程、よろしくお願いします。
ブックマーク、評価、感想、いただけると嬉しいです。




