第23話 本物のヒロイン
リリア・フェルナ。
その名が会場に響いた瞬間、空気がほんのわずかに変わった。
大きなざわめきが起きたわけではない。誰かが露骨に声を上げたわけでもない。けれど、視線の流れが変わる。王族や高位貴族の子女が集まる場で、特待生代表として紹介された少女。しかも、光属性補助魔法と治癒適性を持つという。珍しい才だ。注目されないはずがなかった。
リリアはその視線を受け、少しだけ肩を強張らせていた。
けれど、礼は美しかった。
完璧な貴族令嬢の礼ではない。少し硬く、慣れていない部分もある。だが、丁寧だった。失礼がないように、間違えないように、懸命に覚えてきたのだと分かる礼だった。
その姿を見た瞬間、ミトの胸に最初に浮かんだのは警戒ではなかった。
(……練習、なさったのね)
ゲーム画面の向こうにいたヒロインではなく、今日この場に立つために努力してきた一人の少女。
そう思った。
思ってしまった。
それが少しだけ、胸に痛かった。
悪い人だったら、楽だったのかもしれない。分かりやすくミトを敵視し、レオンハルトに近づき、攻略対象たちの好意を当然のように受け取る少女なら、警戒する理由ができる。距離を取る理由ができる。自分を守るためだと言える。
けれど、目の前のリリアはそうではなかった。
少なくとも、今は。
彼女は緊張していて、場に飲まれないように必死で、けれど逃げずに立っている。
ミトと同じように。
「ミト」
隣でレオンハルトが静かに呼んだ。
「はい」
「息をしているか」
「……しているつもりでした」
「止まっていた」
どうやら止まっていたらしい。
ミトは慌てて小さく息を吸った。深呼吸。周りを見る。自分は一人ではない。十六番目の言葉を思い出す。
「大丈夫です」
「そうか」
「少し、驚いただけです」
「何に」
問われて、ミトは一瞬迷った。
ゲームと違ったから。思ったより普通の少女だったから。緊張していて、努力していて、怖がっているように見えたから。
どれもそのままは言えない。
「……思っていたより、緊張していらっしゃるように見えました」
レオンハルトはリリアへ視線を向けた。
「当然だろう」
「当然……」
「あの場に立って、緊張しない方が不自然だ」
その通りだった。
とても当たり前のことだった。
けれどミトは、その当たり前を忘れていた。リリアはヒロインだから、きっと自然に人を惹きつける。光のように現れ、攻略対象たちの視線を集め、物語の中心になる。そんなふうに考えていた。
でも現実の彼女は、緊張する。
礼を間違えないようにする。
周囲の視線に戸惑う。
それだけで、遠かった存在が少し近くなる。
「そう、ですわね」
ミトは小さく頷いた。
リリアは案内役に促され、会場内へ進む。彼女の近くには学園関係者らしい女性が付き添っていた。フェルナ男爵家の者だろうか。それとも学園側の案内役だろうか。リリアはその人の言葉に頷きながら、挨拶の順番を確認しているようだった。
最初に向かう先は、当然ながら王族のいる場所。
つまり、レオンハルトの前だ。
そして、ミトの前でもある。
胸が、また強く鳴った。
(来ますわ)
逃げない。
決めつけない。
変なことをしない。
木に登らない。
最後の項目だけ場違いだが、今はそれも必要だった。
ミトはそっとバッグの紐を握る。
リリアが近づいてくる。
一歩、一歩。
近づくほど、ゲームのスチルでは見えなかった細かなものが分かった。髪は淡い金色だが、光の当たり方で蜂蜜色にも見える。瞳は澄んだ緑。白いドレスは清楚だが、布地は高価すぎない。飾りも控えめで、必要以上に自分を華やかに見せようとしている感じはなかった。
そして指先が、少し震えている。
ミトはそれに気づいた。
リリアも怖いのだ。
そう思った瞬間、胸の奥の警戒がわずかに形を変えた。
◇
リリアはレオンハルトの前で足を止めた。
案内役が名を告げる。
「フェルナ男爵家養女、リリア・フェルナ様でございます」
リリアは深く礼をした。
「初めまして、第一王子殿下。リリア・フェルナと申します。このたびは、このような場にお招きいただき、誠に光栄に存じます」
声は少し硬い。
けれど、澄んでいた。
レオンハルトは静かに応じる。
「レオンハルト・ヴァルディスだ。特待生代表に選ばれたと聞いている」
「はい。身に余る光栄でございます」
「学園での学びに期待している」
「ありがとうございます」
短い会話。
それだけだった。
