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婚約者から溺愛されて逃げられません 〜悪役令嬢に転生したので破滅回避したいのに、なぜか最推しの公爵令息が離してくれない〜  作者: 碓氷さゆ
第一章 近すぎる距離

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第21話 前日の夜に

 交流会当日まで、あと一日。


 その数字を意識した瞬間、朝の空気が少しだけ違って感じられた。


 昨日までは準備だった。確認だった。練習だった。けれど、明日になればすべて本番になる。ドレスを着て、髪を結い、馬車に乗り、王立アルディシア学園に隣接する迎賓館へ向かう。そこで、レオンハルトと挨拶を交わし、カイルや他の参加者たちと顔を合わせ、そしてリリア・フェルナに会う。


 名簿の上の名前ではなく、実際にそこに立つ一人の少女として。


 ミトは朝食の席で、紅茶のカップを両手で包んだ。


 温かい。


 その温かさに少しだけ救われる。


「眠れた?」


 向かいからエヴァルドが聞いた。


「はい。少しだけ、夢を見ましたけれど」


「どんな夢?」


「木に登って、交流会の会場を見下ろしている夢です」


 エヴァルドは一瞬だけ目を閉じた。


「ミト」


「夢ですわ」


「現実では?」


「登りません」


「約束?」


「約束します」


 即答した。


 さすがに、ここまで来て木に登る未来は避けたい。いや、未来というより事故である。悪役令嬢以前の問題だ。


 エヴァルドは少しだけ安心したように笑った。


「それならよかった」


「お兄様、本当に私を何だと思っていらっしゃいますの?」


「大事な妹」


「その割に、木登りへの警戒が強すぎます」


「大事な妹が木に登って降りられなくなった過去があるからね」


「過去は過去ですわ」


「過去は未来への参考資料だよ」


 なんだかレオンハルトのようなことを言われた。


 ミトは少しだけむっとしながら、パンを小さくちぎる。


 いつもなら、朝食の味は穏やかに感じる。今日のパンも焼き加減は完璧で、スープも紅茶も申し分ない。けれど、緊張のせいか少しだけ味が遠かった。


 それに気づいたのだろう。エヴァルドは声を柔らかくした。


「今日は無理をしなくていいよ。最終確認だけして、午後は休もう」


「休んでいると、余計に考えてしまいそうです」


「じゃあ、少しだけ動く?」


「剣は振りませんわ。昨日で十分です」


「それは少し安心した」


「お兄様、私を何だと」


「頑張りすぎる妹」


 即答だった。


 今度は、ミトが黙る番だった。


 頑張りすぎる。


 そうなのだろうか。


 自分では、まだ足りないと思っている。逃げないための準備も、リリアと向き合う覚悟も、レオンハルトとの距離感も、兄の優しさから自分で立つことも。全部まだ途中で、足元はふわふわしていて、すぐにでも逃げたくなる。


 けれど、周囲から見ると、頑張りすぎに見えるのかもしれない。


「……少しだけ、休む時間を作ります」


「うん。それがいい」


「でも、最終確認はします」


「それもいい」


 エヴァルドは穏やかに頷いた。


 否定しない。


 止めすぎない。


 最近の兄は、少しずつ距離を変えてくれている。ミトが自分で選ぶために、手を離しすぎず、握りすぎず、近くにいてくれる。


 それが分かるから、余計に胸が温かくなる。


「お兄様」


「うん?」


「明日、もし私が緊張で変なことを言いそうになったら」


「うん」


「止めてください」


「悪役令嬢宣言?」


「主にそれです」


「分かった」


 エヴァルドはとても真剣に頷いた。


「全力で止めるよ」


「全力でなくても」


「必要なら全力で」


 優しい兄は、時々容赦がない。



 午前中の最終確認は、思っていたより静かに進んだ。


 ドレスは完成していた。ローズラベンダーの柔らかな生地に、控えめな薔薇の刺繍。袖は軽く、動きやすい。裾も重すぎず、歩くとわずかに揺れる。交流会用として華やかすぎず、けれど公爵令嬢として見劣りしない。


