第22話 交流会の日
交流会当日の朝は、驚くほど静かだった。
もっと胸が騒ぐと思っていた。目覚めた瞬間から逃げ出したくなって、布団をかぶり、どうにかして体調不良を装う方法を考えるのではないかと、昨日までは半ば本気で心配していた。けれど実際に目を開けたミトの胸にあったのは、恐怖だけではなかった。
緊張している。
怖い。
できれば少しだけ時間を戻したい。
でも、それ以上に、ようやく来てしまったのだという不思議な静けさがあった。
ミトは寝台の上でゆっくり体を起こし、窓の外を見た。春の朝の光が、薄いカーテン越しに差し込んでいる。庭の薔薇はまだ満開には遠い。けれど蕾は確かに膨らみ、開く時を待っていた。
交流会。
リリア・フェルナ。
王立アルディシア学園。
ゲーム開始まで、あと三か月。
そのすべてが、今日ひとつの場所に集まる。
「……逃げるためではなく、会うために」
昨夜書いた言葉を、もう一度声に出した。
まだ少し震えている。
けれど、大丈夫。
たぶん、ではなく。
今日だけは、そう言っておきたかった。
◇
支度は、いつもより時間がかかった。
ローズラベンダーのドレスは、朝の光の中で見るとさらに柔らかい色に見えた。派手すぎず、けれど地味ではない。胸元には控えめな薔薇の刺繍。袖は軽く、動きやすい。選んだときは正しいのか不安だったが、いざ身につけてみると、不思議と今の自分に合っている気がした。
髪は緩くまとめられ、薄い銀の薔薇細工が添えられる。鏡の中のミトは、公爵令嬢らしく整っていた。少なくとも、木に登りそうな令嬢には見えない。
そこだけは、かなり重要である。
「お嬢様、とてもお似合いでございます」
「ありがとう」
「本日は、こちらの小さなバッグをお持ちくださいませ。中にはハンカチと香油、それからご気分が優れないときのための薬草飴を入れております」
「薬草飴?」
「エヴァルド様より」
さすが兄である。
準備が細かい。
ミトは小さなバッグを受け取り、中を確認した。ハンカチ、香油、薬草飴。それから、小さく折りたたんだ紙。
昨夜のリストだった。
ミトは目を瞬かせる。
「これは……」
「エヴァルド様が、お嬢様が忘れられないようにと」
侍女は穏やかに言った。
ミトはリストをそっと取り出し、開いた。
一から十五まで並んだ項目。
最後には、昨日書いた言葉。
明日は、逃げるためではなく、会うために行く。
その下に、見慣れた文字で一文が書き足されていた。
十六、困ったら、深呼吸してから周りを見ること。君は一人ではないよ。
エヴァルドの字だった。
ミトはしばらくその文字を見つめた。
胸が温かくなって、少しだけ苦しい。
「お兄様は……本当に」
優しすぎる。
そう言おうとして、やめた。
今日のこれは、息苦しい優しさではない。背中にそっと添えられた手のようなものだ。
ミトはリストを丁寧に折り直し、バッグの内側へしまった。
「持っていきます」
「はい」
侍女が微笑む。
ミトは鏡の中の自分をもう一度見た。
ローズラベンダーのドレス。薄い銀の薔薇細工。小さなバッグ。中には、リストと薬草飴。
完璧ではない。
でも、準備はした。
自分で選んだものも、誰かが支えてくれたものも、全部持っていく。
それでいい。
◇
玄関広間へ向かうと、エヴァルドが待っていた。
今日の兄は、淡い金の髪をいつもより少しきちんと整え、落ち着いた色の上着を着ていた。柔らかな微笑は変わらない。けれど、視線はいつもより少しだけ慎重で、ミトの様子を丁寧に確かめているのが分かった。
「おはよう、ミト」
「おはようございます、お兄様」
「よく似合っているよ」
「ありがとうございます」
「髪飾りも、君が選んだものだね」
「はい」
ミトは少しだけ髪飾りへ触れた。
薄い銀。
やはり、少しだけ落ち着かない。
エヴァルドはそれに気づいたのか、少し楽しそうに目を細めた。
「殿下も、きっとそう言うと思うよ」
「お兄様」
「うん?」
「そういうことは、今言わないでくださいませ」
「緊張する?」
「します」
「正直でいいね」
ミトは頬を軽く膨らませた。
兄は本当に、最近少しだけ意地悪になった気がする。
いや、以前からそうだったのかもしれない。ただ、ミトが気づいていなかっただけで。
エヴァルドはミトのバッグに視線を落とした。
「リスト、持った?」
「はい。十六番目も読みました」
「勝手に書き足してごめんね」
「いいえ。嬉しかったです」
素直に答えると、エヴァルドは一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ眩しそうに笑う。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、行こうか」
