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婚約者から溺愛されて逃げられません 〜悪役令嬢に転生したので破滅回避したいのに、なぜか最推しの公爵令息が離してくれない〜  作者: 碓氷さゆ
第一章 近すぎる距離

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第22話 交流会の日

 交流会当日の朝は、驚くほど静かだった。


 もっと胸が騒ぐと思っていた。目覚めた瞬間から逃げ出したくなって、布団をかぶり、どうにかして体調不良を装う方法を考えるのではないかと、昨日までは半ば本気で心配していた。けれど実際に目を開けたミトの胸にあったのは、恐怖だけではなかった。


 緊張している。


 怖い。


 できれば少しだけ時間を戻したい。


 でも、それ以上に、ようやく来てしまったのだという不思議な静けさがあった。


 ミトは寝台の上でゆっくり体を起こし、窓の外を見た。春の朝の光が、薄いカーテン越しに差し込んでいる。庭の薔薇はまだ満開には遠い。けれど蕾は確かに膨らみ、開く時を待っていた。


 交流会。


 リリア・フェルナ。


 王立アルディシア学園。


 ゲーム開始まで、あと三か月。


 そのすべてが、今日ひとつの場所に集まる。


「……逃げるためではなく、会うために」


 昨夜書いた言葉を、もう一度声に出した。


 まだ少し震えている。


 けれど、大丈夫。


 たぶん、ではなく。


 今日だけは、そう言っておきたかった。



 支度は、いつもより時間がかかった。


 ローズラベンダーのドレスは、朝の光の中で見るとさらに柔らかい色に見えた。派手すぎず、けれど地味ではない。胸元には控えめな薔薇の刺繍。袖は軽く、動きやすい。選んだときは正しいのか不安だったが、いざ身につけてみると、不思議と今の自分に合っている気がした。


 髪は緩くまとめられ、薄い銀の薔薇細工が添えられる。鏡の中のミトは、公爵令嬢らしく整っていた。少なくとも、木に登りそうな令嬢には見えない。


 そこだけは、かなり重要である。


「お嬢様、とてもお似合いでございます」


「ありがとう」


「本日は、こちらの小さなバッグをお持ちくださいませ。中にはハンカチと香油、それからご気分が優れないときのための薬草飴を入れております」


「薬草飴?」


「エヴァルド様より」


 さすが兄である。


 準備が細かい。


 ミトは小さなバッグを受け取り、中を確認した。ハンカチ、香油、薬草飴。それから、小さく折りたたんだ紙。


 昨夜のリストだった。


 ミトは目を瞬かせる。


「これは……」


「エヴァルド様が、お嬢様が忘れられないようにと」


 侍女は穏やかに言った。


 ミトはリストをそっと取り出し、開いた。


 一から十五まで並んだ項目。


 最後には、昨日書いた言葉。


 明日は、逃げるためではなく、会うために行く。


 その下に、見慣れた文字で一文が書き足されていた。


 十六、困ったら、深呼吸してから周りを見ること。君は一人ではないよ。


 エヴァルドの字だった。


 ミトはしばらくその文字を見つめた。


 胸が温かくなって、少しだけ苦しい。


「お兄様は……本当に」


 優しすぎる。


 そう言おうとして、やめた。


 今日のこれは、息苦しい優しさではない。背中にそっと添えられた手のようなものだ。


 ミトはリストを丁寧に折り直し、バッグの内側へしまった。


「持っていきます」


「はい」


 侍女が微笑む。


 ミトは鏡の中の自分をもう一度見た。


 ローズラベンダーのドレス。薄い銀の薔薇細工。小さなバッグ。中には、リストと薬草飴。


 完璧ではない。


 でも、準備はした。


 自分で選んだものも、誰かが支えてくれたものも、全部持っていく。


 それでいい。



 玄関広間へ向かうと、エヴァルドが待っていた。


 今日の兄は、淡い金の髪をいつもより少しきちんと整え、落ち着いた色の上着を着ていた。柔らかな微笑は変わらない。けれど、視線はいつもより少しだけ慎重で、ミトの様子を丁寧に確かめているのが分かった。


