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婚約者から溺愛されて逃げられません 〜悪役令嬢に転生したので破滅回避したいのに、なぜか最推しの公爵令息が離してくれない〜  作者: 碓氷さゆ
第一章 近すぎる距離

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第20話 二日前の手紙

 交流会当日まで、あと二日。


 朝の光は、いつも通り穏やかだった。窓から差し込む春の陽射しは柔らかく、庭の薔薇はまだ蕾を多く残している。すべてが静かに整っているのに、ミトの胸の奥だけが少し落ち着かなかった。


 あと二日。


 そう思うだけで、昨日よりも現実味が増す。


 リリア・フェルナに会う。

 レオンハルトがいる。

 カイルもいる。

 ルシアンとセシルも来る。

 王立アルディシア学園に入る前の、最初の顔合わせ。


 ゲームで言えば、プロローグの終わりに差し込まれるイベントのようなものだ。ヒロインがまだ本格的に攻略対象たちと関わる前、運命の糸が静かに張られていく場面。画面越しなら、きっと綺麗なスチルが用意されていたかもしれない。


 けれど今、その場に立つのはミト自身だった。


(スチルになっている場合ではありませんわ)


 ミトは鏡の前で、小さく息を吐いた。


 今日の予定は、交流会当日の挨拶確認、ドレスの最終調整、会場図の再確認。それから、レオンハルトへ昨日の確認事項について返事を書くことになっている。


 返事。


 それを思い出した瞬間、ミトは机の上に置いた便箋へ視線を向けた。


 昨日、レオンハルトは言った。


 休むなら、誰かに伝えろ。

 一人で消えるな。

 見失わないために把握しておく。


 その言葉が、まだ胸に残っている。


 見つけられることを怖がっていたはずなのに、見失われないと言われて少し安心してしまった。自分でもどうかと思う。悪役令嬢を目指す者としては、かなり方向性を誤っている。


 だが、もうそこは諦めた方がいいのかもしれない。


 少なくとも、ミトは悪役令嬢に向いていない。


 その点については、レオンハルトにもエヴァルドにもカイルにも、なぜか満場一致で否定されている。


(なぜ皆様、そこだけは意見が合いますの)


 納得がいかない。


 けれど、成果が出ていないのも事実だった。


「お嬢様、本日の髪飾りはいかがいたしましょう」


 侍女の声に、ミトは我に返る。


「今日は、白い薔薇細工でお願いします」


「かしこまりました」


 最近、髪飾りを選ぶことにも少し慣れてきた。以前なら侍女が選んだものをそのまま受け入れていた。似合うものを選んでくれると分かっていたからだ。けれど今は、自分で決める。その日の気分に合わせて、小さな選択をする。


 今日は白。


 交流会用の薄銀ではなく、普段用の白。


 落ち着きたかった。


 侍女が髪を整える間、ミトは鏡の中の自分を見た。十六歳。入学まで三か月。交流会まで二日。逃げることばかり考えていた少女にしては、少しだけ前を向いている顔に見える。


 たぶん。


「お嬢様」


「はい」


「本日は、少しお顔が穏やかでございますね」


「そう見えます?」


「はい。緊張はなさっているようですが、昨日より少しだけ」


 侍女は微笑む。


「お覚悟が決まったように見えます」


 覚悟。


 そんな大げさなものではない気がする。


 けれど、まったく違うとも言い切れなかった。


「……逃げないための練習をしていますので」


「ご立派でございます」


「いえ、逃げる前提がある時点で立派ではない気がしますわ」


 侍女はにこりとした。


「逃げずにいようとなさることが、ご立派なのです」


 優しい言葉だった。


 ミトは少しだけ照れて、鏡から視線を逸らした。



 朝食後、ミトは机に向かい、レオンハルトへの返事を書いた。


 交流会当日、休憩が必要になった場合は、会場奥の庭へ続く扉付近にいること。必ず侍女か護衛に伝えること。無断で席を外さないこと。会場では、リリア・フェルナ嬢に対して礼を尽くすこと。