玄関の扉が開く。
外には馬車が待っていた。
ローゼンクランツ家の紋章が入った馬車。護衛たちが静かに控え、朝の光の中で車体が淡く輝いている。
いよいよだ。
ミトは一歩を踏み出す。
胸は高鳴っている。
怖い。
けれど、足は止まらなかった。
◇
馬車の中は静かだった。
エヴァルドは向かいに座り、ミトの様子を見守っている。必要以上に話しかけてはこない。けれど、沈黙が重くならないように、時折何でもない話を振ってくれた。
庭の薔薇の開花が今年は少し遅いこと。
学園近くの並木道が春にはとても美しいこと。
交流会の会場で出される菓子は、毎年評判がいいこと。
どれも、今のミトを追い詰めないための話題だと分かった。
「お兄様」
「うん?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「何でもないお話をしてくださることです」
エヴァルドは少しだけ目を細めた。
「気づいていたんだね」
「はい。少しだけ」
「じゃあ、もう少し続けようか」
「お願いします」
ミトは小さく笑った。
馬車が石畳を進む音がする。窓の外には、貴族街の整った街並みが流れていく。少しずつ、学園に近づいている。
学園。
王立アルディシア学園。
ゲームの舞台。
リリアが現れる場所。
ミトはバッグの上に手を置いた。中にはリストがある。薬草飴もある。ハンカチも、香油もある。頼りないようで、頼もしい小さな準備たち。
ふと、レオンハルトの手紙の言葉が蘇る。
足が止まったなら、押す。
君が進む意思を持っていることが前提だ。
ミトは静かに息を吸った。
進む意思。
それなら、ある。
怖いけれど。
それでも今日、自分は会いに行くと決めたのだから。
◇
迎賓館は、王立アルディシア学園の敷地に隣接していた。
白い石造りの建物で、正面には広い階段があり、柱には学園の紋章が刻まれている。剣と月桂樹、古い王冠。昨日まで書類の上で見ていた印が、今は目の前にある。
馬車が止まる。
扉が開き、先に降りたエヴァルドが手を差し出した。
「ミト」
「はい」
ミトは兄の手を取り、馬車を降りた。
足元に石畳の感触が伝わる。
逃げていない。
来た。
自分で。
その事実を、まず胸の中で確認する。
周囲にはすでに何台もの馬車が止まっていた。侯爵家、伯爵家、騎士家、王家の紋章が見える。華やかな衣装に身を包んだ令嬢たち、きちんと礼装を整えた少年たち、控える使用人や護衛たち。
空気は穏やかだが、緊張もある。
誰もが、互いを見ている。
家名を、立場を、装いを、表情を。
これが社交の場。
そして、学園生活の入口。
(……帰りたい)
一瞬だけ思った。
早い。
あまりにも早い。
まだ玄関前である。
ミトは慌てて息を吸った。
深呼吸。
周りを見る。
私は一人ではない。
十六番目の言葉を思い出す。
「大丈夫?」
エヴァルドが小さく聞いた。
「はい。少し帰りたくなっただけです」
「正直だね」
「でも、帰りません」
「うん」
エヴァルドはそっと手を離した。
その代わり、すぐ隣に立つ。
掴まれてはいない。
けれど、離れてもいない。
ちょうどいい距離だった。
「行こう」
「はい」
二人が階段を上がろうとしたとき、別の馬車が静かに到着した。
その紋章を見て、周囲の空気がわずかに変わる。
王家の紋章。
ミトの胸が跳ねた。
扉が開き、護衛が先に降りる。
赤い髪が見えた。
「カイル」
思わず小さく呟く。
カイルは周囲を確認したあと、こちらに気づいて軽く目を向けた。ほんの少しだけ眉を上げる。挨拶とも、確認ともつかない仕草。
それだけで、少し呼吸が楽になる。
その後に、レオンハルトが馬車から降りた。
銀の髪が朝の光を受けて輝く。濃紺の礼装に王家の紋章。白い手袋。静かな青い瞳。彼が立っただけで、場の中心が自然にそこへ移る。
第一王子。
攻略対象。
婚約者。
そして、ミトをいつも見つける人。
レオンハルトの視線が、まっすぐミトを捉えた。
逃げ道を探す前に。
心臓が跳ねる。
けれど、今日は逃げない。
ミトは背筋を伸ばした。
レオンハルトが近づいてくる。周囲の視線が集まる。婚約者同士の挨拶だ。ここで不自然な態度を取るわけにはいかない。
「ミト」
「レオンハルト殿下」
ミトは丁寧に礼をした。
レオンハルトは静かにミトを見た。
「よく似合っている」
来た。
予想していたのに、心臓に悪い。
ミトはどうにか表情を整える。
「ありがとうございます」
「髪飾りも」