「おはよう、ミト」


「おはようございます、お兄様」


「よく似合っているよ」


「ありがとうございます」


「髪飾りも、君が選んだものだね」


「はい」


 ミトは少しだけ髪飾りへ触れた。


 薄い銀。


 やはり、少しだけ落ち着かない。


 エヴァルドはそれに気づいたのか、少し楽しそうに目を細めた。


「殿下も、きっとそう言うと思うよ」


「お兄様」


「うん?」


「そういうことは、今言わないでくださいませ」


「緊張する?」


「します」


「正直でいいね」


 ミトは頬を軽く膨らませた。


 兄は本当に、最近少しだけ意地悪になった気がする。


 いや、以前からそうだったのかもしれない。ただ、ミトが気づいていなかっただけで。


 エヴァルドはミトのバッグに視線を落とした。


「リスト、持った?」


「はい。十六番目も読みました」


「勝手に書き足してごめんね」


「いいえ。嬉しかったです」


 素直に答えると、エヴァルドは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、少しだけ眩しそうに笑う。


「そっか」


「はい」


「じゃあ、行こうか」


 玄関の扉が開く。


 外には馬車が待っていた。


 ローゼンクランツ家の紋章が入った馬車。護衛たちが静かに控え、朝の光の中で車体が淡く輝いている。


 いよいよだ。


 ミトは一歩を踏み出す。


 胸は高鳴っている。


 怖い。


 けれど、足は止まらなかった。



 馬車の中は静かだった。


 エヴァルドは向かいに座り、ミトの様子を見守っている。必要以上に話しかけてはこない。けれど、沈黙が重くならないように、時折何でもない話を振ってくれた。


 庭の薔薇の開花が今年は少し遅いこと。


 学園近くの並木道が春にはとても美しいこと。


 交流会の会場で出される菓子は、毎年評判がいいこと。


 どれも、今のミトを追い詰めないための話題だと分かった。


「お兄様」


「うん?」


「ありがとうございます」


「何が?」


「何でもないお話をしてくださることです」


 エヴァルドは少しだけ目を細めた。


「気づいていたんだね」


「はい。少しだけ」


「じゃあ、もう少し続けようか」


「お願いします」


 ミトは小さく笑った。


 馬車が石畳を進む音がする。窓の外には、貴族街の整った街並みが流れていく。少しずつ、学園に近づいている。


 学園。


 王立アルディシア学園。


 ゲームの舞台。


 リリアが現れる場所。


 ミトはバッグの上に手を置いた。中にはリストがある。薬草飴もある。ハンカチも、香油もある。頼りないようで、頼もしい小さな準備たち。


 ふと、レオンハルトの手紙の言葉が蘇る。


 足が止まったなら、押す。


 君が進む意思を持っていることが前提だ。


 ミトは静かに息を吸った。


 進む意思。


 それなら、ある。


 怖いけれど。


 それでも今日、自分は会いに行くと決めたのだから。



 迎賓館は、王立アルディシア学園の敷地に隣接していた。


 白い石造りの建物で、正面には広い階段があり、柱には学園の紋章が刻まれている。剣と月桂樹、古い王冠。昨日まで書類の上で見ていた印が、今は目の前にある。


 馬車が止まる。


 扉が開き、先に降りたエヴァルドが手を差し出した。


「ミト」


「はい」


 ミトは兄の手を取り、馬車を降りた。


 足元に石畳の感触が伝わる。


 逃げていない。


 来た。


 自分で。


 その事実を、まず胸の中で確認する。


 周囲にはすでに何台もの馬車が止まっていた。侯爵家、伯爵家、騎士家、王家の紋章が見える。華やかな衣装に身を包んだ令嬢たち、きちんと礼装を整えた少年たち、控える使用人や護衛たち。


 空気は穏やかだが、緊張もある。


 誰もが、互いを見ている。


 家名を、立場を、装いを、表情を。


 これが社交の場。


 そして、学園生活の入口。


(……帰りたい)