ゲームなら、この瞬間に何かが起きるのではないかと思っていた。光が差すとか、音楽が変わるとか、二人の視線が特別に交わるとか。そういう、物語の始まりを告げる何かが。
だが、現実には何も起きなかった。
レオンハルトはいつも通り静かで、リリアは緊張しながら丁寧に返事をしている。
それだけ。
ミトは胸の奥で、少しだけ息を吐いた。
安心したのか。
それとも拍子抜けしたのか。
自分でもよく分からない。
そして次に、リリアの視線がミトへ向いた。
来た。
ミトは背筋を伸ばす。
リリアはほんの少し緊張を強めたように見えた。無理もない。目の前にいるのは第一王子の婚約者で、公爵令嬢。ゲームでの立場を抜きにしても、簡単に話せる相手ではない。
ミトは自分の表情を意識した。
硬すぎない。
警戒しすぎない。
でも、馴れ馴れしくしない。
練習通りに。
リリアが丁寧に礼をする。
「初めまして、ローゼンクランツ様。リリア・フェルナと申します」
ミトはゆっくり息を吸い、礼を返した。
「初めまして、リリア様。ミト・ローゼンクランツと申します。交流会でお会いできて嬉しく存じます」
言えた。
練習した通りに。
リリアの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「ありがとうございます。ローゼンクランツ様のような方に、そう言っていただけるなんて……」
そこで、彼女は少し言葉を詰まらせた。
どう返せばいいか迷っているのだろう。
ミトはその迷いを見た。
ゲームのヒロインではなく、目の前のリリアを見る。
そう決めたのだから。
「特待生代表に選ばれるほどの才をお持ちだと伺いました。リリア様こそ、きっと努力を重ねてこられたのでしょうね」
リリアの目が大きくなった。
まるで、予想していなかった言葉をかけられたように。
「……努力、ですか?」
「ええ。才があっても、それだけでこの場に立つのは難しいと思いますもの」
リリアは一瞬、唇をきゅっと結んだ。
そして、わずかに微笑んだ。
「ありがとうございます。そう言っていただけたのは、初めてかもしれません」
ミトの胸が、小さく揺れた。
初めて。
その言葉が妙に引っかかる。
「初めて、ですの?」
リリアは少し困ったように笑った。
「光属性の適性があるから、と言われることが多くて。もちろん、それはありがたいことなのですが……」
言いかけて、彼女ははっとしたように口を閉じた。
「申し訳ございません。初対面で、このようなことを」
「いいえ」
ミトは首を横に振った。
光属性だから。
特待生だから。
ヒロインだから。
そういう言葉で、ミトも彼女を見ていた。
リリア自身を見る前に。
「才を認められることと、努力を見てもらえることは、少し違いますものね」
ミトがそう言うと、リリアは今度こそはっきりと目を見開いた。
その瞳に、警戒とは違う感情が浮かぶ。
驚き。
そして、少しの安堵。
「……はい」
小さな返事だった。
けれど、その一音で、ミトの中にあった“本物のヒロイン”という輪郭が、さらに少し崩れた。
彼女は、ヒロインだからここにいるのではない。
少なくとも、彼女自身はそんなふうに立っているわけではない。
認められたい。
でも、光属性だけで見られたくない。
努力を見てほしい。
そんな当たり前の願いを持った少女なのだ。
◇
会話は長く続けられなかった。
交流会では、最初の挨拶に時間をかけすぎるわけにはいかない。リリアはこのあと、他の参加者にも挨拶をしなければならない。案内役が控えめに次を促すと、リリアは慌てたように姿勢を正した。
「ローゼンクランツ様、お話しできて光栄でした」
「こちらこそ。学園でご一緒できる日を楽しみにしております」
言ってから、ミトは少し驚いた。
自然に出た。
楽しみにしている。
完全に嘘ではなかった。
怖い気持ちはある。警戒も消えていない。けれど、少なくとも今、リリアを知りたいと思った。最初から敵だと決めつけないためではなく、彼女自身をもう少し見てみたいと思った。
リリアは嬉しそうに微笑み、もう一度礼をして離れていく。
その背を見送りながら、ミトはしばらく動けなかった。
リリアが去っても、胸のざわめきは消えない。
だが、それは恐怖だけではなかった。
不安。戸惑い。少しの罪悪感。そして、わずかな興味。
自分は彼女を怖がりすぎていたのかもしれない。
けれど、怖がる理由が完全になくなったわけではない。
彼女は良い人かもしれない。
それが、余計に怖い。