「……ありがとうございます」
「君が選んだのか」
「はい」
「そうか」
それだけで、レオンハルトの目が少しだけ柔らかくなった気がした。
気のせいかもしれない。
でも、たぶん気のせいではない。
「今日は逃げていないな」
静かな声で言われ、ミトは少しだけ唇を引き結んだ。
「逃げるためではなく、会うために来ましたので」
言えた。
自分で言えた。
レオンハルトの視線が、わずかに深くなる。
「そうか」
「はい」
「なら、進めるな」
問いではない。
確認だった。
ミトは少しだけ息を吸う。
「……はい」
レオンハルトは頷いた。
「行こう」
その言葉は、命令ではなかった。
隣へ立つように、促す声だった。
ミトは一瞬だけ迷い、それから一歩進む。
エヴァルドが少し後ろへ下がる。カイルは周囲を見ている。
レオンハルトの隣。
いつもなら近すぎる距離。
今日は、必要な距離。
ミトはその場所に立った。
◇
迎賓館の小ホールは、想像していたよりも明るかった。
高い天井、白い壁、磨かれた床。大きな窓から春の光が入り、壁際には季節の花が飾られている。中央には歓談用の空間が広く取られ、奥には茶菓の置かれたテーブル。右手には控え室へ続く扉、左手奥には庭へ出られる扉がある。
会場図で見た通りだ。
ミトはまず、休憩場所を確認した。
庭へ続く扉。
そこから外へ出れば、少しだけ空気を吸える。
逃走経路ではない。
休憩場所である。
心の中で念押しすると、隣のレオンハルトが小さく言った。
「左奥だ」
ミトはぎくりとした。
「……何がですの?」
「休憩場所」
「なぜ」
「見ていた」
見られていた。
やはり。
ミトは小さく息を吐く。
「確認していただけです」
「分かっている」
「逃げ道ではありません」
「分かっている」
本当に分かっているのか、不安である。
けれど、レオンハルトの声は責めていなかった。むしろ、予定通り確認できたことを認めているようだった。
少しだけ安心する。
周囲では、すでに何人かの生徒たちが挨拶を交わしていた。見覚えのある家紋もあれば、初めて見る顔もある。視線がこちらへ向くたび、ミトは背筋を整えた。
第一王子の隣にいるというだけで、注目される。
目立たない努力は、最初から失敗している。
(どう目立つかを選ぶ、ですわ)
ミトは心の中で呟いた。
ならば、今は堂々と立つ。
悪役令嬢としてではなく、公爵令嬢として。
「レオンハルト殿下」
少し離れた場所から声がした。
振り返ると、数人の貴族子息が近づいてくる。ミトも名前だけは知っている家の者たちだ。レオンハルトは短く応じ、ミトも礼をする。
挨拶が始まった。
名乗り、礼、短い会話。
何度も練習した通りに進める。
相手の目を見る。
言葉を急がない。
決めつけない。
最初の数人を無事に終えると、ミトの緊張は少しだけ落ち着いた。できている。少なくとも、今のところは。
そのとき、会場の入口付近がわずかにざわめいた。
ミトの指先が、ぴくりと動く。
視線が、自然とそちらへ向かう。
入口に、学園側の案内役が立っていた。
その後ろに、数人の新入生らしき姿がある。
その中に、淡い金の髪の少女がいた。
ミトの呼吸が止まりかける。
清楚な白いドレス。派手ではない。むしろ控えめだ。けれど、光を受けると淡い金の髪が柔らかく輝く。澄んだ緑の瞳は少し不安げで、両手は前で控えめに重ねられている。
ゲームの中のヒロインに似ている。
けれど、まったく同じではない。
画面の中のリリアより、ずっと緊張している。
彼女は会場を見渡し、周囲の視線に気づいたのか、ほんの少し肩を強張らせた。
その瞬間、ミトの中で何かが変わった。
ヒロイン。
特待生代表。
光属性。
攻略対象たちに愛される少女。
そういう言葉の前に、今そこにいるのは、緊張している一人の少女だった。
(……名簿は、人間ではない)
カイルの声が蘇る。
ミトは息を吸った。
リリア・フェルナ。
ついに、現実の彼女がそこにいる。
レオンハルトが隣で静かに言った。
「来たな」
「はい」
「見られるか」
ミトは手の中で、バッグの紐を軽く握った。
中にはリストがある。
十六番目まで書かれた、逃げないための準備。
「……見ます」
声は少しだけ震えた。
けれど、逃げる声ではなかった。
「自分の目で」
レオンハルトは何も言わず、ただ頷いた。
その間にも、案内役の声が会場に響く。
「特待生代表、リリア・フェルナ様」
名前が呼ばれた。
物語の扉が、静かに開く。
ミトは背筋を伸ばした。
逃げるためではなく、会うために来た。
その言葉を胸に、ミトは初めて、リリア・フェルナを見つめた。