 そこまでは、実務的に書けた。


 問題は、その後だった。


 レオンハルトの手紙にあった一文への返事。


『君が確認したいものは、私も確認する』


 これに、どう返すべきか。


 ありがとうございます、でいい。普通はそれでいい。婚約者としても、第一王子への返礼としても問題ない。


 でも、それだけでは少し足りない気がした。


 ミトはペンを持ったまま、しばらく悩んだ。


 感謝している。心強いと思っている。けれど、頼りすぎたくはない。自分で確認したい。けれど、一人では怖い。


 書けば書くほど矛盾しそうだ。


「……難しすぎますわ」


 小さく呟く。


 結局、ミトはゆっくりと一文を書き加えた。


『私も、自分の目で確認できるよう努めます。もし足が止まったときは、少しだけ背中を押してくださいませ』


 書いた瞬間、顔が熱くなった。


 これは、かなり頼っているのではないか。


 いや、頼るのとは少し違う。背中を押してほしいだけだ。見つけてほしいと書いた昨日の返事よりは、まだ控えめである。たぶん。


 ミトは便箋をじっと見つめる。


 消すべきか。


 このまま送るべきか。


 悩んでいると、扉が軽く叩かれた。


「ミト、入ってもいい?」


 エヴァルドだ。


「どうぞ」


 兄はいつものように穏やかな笑みを浮かべて入ってきた。だが、机の上の便箋を見るなり、少しだけ目を細める。


「殿下への返事?」


「はい」


「悩んでいるね」


「なぜ分かりますの?」


「顔に書いてある」


 最近、皆がミトの顔に何かを読み取りすぎではないだろうか。


 令嬢として由々しき事態である。


「変なことを書いた気がします」


「見てもいい?」


「……少しだけ」


 ミトは迷った末に、便箋を差し出した。エヴァルドは丁寧に受け取り、最後の一文まで目を通す。


 そして、少しだけ黙った。


「やはり変ですか?」


「変ではないよ」


「本当に?」


「うん。ミトらしい」


「それは良い意味ですの?」


「もちろん」


 エヴァルドは便箋を返す。


「殿下は、嬉しいと思う」


 ミトは一瞬で顔を上げた。


「嬉しい?」


「うん」


「これで?」


「うん」


 意味が分からない。


 ミトは便箋を見る。どう見ても、交流会で足が止まったら背中を押してくださいという、やや頼りないお願いである。嬉しい要素があるだろうか。


「お兄様、殿下を何だと思っていらっしゃいますの」


「ミトの婚約者」


「それはそうですが」


「そして、君が逃げるたびに見つけてきた人」


 ミトは黙った。


「見失わないために見ていた人に、背中を押してほしいと言うのは、たぶん大きな変化だよ」


 エヴァルドの声は優しかった。


 ミトは便箋を持つ手に力を込める。


 確かに、以前なら絶対に書かなかった。


 見つけないでほしかった。近づかないでほしかった。嫌ってほしかった。悪役令嬢になるために逃げていた。


 それが今は、背中を押してほしいと言っている。


 変化している。


 かなり。


「……悪役令嬢計画が遠のいていますわ」


「まだ続いていたの?」


「気持ちだけは」


「その気持ちも、そろそろ保留にしたら?」


「保留」


 ミトは瞬きをした。


 寮か通学かを決められなかったときと同じ。


 今すぐ決めない。


 悪役令嬢になるのか、ならないのか。逃げるのか、選ぶのか。レオンハルトと距離を取るのか、向き合うのか。全部を一度に決めなくてもいい。


 保留も、選択の一つ。


「……保留にします」


 ミトは小さく言った。


「悪役令嬢計画は、ひとまず保留です」


 声に出すと、少しだけ肩が軽くなった。


 エヴァルドは嬉しそうに笑った。


「それはいい判断だね」


「お兄様、嬉しそうですわ」


「嬉しいよ」


「そんなに?」


「かなり」


 隠す気のない返事だった。


 ミトは少しだけ頬を膨らませる。


「私の一大計画ですのに」


「君を幸せにしなさそうな計画だからね」


「……それは、否定できません」


 悪役令嬢になるために逃げ続けることが、自分を幸せにするとは思えない。


 それでも、そうするしかないと思っていた。


 今は、少し違う。


 まだ怖いけれど、別の道もあるのかもしれないと思い始めている。


 ミトは便箋を封筒に入れ、封をした。


 王家の使者に渡すため、侍女を呼ぶ。


 手紙が部屋を出ていくのを見送りながら、胸の奥が少しざわついた。


 届いてしまう。


 読まれてしまう。


 でも、不思議と後悔はなかった。



 昼過ぎ、カイルが庭にいた。


 今日は訓練の合間らしく、動きやすい服装で、上着を片手に持っている。庭の端で剣の手入れをしていた彼は、ミトに気づくと軽く顎を上げた。


「おう」


「ごきげんよう、カイル」


「何か今日は普通だな」


「私はいつも普通ですわ」


「どこがだよ」


 失礼である。


 だが、いつもの調子に少し安心した。


 ミトは少し離れた場所に立ち、カイルの手元を見た。剣はよく手入れされている。実用的で、飾り気は少ない。レオンハルトの持つ王族らしい剣や、ローゼンクランツ家にある儀礼用の美しい剣とは違う。使うための剣だ。