 髪飾りは、薄い銀の薔薇細工。


 見た瞬間、やはりレオンハルトの髪を思い出してしまったが、ミトは心の中で強く否定した。


 これは偶然。


 ドレスに合うから。


 ただそれだけ。


 侍女たちは何も言わなかった。


 ただ、少しだけ微笑んでいた。


 信じていない顔である。


「お嬢様、とてもよくお似合いでございます」


「ありがとう」


「交流会当日は、こちらの髪型でよろしいでしょうか。耳元を少し出して、髪飾りが見えるようにいたします」


「はい。それでお願いします。ただ、あまり華やかすぎないように」


「かしこまりました」


 侍女が手際よく髪を仮にまとめていく。


 鏡の中のミトは、いつもより少し大人びて見えた。十六歳。公爵令嬢。第一王子の婚約者。学園へ向かう前の、入学前交流会に出る少女。


 悪役令嬢には、見えない。


 少なくとも、自分ではそう思いたい。


(悪役令嬢計画は保留ですもの)


 保留。


 その言葉は便利だった。


 完全に諦めたわけではない。いや、諦めた方がいいのかもしれないが、今はまだ結論を出さない。逃げたい気持ちも、選びたい気持ちも、怖い気持ちも、そのまま抱えていく。


 すべてを解決してからでなければ会えない、というわけではない。


 怖いままでもいい。


 変なことをしなければ。


 ミトは鏡の中の自分に向かって、そっと頷いた。



 昼前、王家から使者が来た。


 レオンハルトからの短い返書だった。


 封を見た瞬間、ミトの心臓が素直に跳ねる。侍女に見られなかっただろうかと一瞬気にしたが、侍女はとても自然な顔をしていた。見なかったふりをしてくれているのかもしれない。


 良い侍女である。


 自室へ戻り、机の前で封を開ける。


 便箋は一枚。


 文字は相変わらず整っていて、余白まで端正だった。


『確認した。足が止まったなら、押す。だが、君が進む意思を持っていることが前提だ』


 ミトは数秒、その一文を見つめた。


 背中を押してほしいと書いた。


 返ってきた答えは、押す、だった。


 けれど、条件がついている。


 君が進む意思を持っていることが前提だ。


 レオンハルトらしい。


 甘やかさない。代わりに歩かない。けれど、必要なら背中を押す。


 ミトは便箋を胸元に引き寄せそうになって、途中で止めた。


 危ない。


 とても危ない。


「……本当に、ずるいですわ」


 小さく呟く。


 手紙には、さらに続きがあった。


『怖いものを確認するのは容易ではない。だが、君はすでに準備している。休む場所も、戻る道も、選ぶものも決めている。ならば、明日はその通りに動けばいい』


 ミトは息を止めた。


 どうして、そんなことまで分かるのだろう。


 休む場所。戻る道。選ぶもの。


 全部、ミトがこの数日で少しずつ決めてきたことだ。エヴァルドから聞いたのかもしれない。カイルから聞いたのかもしれない。あるいは、レオンハルトなら、少しの情報だけでそこまで見抜くのかもしれない。


 どちらにせよ、見られている。


 けれど、今はそれが怖いだけではなかった。


『明日、君がリリア・フェルナを確認するように、私も確認する。彼女を。周囲を。そして君を』


 君を。


 その二文字で、顔が熱くなる。


 なぜそこで自分まで入れるのか。


 いや、分かる。見失わないためだ。レオンハルトにとっては、ただの確認なのだろう。感情的な意味ではなく、状況把握。きっとそうだ。


 そうに違いない。


 ミトは便箋を置き、両手で頬を押さえた。


「心臓に悪すぎますわ……」


 レオンハルトの手紙は、甘い言葉がないのに甘く感じる。


 非常に危険である。


 交流会前日にこれを読ませるのは、反則ではないだろうか。


 それでも、胸の奥は少し落ち着いていた。


 怖いものを、一人で確認しなくていい。


 自分の代わりに誰かが見るのではない。


 自分が見る。けれど、隣や後ろにも誰かの目がある。


 それだけで、少しだけ強くなれる気がした。



 レオンハルトの手紙を小箱へ入れるかどうかで、ミトはまた悩んだ。


 前回は下書きだけ入れた。今回の手紙は、本人から届いたものだ。入れたら、完全に特別扱いになる。


 すでに特別では?