でも、悪い人であってほしいとはもう思いたくなかった。
「ミト」
レオンハルトが呼ぶ。
ミトは顔を上げた。
「はい」
「見られたか」
その問いに、ミトは少しだけ考えた。
リリアを見た。
名簿ではなく、人として見ようとした。
完全にできたかは分からない。けれど、少なくともゲームのヒロインだけではなかった。
「少しだけ」
ミトは正直に答えた。
「まだ、分かりません。でも……思っていたより、普通の女の子でした」
「そうか」
「そして、努力を見てほしい方なのかもしれません」
レオンハルトはリリアの方へ視線を向けた。リリアは少し離れた場所で、別の令嬢と挨拶をしている。緊張はまだ残っているが、先ほどより少しだけ表情が柔らかい。
「確認を続ければいい」
「はい」
「今決める必要はない」
その言葉に、ミトは小さく頷いた。
今決めなくていい。
敵か味方か。ヒロインかそうでないか。未来を奪う人か、共に学ぶ人か。
全部、今この瞬間に決めなくていい。
保留も選択の一つ。
ミトは胸の中で、その言葉をもう一度噛みしめた。
「殿下」
「何だ」
「背中を押していただく前に、少し進めました」
言ったあとで、少し恥ずかしくなる。
だが、レオンハルトは笑わなかった。
静かに、ほんのわずかだけ目を細める。
「見ていた」
それだけだった。
それだけなのに、胸が温かくなる。
ミトは視線を逸らしかけて、やめた。
今日は逃げない。
会うために来た。
なら、受け止めることからも逃げない。
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「でも、言いたかったのです」
以前にも似たやり取りをした気がする。
レオンハルトは少しだけ黙り、それから短く言った。
「そうか」
◇
その後も、交流会は続いた。
リリアと話したことで緊張がすべて解けたわけではない。むしろ、次々に挨拶が続き、ミトは何度も背筋を整えることになった。
侯爵家の令嬢。伯爵家の子息。騎士科推薦の少年。魔術科の推薦生。
そして、名簿にあった別の攻略対象たち。
最初に近づいてきたのは、ルシアン・クロフォードだった。
淡い紫がかった髪に、穏やかな微笑。細身で、いかにも魔術師らしい落ち着いた雰囲気をまとっている。ゲームで見た印象と近い。優しげで、知的で、けれどどこか底が見えない。
「初めまして、ローゼンクランツ様。ルシアン・クロフォードと申します」
柔らかな声だった。
「初めまして、ルシアン様。ミト・ローゼンクランツです」
「お噂はかねがね。火と氷、二つの属性を扱われるとか」
来た。
いきなり魔術の話である。
ミトは表情を崩さないように気をつけた。
「まだ未熟ですわ」
「ご謙遜を。二属性を持つ方は、それだけで貴重です。学園でご一緒できるのを楽しみにしています」
ルシアンの目は穏やかだが、観察するようでもあった。
ミトは内心で少し警戒する。
この人は、見ている。
レオンハルトとは違う見方だ。レオンハルトはミトの行動を正確に追う。ルシアンは、もっと内側の仕組みを覗こうとしているように感じた。
「私も、魔術について学べることを楽しみにしております」
無難に返す。
ルシアンは微笑んだ。
「では、いずれ魔術科の演習で」
「はい」
会話は短く終わった。
ルシアンが去ると、ミトは心の中で小さく息を吐いた。
(油断ならない方ですわ)
優しげなのに、鋭い。
攻略対象らしいと言えばそうだが、現実に目の前にすると少し疲れる。
次に現れたのは、セシル・アトウェルだった。
「やっとご挨拶できた」
第一声が軽い。
明るい茶色の髪に、人懐こい笑顔。場慣れしている。歩き方も視線の配り方も、自然に人の懐へ入るような軽やかさがあった。
「初めまして、ローゼンクランツ様。セシル・アトウェルです。お会いできるのを楽しみにしていました」
「初めまして、セシル様。ミト・ローゼンクランツです」
「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ」
ミトは固まった。
「警戒しているように見えます?」
「少しだけ。でも、そういうところも可愛らしいですね」
距離が近い。
物理的ではなく、会話の距離が近い。
ミトは一歩下がりたい衝動を抑えた。
「初対面でそのようにおっしゃるのは、少し危険ではありません?」
「おや、怒らせてしまいましたか?」
「いいえ。確認です」
「確認」
セシルは楽しそうに笑った。
「面白い方ですね」
面白い方。