「交流会前でも、訓練はあるのですね」


「当たり前だろ」


「緊張しませんの?」


「するって言っただろ。でも訓練やめたら余計落ち着かねぇ」


「動いている方が楽ですのね」


「まあな」


 カイルは布で刃を拭う。


 その横顔を見ながら、ミトは少しだけ考えた。


 自分も、何か動いた方がいいのかもしれない。座って考えているばかりだと、怖さが大きくなる。リストを作るのも準備だが、体を動かす準備も必要なのかもしれない。


「カイル」


「あ?」


「私も、少し剣を振った方がいいでしょうか」


 カイルの手が止まった。


「急にどうした」


「学園の選択科目で、剣術訓練を候補に入れましたの」


「へえ」


「でも、最近あまり本格的には振っていません。交流会の準備で頭ばかり使っているので、少し体を動かした方が落ち着くかと思いまして」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 以前なら、目立つから剣術は避けようとしたはずだ。だが今は、必要な備えとして考えている。目立つのが避けられないなら、どう目立つかを選ぶ。その言葉が、ここにも効いている。


 カイルはミトをしばらく見ていた。


「やるなら、ドレスじゃ無理だろ」


「もちろん着替えます」


「兄貴に許可は?」


「これから取ります」


「順番逆じゃねぇ?」


「思いついたばかりですもの」


 カイルは呆れた顔をした。


「まあ、軽くならいいんじゃねぇの」


「本当ですか?」


「じっとして怖がってるよりはマシだろ」


 雑だが、もっともだった。


 ミトは小さく頷く。


「では、お兄様に相談してきます」


「木には登るなよ」


「剣の話からなぜ木に?」


「お前だから」


「不名誉ですわ」


 そう返しながらも、ミトは少し笑っていた。



 エヴァルドは、意外にもすぐ許可した。


「軽い訓練ならいいよ」


「よろしいのですか?」


「うん。最近、考え込みすぎているからね。体を動かすのはいいと思う」


「お兄様に止められると思っていました」


「危険なら止めるけど、ミトが必要だと思って選んだなら、まずは聞くよ」


 その言葉が、最近の兄らしかった。


 整えるだけではない。


 聞いてくれる。


 もちろん、完全に自由というわけではなかった。訓練用の服に着替えること。場所は屋敷内の訓練場。時間は短め。カイルか家の騎士が必ず見ること。無理をしないこと。


 条件はある。


 だが、許された。


 ミトは訓練着に着替え、髪を高く結った。鏡に映る自分は、ドレス姿の令嬢とは少し違う。身軽で、動きやすくて、少しだけ呼吸がしやすい。


 ローゼンクランツ家の娘。


 王家の盾と剣。


 そう呼ばれる家の血を引いているのだと、改めて思う。


 訓練場へ向かうと、カイルがすでに待っていた。


「本当に来たのか」


「来ましたわ」


「無理すんなよ」


「分かっています」


「あと、変な技使うなよ」


「変な技とは?」


「見えないところから剣出すとか」


 ミトは一瞬だけ固まった。


 ローゼンクランツ家に伝わる秘技。空間からレイピアを呼び出すように見える技。ほとんど外には知られていないはずのものだ。


「……なぜそれを」


「昔、ちらっと見た」


「いつですの?」


「木から降ろしたあとだったか、その後だったか。お前、慌てて何か隠してただろ」


 十歳の頃の自分に言いたい。


 もっとしっかり隠してほしい。


 ミトは軽く咳払いをした。


「それは、家の秘伝です」


「やっぱりそうか」


「忘れてくださいませ」


「無理だろ」


「なぜ皆様、忘れてほしいことほど忘れてくださらないのでしょう」


「印象に残るからだろ」


 カイルは練習用の細剣を一本、ミトへ差し出した。


「今日は普通のでやれ」


「もちろんです」


 ミトは細剣を受け取る。手になじむ重さ。久しぶりだが、不思議と落ち着く。体が覚えている。


 カイルが少し離れて構える。


「軽く打ち合うだけだ。怖くなったら止めろ」


「剣を持って怖くなることは、あまりありません」