 という心の声は無視する。


「これは、交流会の確認書類ですわ」


 そう自分に言い聞かせる。


 確認書類なら、小箱ではなく学園関係の書類と一緒に置くべきだ。


 しかし、手紙の最後には“君を確認する”と書かれている。


 これは書類なのか。


 書類ではない気がする。


「……いったん保留です」


 ミトは封筒に戻し、机の端へ置いた。


 保留は便利だ。


 とても便利だ。


 都合が良すぎる気もするが、今は仕方ない。


 それより、明日の準備をしなければならない。


 ミトはリストを開いた。


 一、特待生制度について調べる。

 二、正式名簿が届いたら確認する。

 三、履修科目は自分で決める。

 四、寮か通学かは情報を集めてから決める。

 五、リリア様に会っても、最初から決めつけない。

 六、交流会では、リリア様の話し方を見る。

 七、最初から避けない。ただし近づきすぎない。

 八、困ったら一度深呼吸する。

 九、カイルがいたら、木には登らない。

 十、名簿は人間ではない。ちゃんと本人を見る。

 十一、怖いままでもいい。変なことをしない。

 十二、休憩場所に行くときは、誰かに伝える。

 十三、見失われたいわけではないことを、認める。

 十四、剣術訓練を取る。自分で立つために。


 十四項目。


 多い。


 少し多すぎる気もする。


 だが、この数日間のミトの準備が、そこに詰まっていた。


 ひとつひとつ読み返すと、自分が少しずつ進んできたことが分かる。最初はリリアの名前を見るだけで怖かった。今も怖い。けれど、怖いだけではない。


 知る。


 見る。


 決めつけない。


 休む。


 戻る。


 選ぶ。


 立つ。


 リストの言葉は、どれも小さな支えだった。


 ミトは最後に、十五番目を書き足した。


 十五、明日は、逃げるためではなく、会うために行く。


 書いた瞬間、胸の奥が静かになった。


 そうだ。


 明日は、逃げないための日ではない。


 リリアに会うための日だ。


 学園で始まる物語を、遠くから恐れるのではなく、自分の目で見るための日だ。


 ミトはペンを置いた。


 十五番目の文字を、もう一度指先でなぞる。


「会うために、行く」


 声に出してみる。


 まだ少し震えている。


 けれど、逃げるとは違う響きだった。



 午後は、休むことにした。


 エヴァルドの提案通り、本当に休む時間を作った。とはいえ、何もしないでいると考えすぎてしまうので、ミトは庭の見える小さな読書室へ向かった。


 選んだ本は、学園の歴史書ではない。礼法書でもない。乙女ゲームの未来に関係しそうな本でもない。


 詩集だった。


 薄い本で、花や季節を題材にした穏やかな詩が並んでいる。特に難しいものではなく、読むというより眺めるような本だ。今のミトには、それくらいがちょうどよかった。


 窓辺の椅子に座り、ページをめくる。


 庭からは、風の音が聞こえる。


 明日のことを考えないようにしようとしても、完全には無理だった。ふとした拍子に、リリアの名前が浮かぶ。レオンハルトの手紙の言葉が浮かぶ。カイルの「名簿は人間じゃねぇよ」という声が浮かぶ。エヴァルドの「人は物じゃないよ」という言葉も。


 ミトは詩集を膝の上に置き、窓の外を見た。


 自分は、たくさんの言葉に支えられている。


 それに気づく。


 十歳の頃は、一人で未来を抱え込んでいた。ゲームの記憶を持っているのは自分だけ。断罪を避けなければならないのも自分だけ。誰にも言えず、ただ逃げて、隠れて、悪役令嬢になるためだと奇妙なことを言っていた。