ミトはこの短時間で、彼が危険な人物だと判断した。
悪意があるわけではない。だが、軽やかに境界を試してくる。相手の反応を見て、どこまで踏み込めるか測っている。
ゲームでの印象と近い。
けれど、今のところはただの社交上手にも見える。
決めつけない。
ミトは心の中で呟く。
「セシル様こそ、社交に慣れていらっしゃるのですね」
「そう見えます?」
「ええ。とても」
「では、そういうことにしておきましょう」
そういうことにしておく。
つまり、それだけではないということだろうか。
ミトは慎重に微笑んだ。
「学園でお話しする機会がありましたら、そのときはもう少し教えてくださいませ」
「喜んで」
セシルは優雅に礼をし、去っていった。
ミトは内心で項目を増やした。
セシル様、要確認。
リストに追加したい。
非常にしたい。
◇
挨拶が一段落した頃、ミトは少しだけ疲れていた。
顔には出さないようにしているつもりだが、集中が続いたせいで肩に力が入っている。会場の空気、周囲の視線、次々に交わされる言葉。すべてが少しずつ積もって、呼吸が浅くなる。
左奥。
庭へ続く扉。
休憩場所。
ミトはそちらを見た。
逃げ道ではない。
戻るための場所。
行くなら、誰かに伝える。
ミトは隣のレオンハルトへ顔を向けた。
「殿下」
「休むか」
早い。
「まだ何も言っておりません」
「顔に出ている」
「そんなに?」
「ああ」
令嬢として由々しき事態だ。
だが、今はそれより休む方が大事だった。
「少しだけ、庭の方へ」
「分かった」
「侍女に伝えてから行きます」
「私も行く」
当然のように言われ、ミトは瞬きをした。
「殿下も?」
「ああ」
「お忙しいのでは」
「短時間なら問題ない」
断る理由を探す。
見つからない。
そもそも、休憩場所を把握しておくと言ったのは彼だ。無断で消えるなとも言われた。なら、同行するのは自然なのかもしれない。
自然なのか。
本当に。
ミトが迷っていると、少し離れた場所にいたカイルがこちらを見た。目が合う。彼は小さく顎を動かした。行け、という意味らしい。
背中を押された。
ミトは息を吐く。
「では、少しだけ」
「ああ」
侍女に伝え、ミトはレオンハルトと共に庭へ続く扉へ向かった。
その背後で、会場のざわめきが少し遠くなる。
扉を抜けると、春の風が頬を撫でた。
外の空気。
ミトは深く息を吸った。
「大丈夫か」
レオンハルトが隣で問う。
「はい。少し、疲れただけです」
「無理をするな」
「逃げたわけではありません」
「分かっている」
その返事がすぐ返ってきたことに、ミトは少しだけ安心した。
庭には小さな噴水があり、花壇には春の花が植えられている。会場の中よりずっと静かで、風の音が聞こえる。ミトは少しだけ歩き、石の手すりのそばで立ち止まった。
「リリア様と、お話ししました」
「ああ」
「思っていたより、普通の方でした」
「普通では不満か」
「いいえ。普通だったことに、安心して……少し困っています」
「なぜ」
「怖がっていた自分が、少し恥ずかしくなりました」
正直に言うと、レオンハルトはしばらく黙った。
そして静かに答える。
「怖がることと、相手を否定することは違う」
その言葉に、ミトは顔を上げた。
「君は怖がっていた。だが、会った。話した。相手を見た。なら、それでいい」
「……そうでしょうか」
「ああ」
迷いのない肯定だった。
その肯定に、胸が少し緩む。
「それに、まだ分からない」
レオンハルトは会場の方へ視線を向けた。
「彼女がどんな人物か、今日だけで決まるものではない。周囲の意図もある。フェルナ男爵家の事情も、特待生としての立場も、まだ不明だ」
「やはり、確認が必要ですのね」
「そうだ」
ミトは少し笑った。
「殿下は本当に確認がお好きですわ」
「必要だからな」
「はい」
いつもの答え。
けれど今は、その答えに救われる。
「私も、確認します。決めつけずに」
「それでいい」
風が、二人の間を通り抜けた。
会場の中では、まだ交流会が続いている。リリアもいる。ルシアンもセシルも、カイルも、エヴァルドも。物語の登場人物たちが、現実の人間としてそこにいる。
怖い。
でも、もう少し見たい。
ミトはそう思った。
「戻ります」
自分で言った。
「もういいのか」
「はい。休めました」
「そうか」
レオンハルトは短く頷く。
ミトは会場の扉へ向かって歩き出した。
逃げるためではなく、戻るために。
その足取りは、来たときより少しだけ軽かった。