 一瞬だけ思った。


 早い。


 あまりにも早い。


 まだ玄関前である。


 ミトは慌てて息を吸った。


 深呼吸。


 周りを見る。


 私は一人ではない。


 十六番目の言葉を思い出す。


「大丈夫?」


 エヴァルドが小さく聞いた。


「はい。少し帰りたくなっただけです」


「正直だね」


「でも、帰りません」


「うん」


 エヴァルドはそっと手を離した。


 その代わり、すぐ隣に立つ。


 掴まれてはいない。


 けれど、離れてもいない。


 ちょうどいい距離だった。


「行こう」


「はい」


 二人が階段を上がろうとしたとき、別の馬車が静かに到着した。


 その紋章を見て、周囲の空気がわずかに変わる。


 王家の紋章。


 ミトの胸が跳ねた。


 扉が開き、護衛が先に降りる。


 赤い髪が見えた。


「カイル」


 思わず小さく呟く。


 カイルは周囲を確認したあと、こちらに気づいて軽く目を向けた。ほんの少しだけ眉を上げる。挨拶とも、確認ともつかない仕草。


 それだけで、少し呼吸が楽になる。


 その後に、レオンハルトが馬車から降りた。


 銀の髪が朝の光を受けて輝く。濃紺の礼装に王家の紋章。白い手袋。静かな青い瞳。彼が立っただけで、場の中心が自然にそこへ移る。


 第一王子。


 攻略対象。


 婚約者。


 そして、ミトをいつも見つける人。


 レオンハルトの視線が、まっすぐミトを捉えた。


 逃げ道を探す前に。


 心臓が跳ねる。


 けれど、今日は逃げない。


 ミトは背筋を伸ばした。


 レオンハルトが近づいてくる。周囲の視線が集まる。婚約者同士の挨拶だ。ここで不自然な態度を取るわけにはいかない。


「ミト」


「レオンハルト殿下」


 ミトは丁寧に礼をした。


 レオンハルトは静かにミトを見た。


「よく似合っている」


 来た。


 予想していたのに、心臓に悪い。


 ミトはどうにか表情を整える。


「ありがとうございます」


「髪飾りも」


「……ありがとうございます」


「君が選んだのか」


「はい」


「そうか」


 それだけで、レオンハルトの目が少しだけ柔らかくなった気がした。


 気のせいかもしれない。


 でも、たぶん気のせいではない。


「今日は逃げていないな」


 静かな声で言われ、ミトは少しだけ唇を引き結んだ。


「逃げるためではなく、会うために来ましたので」


 言えた。


 自分で言えた。


 レオンハルトの視線が、わずかに深くなる。


「そうか」


「はい」


「なら、進めるな」


 問いではない。


 確認だった。


 ミトは少しだけ息を吸う。


「……はい」


 レオンハルトは頷いた。


「行こう」


 その言葉は、命令ではなかった。


 隣へ立つように、促す声だった。


 ミトは一瞬だけ迷い、それから一歩進む。


 エヴァルドが少し後ろへ下がる。カイルは周囲を見ている。


 レオンハルトの隣。


 いつもなら近すぎる距離。


 今日は、必要な距離。


 ミトはその場所に立った。



 迎賓館の小ホールは、想像していたよりも明るかった。


 高い天井、白い壁、磨かれた床。大きな窓から春の光が入り、壁際には季節の花が飾られている。中央には歓談用の空間が広く取られ、奥には茶菓の置かれたテーブル。右手には控え室へ続く扉、左手奥には庭へ出られる扉がある。


 会場図で見た通りだ。


 ミトはまず、休憩場所を確認した。


 庭へ続く扉。


 そこから外へ出れば、少しだけ空気を吸える。


 逃走経路ではない。


 休憩場所である。


 心の中で念押しすると、隣のレオンハルトが小さく言った。


「左奥だ」


 ミトはぎくりとした。


「……何がですの?」


「休憩場所」


「なぜ」


「見ていた」


 見られていた。


 やはり。


 ミトは小さく息を吐く。


「確認していただけです」


「分かっている」


「逃げ道ではありません」


「分かっている」


 本当に分かっているのか、不安である。


 けれど、レオンハルトの声は責めていなかった。むしろ、予定通り確認できたことを認めているようだった。


 少しだけ安心する。


 周囲では、すでに何人かの生徒たちが挨拶を交わしていた。見覚えのある家紋もあれば、初めて見る顔もある。視線がこちらへ向くたび、ミトは背筋を整えた。


 第一王子の隣にいるというだけで、注目される。


 目立たない努力は、最初から失敗している。


(どう目立つかを選ぶ、ですわ)


 ミトは心の中で呟いた。


 ならば、今は堂々と立つ。


 悪役令嬢としてではなく、公爵令嬢として。


「レオンハルト殿下」


 少し離れた場所から声がした。


 振り返ると、数人の貴族子息が近づいてくる。ミトも名前だけは知っている家の者たちだ。レオンハルトは短く応じ、ミトも礼をする。


 挨拶が始まった。


 名乗り、礼、短い会話。


 何度も練習した通りに進める。


 相手の目を見る。


 言葉を急がない。


 決めつけない。


 最初の数人を無事に終えると、ミトの緊張は少しだけ落ち着いた。できている。少なくとも、今のところは。


 そのとき、会場の入口付近がわずかにざわめいた。


 ミトの指先が、ぴくりと動く。


 視線が、自然とそちらへ向かう。


 入口に、学園側の案内役が立っていた。


 その後ろに、数人の新入生らしき姿がある。


 その中に、淡い金の髪の少女がいた。


 ミトの呼吸が止まりかける。


 清楚な白いドレス。派手ではない。むしろ控えめだ。けれど、光を受けると淡い金の髪が柔らかく輝く。澄んだ緑の瞳は少し不安げで、両手は前で控えめに重ねられている。


 ゲームの中のヒロインに似ている。


 けれど、まったく同じではない。


 画面の中のリリアより、ずっと緊張している。


 彼女は会場を見渡し、周囲の視線に気づいたのか、ほんの少し肩を強張らせた。


 その瞬間、ミトの中で何かが変わった。


 ヒロイン。


 特待生代表。


 光属性。


 攻略対象たちに愛される少女。


 そういう言葉の前に、今そこにいるのは、緊張している一人の少女だった。


(……名簿は、人間ではない)


 カイルの声が蘇る。


 ミトは息を吸った。


 リリア・フェルナ。


 ついに、現実の彼女がそこにいる。


 レオンハルトが隣で静かに言った。


「来たな」


「はい」


「見られるか」


 ミトは手の中で、バッグの紐を軽く握った。


 中にはリストがある。


 十六番目まで書かれた、逃げないための準備。


「……見ます」


 声は少しだけ震えた。


 けれど、逃げる声ではなかった。


「自分の目で」


 レオンハルトは何も言わず、ただ頷いた。


 その間にも、案内役の声が会場に響く。


「特待生代表、リリア・フェルナ様」


 名前が呼ばれた。


 物語の扉が、静かに開く。


 ミトは背筋を伸ばした。


 逃げるためではなく、会うために来た。


 その言葉を胸に、ミトは初めて、リリア・フェルナを見つめた。

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