 けれど今は、少し違う。


 すべてを話せたわけではない。


 前世の記憶も、ゲームの詳細も、断罪の具体的な恐れも、まだ曖昧なままだ。


 それでも、怖いと言えた。


 選びたいと言えた。


 見つけてほしいと書けた。


 それだけで、ずいぶん遠くまで来た気がする。


「ここにいたのか」


 声がして、ミトは顔を上げた。


 カイルだった。


 読書室の入口に立ち、少し気まずそうにしている。


「カイル?」


「兄貴に、ここにいるって聞いた」


「お兄様に?」


「ああ。明日緊張で木に登らないように、適当に話し相手になれって」


「お兄様……」


 何という依頼をしているのか。


 ミトは少しだけ頬を膨らませた。


 カイルは部屋に入るか迷うように立っていたが、ミトが「どうぞ」と言うと、遠慮がちに入ってきた。意外と礼儀正しいところがある。


「何読んでんだ」


「詩集ですわ」


「へえ」


「興味なさそうですわね」


「正直、あんまり」


「正直すぎます」


 ミトは少し笑った。


 カイルは窓辺から少し離れた壁際に立つ。座ればいいのにと思ったが、彼なりの距離なのだろう。


「明日、大丈夫そうか」


「たぶん」


「たぶんか」


「大丈夫です、と言い切るにはまだ少し足りません。でも、行きます」


「ならいいんじゃねぇの」


「カイルは、明日平気ですか?」


「俺は護衛だしな」


「でも、緊張はするのでしょう?」


「多少はな」


 彼は肩をすくめた。


「でも、やることがある方が楽だ。見なきゃいけない場所とか、気をつける相手とか、そういうのがあれば動ける」


 ミトはその言葉を考えた。


 やることがある方が楽。


 それは、少し分かる気がした。


 リストを作ってから、少し呼吸がしやすくなったのも同じだ。怖いものをただ怖いと見ているだけではなく、自分が何をするかを決める。それだけで、足元が少し固くなる。


「では、私も明日やることを決めました」


「何だ」


「リリア様を見ること。決めつけないこと。変なことをしないこと」


「最後が一番大事だな」


「そこですの?」


「そこだろ」


 いつもの返し。


 ミトはまた笑ってしまう。


 怖さが少しだけ薄れる。


「カイル」


「あ?」


「明日、もし私が変なことを言いそうになっていたら」


「悪役令嬢宣言か?」


「主に」


「止める」


「ありがとうございます」


「あと、木の方に歩き出したら止める」


「会場に木がないことを祈りますわ」


「祈るな。歩くな」


 ミトは声を立てずに笑った。


 その笑いが、思ったより自然だった。



 夕方、ミトは小箱の中身を確認した。


 木苺のタルトの包み紙。


 紺地の仮リボン。


 レオンハルトへの手紙の下書き。


 学園で確認することのリスト。


 そして、今日書いた十五番目の言葉。


 明日は、逃げるためではなく、会うために行く。


 その一文を見つめると、胸が少しだけ震える。


 怖い。


 やはり怖い。


 リリアに会って、もし彼女が本当に物語の中心にふさわしい人だったら。もし自分が、彼女の前でひどく小さく感じられたら。もしレオンハルトやカイルたちの視線が、自然に彼女へ向いたら。


 想像だけで、胸が痛くなる。


 けれど、それはまだ起きていない。


 名簿は人間ではない。


 未来はまだ、確定していない。


 そしてミトも、誰かの役割だけで決まる存在ではない。


 ミトは小箱の蓋を閉じた。


 その上に、そっと手を置く。


「明日、会いに行きます」


 小さく言う。


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


 リリアへか。


 未来へか。


 それとも、逃げてばかりだった自分自身へか。


 答えは出ない。


 でも、明日は来る。


 交流会当日まで、あと一日。


 物語の扉は、もう目の前にある。


 ミトは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。


 逃げるためではなく。


 会うために。


 その言葉を胸に、前日の夜は静かに更けていった。

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