「交流会より?」


「交流会よりは」


「だろうな」


 カイルは少し笑った。


 次の瞬間、空気が変わる。


 彼が剣を構えたからだ。


 いつものぶっきらぼうな少年ではない。護衛として、騎士として、正面に立つ者の目になる。


 ミトも呼吸を整えた。


 踏み込む。


 細剣が軽く打ち合う音が、訓練場に響いた。


 一度、二度、三度。


 久しぶりでも、体は動いた。足の運び、手首の返し、相手の剣筋を見る目。完璧ではない。少し鈍っている。それでも、頭の中に溜まっていた不安が、剣を振るたびに少しずつほどけていく。


 怖さは消えない。


 けれど、怖さだけではなくなる。


 自分には、動ける体がある。


 選べる手がある。


 受け止める力も、かわす力も、ほんの少し前へ出る力もある。


 カイルの剣を受け、ミトは一歩下がる。次の瞬間、自分から踏み込んだ。


 カイルが少しだけ目を細める。


「いいじゃねぇか」


「ありがとうございます」


「でも、肩に力入りすぎ」


「交流会のせいですわ」


「剣に持ち込むな」


「ごもっともです」


 短い会話のあと、また剣が鳴る。


 十分ほどの軽い訓練だった。


 けれど終わる頃には、ミトの呼吸は少し弾み、胸の中は朝よりも軽くなっていた。



 訓練場の端で水を飲みながら、ミトは細剣を見つめた。


「やはり、剣術訓練は取ります」


 自分の声が思ったよりはっきりしていた。


 カイルが隣で水を飲みながら、少しだけ眉を上げる。


「決めたのか」


「はい。目立つかもしれません。でも、目立つのが避けられないなら、どう目立つかを選ぶべきだと思いました」


「誰の言葉だ」


「殿下のようで、少し私の言葉です」


「なんだそれ」


「混ざりました」


 カイルは呆れたように笑った。


「まあ、いいんじゃねぇの。似合ってるしな、剣」


 その言葉に、ミトは少しだけ目を丸くした。


「似合っています?」


「ああ」


「令嬢らしくないとは?」


「別に。ローゼンクランツだろ」


 単純な答えだった。


 だが、ミトには少し響いた。


 ローゼンクランツだから。


 それは、重い家名でもあり、誇りでもある。王家の盾と剣。その家に生まれた自分が、剣を取ることはおかしくない。


 逃げるために隠すのではなく。


 守るために磨く。


 その方が、きっと自分らしい。


「カイル」


「あ?」


「交流会で怖くなったら、この感覚を思い出します」


「剣振る感覚か」


「はい。私は立てるし、動けるし、逃げる以外も選べるのだと」


 カイルは少しだけ黙ったあと、視線を逸らした。


「いいんじゃねぇの」


「雑ですわ」


「褒めてんだよ」


「分かりにくいです」


「慣れろ」


 ミトは小さく笑った。


 交流会まで、あと二日。


 怖いものは、まだ怖い。


 けれどその日、ミトはもう一つ決めた。


 剣術訓練を取る。


 目立たないためではなく。


 自分で立つために。



 夜、ミトは履修科目の用紙に印をつけた。


 魔術応用。

 剣術訓練。

 薬草学は保留。

 寮か通学も保留。


 決まったものと、決まっていないものが並ぶ。


 それでいい。


 全部を一度に選べなくてもいい。


 ミトは小箱を開け、リストに新しく書き加える。


 十四、剣術訓練を取る。自分で立つために。


 文字にした瞬間、胸の奥に小さな芯が通った気がした。


 交流会は、近づいている。


 リリアも、近づいている。


 けれど、ミトも少しずつ準備をしている。


 ドレスを選び、リボンを選び、休む場所を決め、剣を取ることを決めた。


 逃げないために。


 決めつけないために。


 そして、自分の足で立つために。


 ミトは小箱の蓋を閉じ、灯りを落とした。夜の静けさの中、指先にはまだ細剣の感触が残っている。


 それは不安を消す魔法ではない。


 けれど、明日へ向かうための確かな重みだった。

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